天璋院篤姫 幕末の薩摩藩から将軍家に輿入れした御台様の生涯

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はじめに

天璋院とは、夫であった十三代将軍徳川家定(一八二四~一八五八)が亡くなったことによって与えられた院号である。

生まれた時は「於一(おかつ(一子:かつこ))」と命名され、島津宗家の養子となった時に「篤姫」と改めて幕府に実子として届けられた。

その後、公家の近衛家の養女となり、「篤君」と改称して「敬子(すみこ)」の諱を賜る。将軍家の縁女(許婚)となると「篤姫君」と呼ばれ、婚礼以後は将軍正室の尊称である御台所から「御台様」と呼ばれるようになる。

そして、徳川家定の死により「天璋院」と称するようになる。

この「天璋院」が四十九歳の生涯の中で二十五年も呼ばれる呼び方となったのだ。

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天璋院の生涯のポイント

天璋院の生涯にはポイントとなる箇所がいくつかある。

1.島津宗家の養子となる
2.将軍家の正室となる
3.和宮降嫁
4.江戸城開城
5.明治時代

このそれぞれを見ていこうと思う。

天璋院の容姿については写真が現存している。骨太でがっちりした体型がわかる。

対面したことのある松平慶永は「丈高くよく肥える御方」という印象を残し、巷間でも「御身目量十八貫目」と噂されていた。十八貫目というとおよそ六十七キログラムになる。

健康にも恵まれ、大きな病気は麻疹くらいだったようだ。

性格に関しては、幕末に鳥羽伏見の戦い後に後始末を託された一人・大久保一翁の愚痴が残されており、男性のように気性が激しく、自己主張を押し通すタイプだったようである。その一方で周りへの気配りもできる人物だったようだ。

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島津宗家の養子となるまで 天保六年(一八三五)一歳~嘉永六年(一八五三)十九歳

注)年は数え年

天璋院の実父は島津忠剛(ただたけ)である。

忠剛は薩摩藩九代藩主・島津斉宣の七男に生まれ、今和泉家の養子となった。今和泉家は指宿に一万四千石ほどを領地としている。
母は島津助之丞久丙の娘でお幸と呼ばれたといわれている。

天璋院が生まれた天保六年の将軍は十一代家斉で、御台所は薩摩藩八代藩主・島津重豪の娘・寔子(ただこ、茂姫、院号は広大院)であった。

その後、十二代将軍家慶を経て十三代将軍家定となる。

通説では、島津斉彬が篤姫を家定の御台所に輿入れさせた目的は、篤姫から家定に一橋慶喜を世嗣にするためといわれているが、将軍家から縁談が申し込まれたのは家定の二度目の正室が亡くなって間もない嘉永三年(一八五〇)秋のことといわれ、これまでの通説に疑問が残るようである。

つまりは後嗣問題が起きる前から打診があったということになるからだ。

この時、実子に限定すると、島津本家には夫と死別して実家に戻っていた勝姫がいたが、曖昧なままとなったようである。他に適当な候補者がいなかったため、親戚の陸奥八戸藩主・南部信順(島津重豪の十三男)の娘、出羽新庄藩主・戸沢正令(正室が島津重豪の十一女貢姫)の娘、島津斉彬の異母弟・久光の娘お哲と、島津忠剛の娘・於一が候補としてのぼった。

だが、島津斉彬が藩主になった嘉永四年には、南部の娘は一門の垂水島津貴敦と婚礼を済ませており、候補から外れる。

嘉永四年三月、京都で島津斉彬が藩主として鹿児島入りする途中で、近衛忠煕に会った時に、於一を候補として考えるようになったとも、同年の十二月十五日に、島津斉彬はお哲と於一と引見したときに気に入ったともいわれている。

いずれにしても、島津斉彬は於一を気に入り、自分には国許に娘が一人おり、病身だったので実子届けをしていなかったが、帰ってみると健やかに育っているので、ここに実子届けをしたいと幕府に届けることにした。事前のすりあわせは終わっていたようである。

