米村圭伍の「真田手毬唄」を読んだ感想とあらすじ

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覚書/感想/コメント

「影法師夢幻」改題。

豊臣秀頼は大坂夏の陣で死んでいなかった!

という設定で、百七十年を経た江戸時代に七代目秀頼が蘇る。

終盤になり米村圭伍作品ではお馴染みの倉地政之助が登場する。また大蜘蛛仙五郎も登場する。

時期的には「面影小町伝」から二十年が経った十一代将軍徳川家斉の時代が舞台。

豊臣秀頼生存説というのがあるらしい。

その多くが九州に残っているようで、加藤清正の熊本や島津家の鹿児島などに伝承が残っている。

本書でも取り上げられている「花のようなる秀頼さまを、鬼のようなる真田が連れて、のきものいたり鹿児島へ」という手毬唄は実際に流行ったもののようだ。

本書はこれをベースにして、実はこの手毬唄は真の落ち延び先を隠すためのダミーに流行らせたものだとして、さらなる想像を膨らませている。

作者が選んだ先が奥州。

仙台藩伊達家の領地とも領地ともいえない場所に逃げてきたという設定。

隣接するのは磐内藩。これは米村圭伍氏の「退屈姫君」シリーズで馴染みの架空の藩である。

馴染みの藩と言えば、風見藩も登場し、風見藩の山奥にある平家の落人部落の名前も登場してくる。

なぜ、仙台藩伊達家なのか?

それは、伊達家が真田幸村と深く関係があるからである。

伊達政宗の信頼篤い片倉小十郎は真田幸村の遺児・梅姫を後妻に迎えており、真田幸村の二男・真田大八が直臣として伊達家に仕えているからであろう。仙台真田家という真田幸村の子孫が現実にいた。

真田大八に関しては作中で筆者は次のように述べている。

『真田大八の生存と仙台真田家の成立は筆者の捏造ではなく、実際にあった出来事です。正確な事績をお知りになりたい方は、筆者が参考にさせて頂いた小西幸雄氏の労作、宝文堂刊「仙台真田代々記」、または同氏の筆による、学研刊「歴史群像シリーズ戦国セレクション・奮迅真田幸村」所載の記事、「幸村二男は伊達家直臣になっていた」をお読み下さい。小説よりも奇なる史実に驚かれるであろうこと請け合いです』

手毬唄が真の落ち延び先を隠すためのダミーであり、真田幸村との関係の深い仙台藩伊達家に逃げ延びたというのは、思わず唸ってしまうような計算され尽くした設定である。

こうした設定に加えて、摂津多田銀山にまつわる豊臣家の埋蔵金の話しをからめて、物語はさらに面白くなっている。

史書に載っている人物としては、真田大八以外にも逸物左近という人物を登場させており、物語にリアリティを持たせる工夫をしている。

内容/あらすじ/ネタバレ

慶長二十年(一六一五)五月。大坂夏の陣の幕が閉じた日。

豊臣家家臣大野治長配下の侍大将・勇魚大五郎は「花のようなる秀頼さまを、鬼のようなる真田が連れて、のきものいたり鹿児島へ」という手毬唄を聴いて愕然としました。

徳川家康も豊臣秀頼生存の噂を聞いて苛立っています。

勇魚大五郎は手毬唄を信じて、兵庫へ秀頼を見送りに行くことにしました。勇魚大五郎は秀頼に馬糞の味を教えた男です。

勇魚大五郎が兵庫へ向かう途中に秀頼生存の噂を知った落ち武者どもがあつまり集団となりました。「いさなだいごろう」というものが兵を率いて兵庫へ向かうというはなしが、徳川家康に伝わる頃には「真田五郎」なるものが兵を率いてと話が変わってしまいます。

追っ手には伊達政宗配下の片倉小十郎が差し向けられました…。

時は過ぎ…。

天命八年(一七八八)の初夏。百七十年後の話しです。将軍は十一代の徳川家斉です。

陸奥国、仙台藩と磐内藩の国境あたりを浪人が歩いています。浪人の名は真田大助。かの有名な真田幸村の長男と同じ名です。

この真田大助が山賊に襲われ、砦に連れて行かれました。大助は、自分こそは鹿児島へ落ち延びた豊臣秀頼に付き添った真田大助の七代目であると名乗りました。

真田大助は初代・真田大助が如何にして豊臣秀頼を逃し、そして離ればなれとなったのかを語ります。そして離ればなれとなったあと、世代を経て豊臣秀頼を探していると語りました。

