高橋克彦「火怨 北の耀星アテルイ」を読んだ感想とあらすじ(最高に面白い!)

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覚書/感想/コメント

第三十四回吉川英治文学賞受賞。

己の生まれ育った土地、己を育ててくれた人、家族、そうしたものを守るということに異を唱えることはないだろう。それを脅かそうとする者に対して、手向かって何が悪かろう?

だが、立場を逆にすると、全然違う見方になることがある。逆の立場で見た歴史というのが、我々が習ってきた歴史である。

我々の習ってきた歴史というのは「勝者の歴史」である。本書で取り上げられているのは歴史の中では敗者となった蝦夷である。

立場を敗者側にして見てみると、本書になる。

現在の話にたとえてみると、中東におけるアラブとアメリカなど西欧諸国との争いというのも本書と本質的には同じくするものである。

立場を逆にしてみないと、見えてこないものは多い。

どのような理由があるにせよ、軍を出すということは重い。

軍力に差がある場合、攻められる側の困難は想像を超えるものがある。

『「長き戦さとなる場合、大事なのは人の心の荒廃にござります。今のままではきっと蝦夷が自滅すると長は案じておりまする」
「とは?」

-(中略)-

「蝦夷が勝つ策はたった一つ。一度たりと負けぬことです。それも十年やそこらではとても足りますまい。五十年、いや百年を負けぬことで、朝廷も陸奥から手を引きましょう」』

そして、攻められるというのは、理不尽際回りない出来事である。

『「今は前に進むばかりか」
阿弖流為も飛良手に頷いて、
「戻ったところで蝦夷に救いの道はない」』

理不尽な侮蔑には憎しみをもって応えるしかなくなる。

『「獣に等しき扱いをされてはだれでも歯向かう。俺の母や姉も朝廷軍によって殺された。この戦となる前のことだ」
飛良手も憤怒の顔をして睨み付けた。
「はじめたのではない。はじめさせられたのだ。そなたはなにも知るまい」
言われて丈部善理の刀が揺れた。
「朝廷軍は蝦夷を人と思うておるまい。それに対して我らは戦っている。なにも求めておらぬ。人として扱うなら従いもしよう」』

子や孫のために死の覚悟を決めた漢たちの行動に涙が止まらなくなる。それは、己が己であることを証明する、すべての誇りをかけた行動である。

それを笑うものはすでに誇りを失っているものであろう。それを嘲笑うものは他人からも指をさされて嘲笑われていよう。

『天鈴の涙はまだ止まらない。
「その覚悟を聞いたからには…もはや俺も和議に固執せぬ。必死で頭を下げ、黄金をばら撒き、服従を誓うような和議を結んではそなたらの覚悟を無にすることとなる。鮮麻呂もそれを望んではおらなかった。今の勝ち負けを気にせず、そなたらは存分に蝦夷を全うするがいい。そなたらの死に様が百年後の蝦夷の糧となる」』

『珍しく天鈴はしんみりと口にした。
「嶋足どのはなにを望みと?」
「蝦夷が蝦夷であること。それだけだ」』

阿弖流為が一人での降伏を考え、母礼と激しく言い争う場面は秀逸である。

民を想い、子を想い、またその子を想う。繰り返される営みのために、今生きている自分たちはどのようにすべきなのか。戦い続けることで、子らに何を残せるのか。

『「子や孫らのために死んでくれ」
「その覚悟などとっくにできている」
母礼は苦笑いをして頭を上げさせた。』

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内容/あらすじ/ネタバレ

本格的な陸奥支配は神亀元年(七二四)、陸奥鎮守将軍・大野東人が多賀城を築城したことに始まるとみられる。

天平二十一年(七四九)に多賀城に程近い小田郡から大量の黄金が産出した。歴史の偶然だろうが、朝廷は東大寺の大仏造立に着手していた中の出来事だった。

この黄金の産出が、この時から朝廷にとっての宝の国となった瞬間であった。

多賀城に精鋭が送り込まれ、反発が予想される蝦夷に対抗する目的で名取に軍団が組織され、小田郡を完全制圧しようと桃生城が新たに築かれた。朝廷には蝦夷と共存する意思はない。