嘉永六年(一八五三)三月。島津斉彬は於一を養女にして篤姫と改名、実子として幕府に届け出る。

篤姫は十一代将軍の御台所だった広大院の幼名である。それにあやかった名前であった。

篤姫は六月五日に今和泉家から鶴丸城に移り、同年八月二十一日に鹿児島を出発。十月二十三日に江戸に到着し、芝の薩摩藩邸に入る。

篤姫が江戸に出立する前、大奥の上臈御年寄・姉小路から摂家・二条家からも縁談があったとの知らせが舞い込む。これは幕府側で断ったようである。そして、いよいよ縁組みが進むかと思っていたら、ペリーの浦賀来航、十二代将軍家慶が死去という不幸があり、縁談どころではなくなる。

だが、こうした混乱の中、島津斉彬は篤姫を予定通り江戸に向かわせることにした。

参考:薩摩藩の江戸屋敷は、外桜田幸橋御門内に上屋敷があるが、芝新馬場に中屋敷、芝新堀、下高輪、中渋谷に下屋敷、下渋谷、下高輪に抱屋敷があったが、藩主と家族は芝屋敷に住んでいた。

幕府にとっても島津家との縁組みは得をする部分がある

当時、広大院の弟や甥で現役の藩主が五人おり、妹や姪で藩主夫人となっているのが十人おり、いずれも健在であった。つまり、島津家の娘を御台所に迎えるだけで、十五の大名家との関係が強固となるのである。

島津家にとっても、特に島津斉彬にとってもこの縁組みは有効なものであった。幕府から密貿易の嫌疑をかけられるなどの課題に含め、家格が広大院在世中より低下しているのも問題であった。家格が元に戻るのは、篤姫が御台所となった安政三年(一八五六)十二月から二ヶ月後のことであった。

大奥で、家定の生母・本寿院は、島津の分家筋の娘であれば、正室ではなく側室でいいではないかと考えていたようである。こういう点も考慮して、島津斉彬は篤姫を実子として届け出、公家の近衛家の養女としたのであった。

その一方で、大奥の上臈御年寄・姉小路から水戸斉昭に送った書状の中では、大奥の主の必要性を訴えている。大奥の役割が強化され、儀礼行為の重要性が高まると、主の不在は不都合となる。大奥にとって「御台所」が必要であったのである。

つまり、この縁組みで幕府と薩摩藩は何らかの得をし、大奥も新たな主を得て安定することになるのであった。

将軍家の正室となるまで 嘉永六年(一八五三)十九歳~安政三年(一八五六)二十二歳

安政元年(一八五四)に帰国していた島津斉彬のもとへ、老中の阿部正弘から出府の達しが届く。この出府の際に西郷吉兵衛(後の隆盛)が加えられている(西郷は出府の翌月には庭方役を拝命し、水戸家との連絡が最初の仕事だったようである)。

この時、一月十六日にペリー艦隊が予定より早く江戸湾に現われていた。交渉の結果、下田と函館を開港し、下田に領事館を設置するとこで合意し、日米和親条約が締結されることになる。この三日後に島津斉彬は江戸に到着したのだった。

そして、出府したものの、阿部正弘からは音沙汰がないままとなる。

安政二年(一八五五)には婚儀とされたが、十月二日に江戸を襲った安政の大地震によってさらに延期となる。

薩摩藩の芝屋敷も半壊したため、篤姫たちは渋谷の別邸に移ることになる。

同年十二月十六日に松平慶永が薩摩藩邸をたずね、篤姫とあっている。「丈高く、よく肥り給える御方であった」というのが感想だったようだ。

安政三年(一八五六)の七月に右大臣近衛忠煕の養女となった証として「篤君」と改称して「敬子(すみこ)」の諱を賜る。そして同年十一月十一日に渋谷別邸から江戸城大奥へ輿入れする。十二月十一日の結納を経て、十八日に婚礼式を挙げる。先延ばしになっていた縁組みがまとまった裏では松平慶永の尽力もあったようである。