果たして、砦には七代目の秀頼がいるといいます。

だが、真田大助は会わせてもらえません。なぜなら、ここには本物の七代目の真田大助がいたからです。

真田大助と名乗った浪人は、本当の名は勇魚大五郎であるといいました。これを聞いた七代目の秀頼は浪人を呼び寄せます。

砦には真田ゆかりのものが他にもいます。真田忍びの末裔でくの一・お才などです。

七代目秀頼は勇魚大五郎にある浮世絵を見せました。それは鈴木春信が描いた笠森お仙の浮世絵でした。鈴木春信が死んで二十年近くが経っています。

秀頼は笠森お仙を見たいが為に砦を抜け出し、江戸へ行くといいます。勇魚大五郎に案内を頼むといいました。

先立つものは何とやらと申します。秀頼は軍資金調達のために仙台城下へ向かいました。

世上の噂では気の遠くなるほどの太閤遺金が残っていると言われています。庶民ならず徳川家もそう考えていました。

怪しいと睨んでいたのは、摂津多田銀山です。「大事あれば掘り出してみよ摂津多田、白金の山に眠る宝を」という謎めいた歌が伝えられていますが、何も見つかっていません。

秀頼にはくの一のお才が常に従っています。

秀頼にはすでに子がおり八代目秀頼がいると言います。しかも自分は次男坊で、長男は生きているというのです。なのに、なぜ七代目秀頼を名乗っているのでしょう。

そして、秀頼は勇魚大五郎に如何にして初代秀頼がこの土地に居着くようになったのかを話し始めました。そこには伊達政宗と家臣・片倉小十郎の思惑があったのです。

秀頼は仙台城下で真田大八を訪ねました。真田大八といえば真田大助の弟で幼い頃に死んだと言われている人物です。

今の真田大八は真田四郎兵衛と名乗っています。

変事がおきたのは白石を発ち、桑折手前にある仙台藩の番所を過ぎて幕領に入った時です。誰かに監視されています。

どうやら仙台藩の黒脛巾組のようです。とすると藩主・伊達重村が動いているのかもしれません。

勇魚大五郎は取引が為されたのではないかと秀頼に言いました。この先は白河、つまり老中首座・松平定信の領地です。

秀頼はお才に命じて勇魚大五郎を催眠にかけました。勇魚大五郎の本当の名を二里馬之助といいます。

その頃、砦を囲んでいる者達がいます。仙台藩黒脛巾組です。頭領は逸物左近といいます。迎え撃つのは七代目真田大助らです。すでに襲来を予想していますから準備万端です。

秀頼は日光東照宮へ向かうと言って聞きません。こうした寄り道がたたり、砦を出てから十二日を過ぎてようやく江戸に着きました。六日で着くはずの所を随分寄り道したものです。

この秀頼一行を待ち受けていたものがいます。御休息御庭之者支配、倉地政之助と名乗りました。将軍の命によって迎えにあがったと言います。倉地の側にはお才が唸るほどの忍びの者が控えています。

徳川家斉と秀頼が対面している中、松平定信が駆け込んできました。摂津多田銀山で不穏な動きがあり、どうやら太閤遺金が運び出されたようです。

それを聞き秀頼は薄ら笑いを浮かべます。

そして、秀頼はことの真相を話し始めました…。

本書について

米村圭伍
真田手毬唄
新潮文庫 約三五〇頁

目次

第一章 落武者大五郎
第二章 隠し砦
第三章 七代秀頼
第四章 仙台真田家
第五章 黒脛巾組
第六章 血風奥州路
第七章 忍術合戦
第八章 江戸城御黒書院

登場人物

二里馬之助(勇魚大五郎)
豊臣秀頼…七代目
真田大助…七代目
お才(霧隠)…忍び
真田四郎兵衛(真田大八)
伊達重村
逸物左近
倉地政之助
大蜘蛛仙太郎…熊野忍び
徳川家斉
松平定信
勇魚大五郎
お才
猿飛佐助
岩鐵武左衛門
平助
徳川家康
本多正信
権助
芋作
伊達政宗
片倉小十郎

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