調所広郷 幕末薩摩藩の回天資金を創り出した男

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調所広郷・調所笑左衛門

「篤姫」では平幹二郎が演じている調所広郷。
調所笑左衛門の名で知っている人もいるだろう。そして、知っている人は、この人物のイメージは悪いのではないかと思う。

島津斉彬の政敵

明治維新を主導した薩摩藩によって、

調所自身も、数え歌で悪し様にののしられて以来、死後も、亡国の逆臣、極悪人というレッテルを貼られつづけた。称めたたえられる斉彬と、いつも対極におかれた。
佐藤雅美調所笑左衛門 薩摩藩経済官僚」人物文庫p339)

これだけではなく、調所の嫡男は姓を変えさせられている。

ここまで貶められたのは、調所広郷が(本人の意志とは関係なく)島津斉彬と結果的には政敵となってしまったからであり、その島津斉彬を精神的薫陶を受けてきた西郷隆盛や大久保利通らが明治維新を完結したからに他ならない。

実は薩摩藩回天資金を用意した男

だが、この調所広郷こそが、(これもまた本人の意図とは違っているようだが)薩摩藩を幕末期に躍動するための回天資金を用意した人であり、調所広郷がいなければ幕末の薩摩の活動はあり得なかった。

天保六年(一八三五)に薩摩藩の借金は五百万両をこえていた。

(ちなみに、天保六年は篤姫が生まれた年である。薩摩藩貧乏の局地にあった時分に生まれたのである。)

薩摩藩は公称七十七万石の大名である。

実収入はこれよりも低く、借金の利息を返済すればほぼ何も残らない状況だったようである。

つまりは収入のほとんどが借金返済に回されるので、手元には一銭も残らない。だが、これでは生きていけない。

また、利息のみの返済で元本は減ることはなかったという状況だった。根本的な解決はできなかったのだ。

会社でいえば再建見込みのない倒産状態であり、地方公共団体でいえば財政再建団体、国でいえばデフォルト宣言をせざるを得ない状態だったのが、当時の薩摩藩の状況である。

このような状況のため、薩摩藩はきわめて貧乏な暮らしを強いられていた。

参勤交代もままならず、薩摩藩の江戸屋敷は修繕もできず、外壁は修理することができず、白壁がいたるところではげおちている。

中はさらにひどく、軒が傾き、瓦はずり落ち、根太は腐り、畳もぼろぼろ、床も腐って踏み抜く恐れがあって板が敷かれている。いわば荒れ果てた屋敷同然だったようだ。

大隠居だった島津重豪は、あるとき高輪屋敷中を探させ、見つかったのが二朱銀一枚だけだったので、おれの貧乏もここまで来たかといったと言われている。

島津重豪(しげひで)

よく言われるのは、重豪の豪放磊落な性格によって、派手な暮らしをしていたせいだとか、積極的な政策によるものだとかいわれているが、これだけではここまで借金が膨らむことはなく、高利貸しから借りてしのいでいたため、利息がどんどん膨らんでいってしまった。

享和元年(一八〇一)に重豪は百二十一万両に達する借金を整理するため、上方の銀主から借りている借金の金利を安い永々銀の二朱に落とすことを決断する。借金地獄から足を抜け出すための最初のあがきである。ないものは払えぬ。だから利息を落としてもらうというものである。

だが、四年後の文化三年に江戸で大火が起き、薩摩藩は藩邸を失い、さらには、琉球からの謝恩使が参府することになっており、金が入り用になったが上方の銀主は貸してくれなかった。先だっての重豪の措置に対するものであった。結局薩摩藩は江戸で年一割の金利で金をかき集めた。あとは借金でやりくりをするしかない。

薩摩藩立て直しも上手くいかず

文化六年(一八〇九)。重豪は上方の銀主に向かって、向こう十年金利は払わないし、元金も払わないと宣言する。十年たつと同じことを繰り返すつもりだ。債務の棚上げだが、事実上の借金の踏み倒しである。

その間に立て直しを図ろうというのが重豪の魂胆だったが、うまく行かない。というのは、薩摩藩では官吏による汚職が横行し、まともに収入が上がらないでいたからである。黒鼠たちを追い出して、根本的に組織自体をてこ入れしなければならない状況にあった。