天璋院二十二歳、徳川家定は三十三だった。

大奥に入った篤姫だが、大奥には家定の生母・本寿院がいた。本寿院は篤姫にとって最も長い時間をともに過ごした人物である。江戸城内でも一時期を除き同じ曲輪内に居住場所を持ち、江戸城開城後も一橋邸から千駄ヶ谷屋敷へと行動を共にすることになる。

篤姫が「御台所」になり「御台様」付の女中の母胎となったのは、家定の御簾中付女中であった者達であった。他に島津家から幾島(つぼね)ら五人が御台様付になっている。

篤姫が輿入れした時点で、将軍家定の後嗣問題が浮上していた。

候補となっていたのは、紀伊家の徳川慶福十三歳と一橋慶喜二十二歳だった。

慶福を推すのを南紀派と呼び、中心は井伊直弼、松平忠固らの反徳川斉昭勢力であった。

一方、慶喜を推すのを一橋派と呼び、老中首座の阿部正弘、松平慶永、島津斉彬ら、開明派官僚や外様雄藩の藩主が中心であった。篤姫の輿入れは一橋派にとって期待の出来事だったのだ。

これに条約勅許にかかる対外問題が絡み、幕末の複雑な政治情勢をもたらすことになる。

和宮降嫁まで 安政三年(一八五六)二十二歳~文久二年(一八六二)二十八歳

徳川慶福と一橋慶喜の後嗣争いにおいて、大奥の反応は明らかに慶福寄りだった。それはイコール水戸の徳川斉昭嫌いでもあった。斉昭は上臈御年寄唐橋とのスキャンダルがあり、評判が地に堕ちていたのだ。また、将軍家定自身も斉昭を嫌っていた。

慶喜を世嗣にするようにするには、大奥の形勢を逆転させる必要があった。島津斉彬が期待したのは輿入れした篤姫である。

島津斉彬は篤姫を助ける女中として、幾島を江戸城に送り込んだ。幾島は薩摩藩江戸上屋敷に老女・藤田として勤めていたことがあった。島津斉興の養女・郁姫が近衛忠煕に輿入れするのに付き添い上洛する。郁姫の死後は得浄院と称して京にとどまっていたが、斉彬はこれを還俗させて、幾島を名乗らせる。幾島はその後篤姫が御台所となると「つぼね」を名乗ることになる。

この「つぼね」は薩摩藩邸の老女・小の島、園川と連絡を取り合い、大奥の様子が逐一斉彬に伝わるようになっていた。

「つぼね」を巡っては幕府と島津家・近衛家の思惑が入り乱れる。格を考えれば「つぼね」は老女ではなく、中年寄が妥当な所であった。幕府としては島津家から送り込まれる女中に大きな顔をしてもらいたくないというわけである。

一方で、島津家と近衛家にしてみれば「つぼね」を篤姫の単なる世話役ではなく、将軍後嗣問題の大奥におけるパイプ役を期待しているのである。そのため外部との交渉に有利な老女を強く望んでいた。

結局、間に周旋が入ることで「つぼね」は老女となる。

安政四年四月、島津斉彬は参勤交代で鹿児島へ発つ。同年六月十七日。後嗣問題が片づかない中、病床にあった阿部正弘が死去する。一橋慶喜を推す派にとっては痛恨事であった。

阿部亡き後の政局が一変すると予想した島津斉彬は、急いで一橋慶喜の擁立をはかる。島津斉彬は松平慶永の大奥工作を助けさせるために西郷隆盛を出府させている。大奥ルートは松平慶永以外にも、宇和島藩主・伊達宗城もあたっていた。

だが、幕閣は一橋派にとって不利な形勢になっていくばかりであった。

篤姫も家定の生母・本寿院の説得にかかったことがあったようである。だが、本寿院に一橋が世嗣になったら自害するといわれ、諦めざるを得なかったといわれている。この中、篤姫と斉彬の間でのやり取りは、幾島(つぼね)と西郷を介して行われていたようである。

この時の篤姫については、多少情報が錯綜している。

養父・島津斉彬が目論むように一橋慶喜を後嗣にできなかったことに関して、力及ばず残念に思うという書状があり、養父・島津斉彬の意図を貫徹していたのだという意見がある。

