江戸城(皇居東御苑)の訪問録(東京都千代田区)天守台から大手門、大番所、本丸跡、松の廊下跡、富士見多聞など[国の特別史跡]

史跡・遺跡
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重要文化財クラスのものがあるエリア

富士見櫓など重要文化財クラスの建築物があるのに、指定されていないのが皇居東御苑。

皇居東御苑が宮内庁管轄のためで、皇室の財産や宮内庁管轄の建築物や美術品は「御物」として、文化財保護法の対象外となる。

奈良の正倉院の宝物もそうだという。

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天守閣が再建されることはなかった 実は天守閣が建っていた時期は短い

江戸城に天守閣があったのは、意外と短い期間だった。
戦国の雰囲気があった江戸時代初期のころだけであり、以後は、必要性もなく、天守閣が再建されることはなかった。

江戸城の訪問録(東京都千代田区)皇居外苑、皇居東御苑、北の丸公園[国の特別史跡]
900年の歴史を積み重ねた城江戸の街の中心にある江戸城。千代田城とも呼ばれる。最初にここに城を築いたのは平氏の秩父氏から別れた江戸氏で1150年ごろだったらしい。遺構が見つかっていないが、本丸あたりにあったのではないかと推...

江戸城本丸の一番北側に位置しています。江戸城の天守は、慶長11年(1606)の家康、元和8年(1622)の秀忠、寛永15年(1638)の家光と将軍の代替わりごとに築き直され、将軍の権力の象徴であったともいえます。

慶長の天守は、現在より南の富士見多聞のあたりに位置していたと考えられます。5層の天守の高さは、国会議事堂とほぼ同じくらいだったといわれています。

元和・寛永の天守は、現在の天守台とほぼ同じ位置にありました。
元和の天守は元和8年(1622)、2代将軍秀忠の本丸海造の際、慶長の天守を撤去して新しく建てたもので、翌9年に完成し、高さは慶長の天守を上回っていたといわれています。
寛永の天守は、寛永15年(1638)、3代将軍家光のとき、元和の天守台(現存の天守台)に建てたもので、「江戸図屏風」によると金の鯱をのせた五層の天守閣でした。

この寛永の天守は、明暦3年(1657)の火災で焼け落ち、翌年に加賀藩前田家の普請により高さ18mの花崗岩でできた天守台が築かれます。これが現在残る天守台ですが、四代将軍綱吉の叔父である保科正之の戦国の世の象徴である天守閣は時代遅れであり、城下の復興を優先すべきであるとの提言により、以後天守閣は再建されることはありませんでした。現在、東西約41m、南北約45m、高さ11mの石積みが残っています。

江戸城の天守閣は、江戸初期の50年間だけ存在したのでした。

なお、明治15年(1882)当時の気象台が天守台に設けられ各種の観測が行われていました。

史跡を巡る|皇居東御苑一周 20141026 EdoCastle

この城を書いている本

海音寺潮五郎の「日本名城伝」を読んだ感想とあらすじ

城を巡る人物模様を記した本であり、築城史ではない。各城に関しては別題があり、それに即した内容が書かれている。近世の城で実際に戦闘を体験しているのは、大阪城、熊本城、会津若松城、五稜郭しかないが、いずれも力攻めでは落ちなかった。そういう意味で、いずれも難攻不落の名城なのだ。

地図

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大手門 旧江戸城大手高麗門

大手門の形式は枡形門と呼ばれる。
大手高麗門(一の門)と大手門渡櫓(二の門)と、桝形と呼ばれる四角形の場所からできている。

桝形の中に「旧大手門渡櫓の鯱」がある。
太平洋戦争末期の1945年4月13日、渡櫓は全焼しており、1965~67年にかけて復元工事を行った。

高麗門はほぼ江戸時代の様子をとどめている。

宮内庁三の丸尚蔵館と大手三の門

皇居東御苑の散歩の開始。
この日、思った以上に歩く結果になってしまった。

大手三の門は、大手門から三の丸尚蔵館の前を過ぎた正面のところににあり内側には同心番所があります。この門も本来は枡形門で、両側和水堀でした。
ここを駕籠に乗ったまま通ることができたのは、尾張・紀伊・水戸の徳川御三家だけで、それ以外の大名はここで降ろされ、検問を受けました。このことから、この門は下乗門とも呼ばれました。

同心番所 大手三の門を警固する与力・同心がつめていた

大手三の門を過ぎるとすぐにあるのが同心番所。

同心番所には大手三の門を警固する与力・同心がつめていました。同心とは、江戸幕府の諸奉行・所司代・城代・大番頭などの配下に属し、与力の下にあって、庶務・警備の仕事をしていた下級役人を総称したものです。

同心番所の屋根瓦の一番高いところには、徳川家の葵御紋の妻瓦があり、軒先は普通の三巴紋の瓦となっています。

百人番所 甲賀組、根来組、伊賀組、二十五騎組の4組が守っていた

甲賀組、根来組、伊賀組、二十五騎組の4組が護りを固めていた場所。

長さ50メートルを超える百人番所です。大手三の門を守衛した江戸城本丸御殿最大の検問所でした。鉄砲百人組と呼ばれた根来組、伊賀組、甲賀組、廿五騎組の4組が交代で詰めていました。各組とも与力20人、同心100人が配置され、昼夜を問わず警護に当たりました。

同心が常時100人詰めていたところから百人番所と呼ばれるようになったといわれています。

江戸城遺構に関する案内図

江戸城というのがいかに巨大な城であったかがわかる。
いわゆる皇居と言われる場所は、かつての江戸城の一部分でしかない。

大番所 中之門警備のための詰所

本丸へと通じる中之門警備のための詰所で大番が詰めていた。

百人番所、同心番所とこの大番所の三つが残っています。大番所は大手中之門の内側に設けられ、他の番所よりも位の高い与力・同心によって警備されていたといわれています。江戸城本丸へは最後の番所であり、警備上の役割はきわめて重要であったと考えられています。