弱り目に祟り目。薩摩藩は幕府から河川工事のお手伝いを命じられ、七万七千両余におよぶ支出を余儀なくされる。

そうこうしているうちに、藩士には給金が配られない状況へと追い込まれる。依然として大手の両替屋は貸し出しを止めているままだ。

こうして、文化四年(一八〇七)に百二十六万八千両だった借金は、複利計算により雪だるま式に膨れあがり、わずか三十年の天保六年(一八三五)に五百万両になるのである。

調所広郷の抜擢

調所広郷が抜擢されたのはこうした状況であった。

重豪はつなぎの資金十万両ほどを得た後に、再度の借金踏み倒しをするつもりになっていた。まずは十万両である。その調達に調所広郷を抜擢したのだ。

その役目を断る調所広郷に対して、重豪は刀を持ち出して脅した。しぶしぶ調所広郷は引き受けることになる。

もとより十万両調達の目処などない。だが、調所広郷が訪ねてくるのを待っていた両替商がいた。出雲屋孫兵衛である。この出会いが薩摩藩にとって、そして調所広郷にとっての転機となる。

出雲屋孫兵衛らが新たな金を融資している間、調所広郷は薩摩藩の取引等を概観できる役目を与えられ東奔西走する。これが後に調所広郷が薩摩藩を再建する際に役立つことになる。なぜなら、全体を把握できたのは調所広郷だけとなっていたからである。

重豪は借金の整理を見ることなく亡くなってしまう。跡を継いだ斉興は引き続き調所広郷を重用して、薩摩藩の再建にあたらせることとなる。

そして、調所広郷が行ったのは、五百万両の二百五十年賦返済という事実上の踏み倒しである。事実上踏み倒したが、薩摩藩は律儀にも廃藩置県で藩が消滅する明治四年までの三十五年ほど返済をつづけている。

借金が消えた一方で、奄美大島などの砂糖の専売、琉球を通じての官許貿易と密貿易、そして贋金造りにまで手を出して、なりふり構わぬ立て直しを図る。

踏み倒し

調所広郷は五百万両の借金を整理(返済ではない所に注意)し、三百万両をひねり出して、このうちの百万両を備蓄に当てるまで財政を建て直したのだ。

しかし男は当時も、いまも”偉業”を称えられることがない。
佐藤雅美「調所笑左衛門 薩摩藩経済官僚」人物文庫p8)

調所広郷と斉興が恐れたのは、血の滲む思いをして溜めた金を散財して、再び借金地獄へ落とす可能性のある、斉彬の存在であった。

新しいことが好きな斉彬は、外国のものに金をつぎ込む傾向があった。そうした傾向を持つ斉彬を警戒するのは当然だったのだ。

事実、斉彬はその金を惜しげもなく反射炉や溶鉱炉の建設、大砲や軍艦の製造につぎ込んだ。その後、斉彬が病死すると、斉彬の作った工業団地は閉鎖される。技術や資本の蓄積のない状況で進められた工業化は、薩摩藩にとっては分不相応なもので、使い道がなかったのである。

この試みは斉彬の壮大な実験のようなものとして終わることになる。日本の近代化には貢献することがなかった。

調所広郷は琉球を通じての密貿易や贋金造りに関して藩主・斉興に責任が及びそうになるのを知り自害する。

斉彬に嫌われていた調所広郷はその労に対して報われることなく放置され、子供たちも同様の目にあう。そして、いまだにその業績を褒めたたえられることがない。

薩摩藩が維新の回天事業に乗り出せたのは、調所広郷による資金の備蓄と、島津斉彬の先見の明であった。

だが、資金の備蓄を行った調所広郷がいればこそ、島津斉彬の先見の明が生きたのであり、この順番が逆であれば、薩摩は維新の回天事業に乗り出すことはできなかったのだ。

島津斉彬や西郷隆盛、大久保利通らが調所広郷をいかに嫌っていたとしても、彼らが活動し得たのは調所広郷の備蓄した金であり、彼らが歴史に名を残せたのはこのお金があったことを忘れてはいけない。

調所広郷がいなければ、幕末において「薩摩藩」の名前は出てくることはなかったであろう。

この調所広郷を描いた小説として以下をあげておく

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