一方で、篤姫は同じく養父である近衛忠煕に、将軍後嗣に関する降勅を出さないで欲しいという内容の手紙を出しており、この手紙が一橋慶喜を後嗣にしてもらいたくないという篤姫の考えであったという意見もある。

さらに、「つぼね」から近衛忠煕に篤姫に大局を見るように叱責して欲しいという書状も送られており、篤姫が一橋慶喜擁立に反対とする根拠にしている。

このように、将軍後嗣問題に関する篤姫の態度には真逆の意見がある。

篤姫が島津斉彬の密命を帯びて輿入れし、密命に従って行動をしたと考える場合と、篤姫は輿入れした時点で徳川家の人間となる決意をして行動したと考える場合での差なのであろうか?

新しい研究が必要となる部分である。

ちなみに、宮尾登美子氏の「天璋院篤姫」はこの折衷案的である。初めは島津斉彬のいうように一橋慶喜を推すべく大奥にあがったが、大奥に入り一橋慶喜と徳川慶福の両方に会うことでそれぞれの人物を確かめ、一橋慶喜を二心あるものとして警戒するようになったと書かれている。

私は、宮尾登美子氏のように、途中で見方が変わったのではないかと思う。大奥にはいることで新しい情報が加わり、多角的に人物評をできるようになったのではないだろうか。

また、個人的には、後年天璋院となってからの篤姫が十四代将軍家茂に信頼され、大奥をよく束ねたのを考えると、この時点で一橋慶喜を強く推していたというのは疑問に思ってしまう。

将軍後嗣問題は政争であり、大奥でもこの政争が繰り広げられていたのならば、いくら将軍の御台所とはいえ、政争に敗れてもなお大奥の実権を握るとは考えにくいと思うからである。

かつて大奥では上臈御年寄・姉小路が権勢を誇っていたこともあり、その様子が風刺画として残されていることを考えると、大奥においても実質的な権力の移動というのはあり得たのではないかと考える。

しかも、将軍後嗣問題の次には和宮降嫁が短期間でやってくる。和宮降嫁に関しては篤姫が大奥を代表して動いている風であるので、この時点では大奥を完全に支配していたことになる。

政争で敗れたとしたら、この短期間での権力回復は考えにくく、将軍後嗣問題が解決した後も権力の移動がなかったと考えるのが筋なのではないかと思う。

すると、最初から政争で敗れない方についていたと考えるのが自然な気がするが、如何だろう?

結局、将軍後嗣問題で一橋派は敗北する。井伊直弼が大老に就任し、安政五年紀伊の徳川慶福が世嗣に内定する。

ついで、六月十九日に日米修好通商条約を迫るハリスの要求に屈して条約に調印してしまう。これに一橋派が憤激して井伊を詰め寄るが、井伊直弼はこの後に一橋慶喜らを登城停止、水戸斉昭に謹慎、松平慶永ら隠居謹慎に処し、一橋派と目された幕臣や公卿を処罰する。ここから安政の大獄が始まる。

この直後の安政五年(一八五八)七月六日に徳川家定が逝去する。篤姫の結婚生活は家定の逝去により、わずか一年半で終わりを迎える。そして追い打ちをかけるように同年七月一六日に島津斉彬が死去する。

篤姫は家定の死により従三位に叙せられ、剃髪して天璋院と称することになる。

徳川慶福は家茂と名を改め、十三歳で将軍となる。

幼年とはいえ、聡明で、八代将軍吉宗の再来かといわれたようだ。

天璋院は家茂を支え、家茂も天璋院を信頼していた。大奥も天璋院を中心に家茂を支えていることで結束していた。

将軍が代替りをするので、本来なら天璋院は西丸か二丸に隠居するのが普通である。だが、家茂が幼く御台所もいないので、養母の天璋院はそのまま本丸に残った。

この頃、安政の大獄のために幕府と朝廷の間に深い溝ができていた。

そこで考えられたのが、皇女降嫁であった。公武合体により、政情の安定化を図り、幕府と朝廷の一体をアピールするねらいである。この融和策は家茂が将軍に就任して間もない頃に浮上していた。