皇居展望台から

展望台からの風景。
丸の内のビル群を望む。

富士見櫓

小さな城の天守ほどの大きさ。

櫓は数多くあったそうだが、度重なる火災や地震による損害で、現存するものは伏見櫓、富士見櫓、桜田巽櫓の三つだけ。
旧本丸の東南に位置する。品川の海や富士山がみえたそうだ。
万治2年(1659年)の再建。

「忠臣蔵」で有名 殿中でござる!殿中でござる! 松の廊下跡

松之大廊下(まつのおおろうか)は、江戸城内にあった大廊下のひとつ。

本丸跡左手の現在は木立となっているところに、本丸大広間と白書院(将軍との対面所)を結ぶL字形の廊下がありました。これが「松の廊下」です。

ここが「忠臣蔵」で有名な元禄14年(1701)3月14日、赤穂藩主の浅野匠頭長矩が高家衆筆頭の吉良上野介義央に斬りかかる刃傷事件が起きた場所です。

上野介は軽傷でしたが、殿中での刃傷はご法度であったので、内匠頭はその日のうちに切腹となりました。その後、赤穂藩は取りつぶしとなり、家臣たちは浪士となりました。

一方、上野介には御咎めはなく、お家の再興も退けられた浪士が大石内蔵助の頭に亡君の仇討を計り、元禄15年(1702)12月15日に吉良邸に討ち入り本懐を遂げました。

この事件の発端となった、松の廊下は本丸で二番目に長い廊下といわれ、西へ約19メートル、北へ約31メートル、幅は約5メートルであったと伝えられています。障壁画に「松」を主題にした絵が描かれていたことから「松の大廊下」と呼ばれていました。

忠臣蔵・赤穂浪士もの

富士見多聞

堀側から見ればよかったと思った。
裏から見ると単なる倉庫。
一般参賀などの皇居公開時には外側(蓮池堀側)から富士見多聞を見ることができるそうだ。
見られる時期は限られるということ…。

多聞とは、防御と装飾とを兼ねた長屋作りの武器庫で、本丸には十五棟の多聞が有りましたが、現在残っているのは、この富士見多聞だけです。

石室 石作りの蔵

抜け穴とか、金蔵とか諸説があるそうだ。

富士見多聞北側の蓮池濠沿いにある石作りの蔵です。江戸城の遺構の中では比較的小さなもので、表の石組には焼けたような痕があり、多少ずれています。
入り口には扉を取り付けた穴があり、内部は20平方メートルほどの広さとなっています。伊豆半島産の安山岩(伊豆石)の切石で、隙間もないほどキッチリと壁が造られています。江戸城の抜け穴や御金蔵との説もありますが、場所柄から、火災などの際に貴重品などを避難させた蔵と考えられます。

本丸・表御殿跡 江戸幕府の政治の中枢があった場所

江戸城の真の姿は、ここにあった本丸御殿である。
江戸幕府の政治の中枢が、ここにあった。

江戸城本丸跡には広々とした芝生が広がっています。本丸御殿は、表・中奥・大奥の三つからなっていました。表御殿は、諸役人の執務や将軍の謁見の場など公的な建物で、最も格式の高い「大広間」は正月などに諸大名が参集する場所でした。

明治維新の直後、本丸跡は焼け野原で、第二次大戦後も野菜畑や桑畑の時代もありました。
本丸跡は気象台発祥の地でもあり明治期から昭和30年代まで気象庁の官舎もありました。明治4年(1871)正確な時間を知らせるために、ここに午砲台(ドン)が設置され、昭和4年(1929)に廃止されるまで、「ドン」の愛称で東京府民に親しまれていました。

北詰橋門と北桔橋

いったん皇居東御苑を出て、平川橋へ向かう。

内濠(平川濠・乾濠)に架かり、皇居東御苑の北側にあります。江戸城北桔橋門の橋で、有事に備えて橋が跳ね上がる仕組みになっていました。太田道灌の時代には、この付近が城の大手(正面)であったと伝えられています。江戸時代は門を入った所に江戸城本丸の天守閣がありました。現在は、冠木門と橋だけが残っています。

平川門

平川橋を渡り、再び皇居内に入るために平川門をくぐる。

江戸城の鬼門にある門で、死人や罪人はこの門から外へ出された。また、本丸の大奥から一番近かったので、奥女中が使う門として、お局御門とも言われた。

江戸城の門は門限が決まっており、不定時法で明け六つに開門、暮れ六つに閉門となっていた。逸話として、閉門時間に間に合わなかった春日局が平川門の外で一夜を明かしたというものがある。

一部しか見えない天神濠

一部しか見えない天神濠。
平川門内で平川濠と接し、本丸の北東辺と二の丸の北側を守る。

諏訪の茶屋 明治期の茶室風の建物

江戸時代に吹上地区にあったものを、皇居東御苑の整備にあたって移されたもの。
建物は明治45年に再建された。
明治期の茶室風の建物として優雅な外観を持っている。

二の丸庭園 小堀遠州が造営した庭園を模したもの

二の丸には小堀遠州が造営した庭園があったそうだ。
現在の回遊式の庭園は、昭和43年の皇居東御苑の公開にあたり、徳川家重時代に作成された庭園の絵図面を参考に造られたもの。

皇居正門石橋旧飾電燈

二重橋の手前側の石橋に設置されていた飾電燈のうちの1基。
据付けられたのは1888(明治21)年、点灯開始は1893(明治26)年から90年以上の1986(昭和61)年まで。

白鳥濠

本丸と二の丸の間に唯一残っている濠。

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