これが緊急の課題となるのは、井伊直弼が桜田門外で暗殺された直後からである。大老が暗殺されるという幕府の威信が失墜するような出来事を回復する必要性に迫られたのである。皇女降嫁がなれば、有効な切り札となる。

降嫁の対象となったのは、先帝仁孝天皇の皇女敏宮と和宮、孝明天皇の皇女富貴宮の三人だったが、富貴宮が薨去され、敏宮は年齢が三十二歳で家茂との年齢差に問題があって、和宮に絞られた。

万延元年(一八六〇)四月に幕府は和宮降嫁を申し入れる。天皇は降嫁請願を二度却下し、和宮自身も不承知であった。だが、朝廷は幕府からの申し出を逆手に取り、朝廷の権力回復を図ろうとした。和宮降嫁と引き換えに攘夷の実行を迫ることになる。

和宮降嫁にあたり、いくつかの条件が幕府に突きつけられた。

大奥にあっても和宮の周辺は御所風にすること。大奥に同居人がいるのは不都合なので、天璋院や本寿院は別殿に移ること。天璋院や本寿院との対面や往来は行わず、使者ですませる。などであった。

だが、和宮降嫁後も天璋院と和宮は一年以上も本丸で同居している。こうした状況にもかかわらず和宮側からは苦情が申し立てられた様子もないので、事前にすりあわせがなされたようである。

もっとも、条件を出す和宮の降嫁に天璋院は反対だったともいわれている。

下向に先立ち、和宮に内親王宣下がなされ、「親子(ちかこ)内親王」となっている。この時点で天璋院より位が高くなってしまった。また、和宮は「御台様」と呼ばれるのを嫌い「和宮様」とよぶように発令させている。

一つのエピソードとして、天璋院と和宮の初対面の話がある。天璋院が茵(しとね)に着座して上座に着いたのにたいして、和宮の席は左脇下座に設けられ茵もなかったという。和宮はこれを悔しく思い涙を流したといわれている。

内親王にこだわる和宮と姑の立場にこだわる天璋院との対立は、それぞれについている女中を含めて深まるばかりとなる。

文久三年(一八六三)八月。突如天璋院が本丸御殿から二丸御殿に引き移る。傍目には「嫁が姑を追い出した」ように見えるため、そのような陰口もあったようである。

これは、天璋院が本丸御殿から動かないので、和宮が召し使い部屋に住んでいるという噂が京都に伝えられ、善処の要望が天皇から発せられたかのように天璋院に伝わったが為に起きたことであった。だが、和宮はこのことに関与しておらず、急に出ていく天璋院を引き留めようとしたようである。

おそらくは和宮付の女中が京都へ意図的に流した情報が発端なのであろう。意図的というのは、和宮が召し使い部屋みたいな所に住んでいたはずがないからである。

江戸城開城まで 文久二年(一八六二)二十八歳~明治元年(一八六八)三十四歳

文久二年(一八六二)に幕府は参勤交代制度を緩和している。それにもかかわらず、薩摩藩や土佐藩が参勤交代の時になってもぐずぐずし、なかなか出府しようとしない。天璋院の催促にも応じず、幕府の措置にも従わないという状況になる。

慶応元年となると、薩摩藩は天璋院の懇願にもかかわらず、出府を渋り、さらに江戸屋敷の奥女中の大量削減に踏み切る。天璋院と幕府との距離を置くのが明白な措置であった。翌二年には薩長同盟が成立していた。

文久三年二月。将軍家茂は和宮降嫁の条件である攘夷を迫られ、京へ上洛する。将軍自ら上洛するのは三代将軍家光以来である。滞在は三ヶ月に及んだ。この滞在の間、天璋院らとのやりとりがあったようである。

六月に家茂が江戸に戻ってきたと思ったら、十二月に再び上洛することになる。

この上洛の際に、家茂は海路で向かうことになるが、大奥では天璋院をはじめとして反対の意見が強かった。そこで、異例ながら老中が大奥に出向いて説得をしたという。この時に大奥を代表していたのが天璋院であったことから、御台所である和宮よりも天璋院の方が大奥での発言が強かったことが分かる。

慶応元年(一八六五)五月。家茂が長州再征のため三度目の上洛をする。すでに水面下では薩長同盟がなされていた。そして病に倒れ、翌慶応二年(一八六六)七月二十日に大坂城中で死去。享年二十一歳だった。

和宮にとってはわずか四年の結婚生活であり、ともに過ごしたのは二年足らずであった。十二月に剃髪し、和宮は天皇からたまわった「静寛院」を称することになる。

家茂が上洛する前に、御年寄の滝山に田安亀之助を跡目にしたい旨を和宮に伝えるように内命している。亀之助は田安慶頼の子で四歳だった。天璋院も亀之助の擁立にこだわっていたようである。一方で、和宮は老中の板倉勝静、京都守護職の松平容保らと一緒に一橋慶喜を推していたとも言われている。

結局は一橋慶喜が後嗣となることが決まる。ちなみに、亀之助は戊辰戦争後に徳川宗家を相続することになる。

十二月五日に慶喜が将軍宣下を受け十五代将軍となる。この直後に孝明天皇が崩御する。

天璋院は度々起きた江戸城の火災によって住居を移動している。そうした中で頼りになっていたのは薩摩藩からの手当金であった。

島津斉彬の時代には毎年五百両に上る大金を送っていたようであるが、忠義の代になると途絶えることになる。斉彬の死後、天璋院への薩摩藩の対応が変化したことが読取れる。

元治元年九月。薩摩藩の西郷隆盛と幕臣の勝海舟が対面する。勝海舟は初対面の西郷に向かって幕府には政権担当能力がないことを言い切る。

これ以降、薩摩藩は幕府を見限り、ついには鳥羽伏見の戦いで幕府軍の圧倒的に有利な状況にもかかわらず徳川慶喜は逃げだし、江戸へ逃げ帰ってしまう。

慶喜は隠退の決意と後継者の選定、謝罪などを朝廷に伝えることを和宮に頼むことになる。

この頃、徳川家の処分を巡って寛大な処分を求める意見と厳罰に処すべきとの意見が対立する。結局は厳罰に処分すべきとの意見が通り、和宮からの書状は無視され、討幕軍が江戸へ向かった。

天璋院は討幕軍の参謀だった西郷隆盛にあてて書状をしたためた。天璋院が訴えたのは徳川家の存続につきている。この書状は西郷隆盛と勝海舟との会談の前に西郷隆盛に届けられた。そして、江戸城攻撃の中止へとつながる。

天璋院と西郷隆盛が初めて対面するのは江戸城開城後である。

この江戸城開城に関しては、小説「天璋院篤姫」やその関連書籍では天璋院から西郷隆盛に宛てた手紙が功を奏したかのような書かれ方をしているが、実際には、江戸城無血開城の交渉の場にいた西郷隆盛と勝海舟を斡旋に努めたのは、イギリス公使パークスとアーネスト=サトウであった。

内乱が拡大する事によって、貿易への悪影響が出るのを警戒して、江戸城への総攻撃を反対していたのがパークスで、西郷はパークスの意向を知って態度を軟化させたとされるのが一般的のようだ。

明治時代を生きる 明治元年(一八六八)三十四歳~ 明治十六年(一八八三)四十九歳

慶応四年四月十一日。江戸城の明け渡しと徳川家の家名存続が許され、それに先だって、和宮は九日に田安邸に移り、十日に天璋院が一橋邸に移った。持ち物は一切を大奥へ残したままだった。

田安亀之助が徳川宗家を相続し、名を家達と改名する。駿府に七十万石を与えられ、明治二年(一八六九)に版籍奉還で静岡県知事となり、明治四年(一八七一)に廃藩置県で職を解かれた。家達九歳の時であった。

明治二年の正月には和宮は京都へ戻っていた。天璋院は薩摩に戻ることなく、一橋邸の後、一橋家下屋敷の築地邸、紀伊家の青山邸、尾張家下屋敷の戸山邸、明治四年に家達が静岡から戻ると赤坂溜池に近い旧相良藩邸に落ち着く。

明治十年(一八七七)に千駄ヶ谷に新築された徳川邸に移り、終の棲家となる。この徳川邸は全体で十万坪ほどあったようだ。また、家定の生母本寿院や家茂の生母実成院と行動を共にしていたようである。

明治十年の六月に家達はイギリスへ留学するが、それまでは天璋院が母親がわりになって養育にあたっていた。

千駄ヶ谷の徳川邸に移る前の旧相良藩邸は勝海舟邸と近く、親しく行き来しあっていたようである。

和宮は帰京した明治二年に天皇と皇后が東京へ移り住んだため、明治七年に東京へ戻り、天皇の近親として厚遇されたようだ。家達や天璋院らとも親しく交際を重ねていたらしい。

その和宮が脚気を発病したのが明治十年のことであり、俄に悪化して同年九月二十日に亡くなる。享年三十二歳だった。遺骸は生前の希望により、家茂の眠る芝増上寺に葬られた。

天璋院はイギリスへ留学中の家達を呼び戻し、明治十五年(一八八二)の十一月に婚礼をあげさせた。家達の相手は近衛泰子。祖父は天璋院の養父近衛忠煕、父は近衛忠房、兄に近衛篤麿がいる。篤麿は近衛文麿の父である。

二年後の明治十七年に家達の長男家正が誕生するが、天璋院はその前年の明治十六年(一八八三)十一月二十日に療養中の中風が悪化して四十九歳で亡くなった

天璋院篤姫を描いた本

宮尾登美子の「天璋院篤姫」

宮尾登美子の「天璋院篤姫」を読んだ感想とあらすじ
十三代将軍徳川家定の御台所(正室)で、その後江戸城の無血開城を迎えるまで大奥を束ねていた天璋院(てんしょういん)篤姫(あつひめ)が主人公の小説。

畑尚子の「幕末の大奥 天璋院と薩摩藩」

畑尚子の「幕末の大奥 天璋院と薩摩藩」を読んだ感想
「はじめに」に述べられているが、著者が天璋院に出会ったのは宮尾登美子氏の「天璋院篤姫」によってだったという。小説「天璋院篤姫」が刊行された昭和五十九年当時は、大奥の研究が停滞期にあった頃で、明治期に出版された「旧事諮問録」「千代田城大奥」といった聞書きと、三田村鳶魚の「御殿女中」が大奥研究のバイブルであり、研究はその域を出ないとされていた時分だったようだ。

鈴木由紀子の「最後の大奥 天璋院篤姫と和宮」

鈴木由紀子の「最後の大奥 天璋院篤姫と和宮」を読んだ感想
幕末に徳川家に嫁いできた二人の女性。13代将軍家定の正室・篤姫(剃髪後は天璋院)と14代将軍家茂の正室・和宮(剃髪後は静寛院宮)である。二人とも短い結婚生活で夫に先立たれており、後ろ盾となる身内もなくしている。本書はこの二人のうち、篤姫にスポットを当てている。

天璋院篤姫略年譜

天璋院篤姫を追いかける上で、略年譜を書いておこうと思う。
年齢は数え年。

天保六年(1835)一歳

  • この年の十二月に、薩摩藩主・島津家一門の今和泉領主・島津忠剛の長女として、鹿児島城下の鶴丸城城下に生まれる。一子(かつこ)と命名。

天保八年(1837)三歳

  • 大塩平八郎の乱。

天保十年(1839)五歳

  • 蛮社の獄。
  • 〔外国〕イギリス、チャーチスト運動。

天保十二年(1841)七歳

  • 水野忠邦による天保の改革本格化。
  • 〔外国〕清、アヘン戦争真っ只中。

天保十四年(1843)九歳

  • 水野忠邦失脚。阿部正弘が老中首座となる。

弘化元年(1844)十歳

  • フランス軍艦が琉球へ来航し開国要求。

弘化三年(1846)十二歳

  • 孝明天皇皇位継承。閏五月、和宮誕生。

嘉永元年(1848)十四歳

  • 〔外国〕フランス二月革命。共産党宣言発表。

嘉永四年(1851)十七歳

  • 島津斉興隠居。島津斉彬藩主となる。
  • 〔外国〕清、太平天国の乱の最中。

嘉永六年(1853)十九歳

  • 三月に島津斉彬の養女となり、篤姫と改名して幕府に実子届け提出。
  • 今和泉家から鹿児島城に入る。八月に鹿児島を出発し、江戸芝藩邸に到着。
  • 徳川家定、十三代将軍としての宣下を受ける。
  • アメリカ使節ペリー浦賀に来航。ロシア使節プチャーチン長崎に来航。

安政元年(1854)二十歳

  • 実父島津忠剛死去(四十九歳)。
  • ペリー再び来航。日米和親条約締結。
  • 〔外国〕ロシア、クリミア戦争。

安政二年(1855)二十一歳

  • 安政の大地震。堀田正睦老中首座となる。
  • 篤姫、渋谷別邸に移居。
  • 〔外国〕清、アロー号事件

安政三年(1856)二十二歳

  • 幕府より縁組みの内意。
  • 近衛忠煕の養女となり、篤君と改称し、敬子(すみこ)の諱を賜る。敬子、江戸城大奥へ入り、結納、婚礼。
  • アメリカ総領事ハリス下田来航。

安政四年(1857)二十三歳

  • 老中阿部正弘死去(三十九歳)。

安政五年(1858)二十四歳

  • 井伊直弼大老就任。安政の大獄。日米修好通商条約締結。
  • 十三代将軍徳川家定死去(三十五歳)。島津斉彬死去(五十歳)。
  • 敬子、天璋院と号し、従三位に叙任される。
  • 徳川家茂第十四代将軍となる。島津忠義、家督相続。
  • 〔外国〕インド、ムガール帝国滅亡。イギリスがインドを併合。

安政六年(1858)二十五歳

  • 本丸御殿焼失、天璋院西丸に移る。

万延元年(1860)二十六歳

  • 桜田門外の変。
  • 幕府、和宮降嫁を朝廷に要請し、和宮江戸城大奥へ入る。
  • 本丸御殿竣工、天璋院本丸に移る。
  • 〔外国〕清、天津条約、北京条約。

文久二年(1862)二十八歳

  • 徳川家茂と和宮の婚儀。生麦事件。
  • 〔外国〕アメリカ、南北戦争中。

文久三年(1863)二十九歳

  • 薩英戦争。本丸、二丸御殿焼失、田安邸を仮政庁とし、天璋院は清水邸に移る。
  • 〔外国〕ドイツ、ビスマルク時代。

慶応元年(1865)三十一歳

  • 天璋院、二丸に移る。

慶応二年(1866)三十二歳

  • 薩長同盟成立。十四代将軍徳川家茂死去(二十一歳)。十五代将軍に徳川慶喜。

慶応三年(1867)三十三歳

  • 大政奉還。王政復古の大号令。
  • 二丸炎上、天璋院西丸に移る。

明治元年(1868)三十四歳

  • 鳥羽伏見の戦い。江戸城開城。徳川家達が徳川宗家を相続。江戸が東京と改称。
  • 和宮、田安邸に引き移る。天璋院、一橋邸に移る。

明治四年(1871)三十七歳

  • 廃藩置県。徳川家達、東京に戻り、イギリスへ留学。
  • 千駄ヶ谷邸が完成し、天璋院と本寿院、実成院が移る。
  • 〔外国〕パリ=コンミューン。ドイツ統一の完成。

明治十年(1877)四十三歳

  • 和宮死去(三十二歳)。西南の役起きる。

明治十三年(1880)四十六歳

  • 天璋院、箱根熱海湯治旅行。

明治十六年(1883)四十九歳

  • 天璋院死去。
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