蝦夷は抵抗しなかった。一方的な簒奪をする朝廷に対して、蝦夷たちはひたすら耐えるしかなかった。

蝦夷の首長の一人が朝廷に叛意を示したのは宝亀元年(七七〇)、夏のことだった。蝦夷にとってもはやのどかな時代は過ぎ去った。

宝亀十一年(七八〇)。蝦夷の歴史において特に銘記されなければならない年である。胆沢の蝦夷たちが中心になって朝廷から離反した。小競り合いの範疇からはっきりと蝦夷全体と朝廷との抗争に広げられたのだ。

胆沢の蝦夷の長・阿久斗は倅を呼んで、伊治城を預かっている鮮麻呂の使者に会うことにした。鮮麻呂も蝦夷である。阿久斗の倅・阿弖流為は十八と若い。

使者は按察使の紀広純と道嶋大楯の二人に首を取るといった。鮮麻呂はこれを機に、蝦夷とはなんであるか、それを蝦夷と朝廷の両方に示す覚悟であるというのだ。

朝廷が黄金を欲しがる限り、朝廷の侵略は続くだろう。それを許さないためには敵が諦めるまで負けずに守り切るしかない。

朝廷への内通者がいた。阿弖流為は追いかけた。その者は父・阿久斗に仕える飛良手だった。

阿弖流為は飛良手の裏切りを父に許しを乞うた。

鮮麻呂の計画が進んでいった。伊治城にはわずかな兵しか残っていない。阿弖流為は百三十余の兵を従えて向かった。今回の作戦では撹乱すればいいだけである。

その途中、黒石に立ち寄り、母礼を仲間に誘った。その母礼は阿弖流為が何のために来たのかも分かっており、快く応じた。聞きしに勝る頭の働きを見せる人物だった。

作戦は鮮麻呂の思惑通りに終わった。このことはすぐさま都へと伝えられた。

阿弖流為は東和へ向かった。母礼も一緒だ。東和に物部を訪ねに行くのだ。物部は蘇我との争いに敗れ都を追われた身である。蝦夷と等しく朝廷からは敵とみなされている。

物部の財力はすさまじい。そして、もともと蝦夷と同族であるともいう。祀る神とて同一である。とものアラハバキの神を信仰している。
物部二風が二人を迎えた。息子の天鈴は都に住み、めったに東和には戻らぬ。

二風は蝦夷を支援しようと約束した。そして、これを機に蝦夷の兵団の本拠地を決め、馬や弓の鍛錬をすることになった。本拠地は東和。兵団の責任者は阿弖流為となった。東和におく兵団は二千から二千五百の規模となる。

胆沢や黒石だけでなく、江刺の伊佐西古らも覚悟を決めて阿弖流為らに合流してきた。

三か月が過ぎた六月。朝廷軍の本営となっている名取では征東将軍の藤原継縄を筆頭に副将軍の大伴益立、紀古佐美、百済王俊哲、陸奥介の多治比宇美らが顔を並べていた。

彼らの表情は暗い。二万の軍勢を率いればあっさりと片付くと思えたのに、三月が過ぎ去ろうとしている今、何一つ進展がない。

東和では阿弖流為と母礼が兵の訓練に余念がなかった。秋にはきっと攻め込んでくるであろう。それまでの鍛錬が大事だ。

その忙しい中、阿弖流為は母礼の妹・佳奈の相手をした。

阿弖流為と母礼は兵たちの区分けを行った。その区分けは各長たちの承認を得た。

その区分けの妙に物部二風はうなった。だが、一方で秋の戦はないかもしれないと考えていた。

それを聞いた母礼は、ならば、冬の間にさらなる砦を築くことができる、といった。朝廷軍が多賀城の再建ができないことが攻撃を仕掛けてこられぬ理由なら、再建を邪魔する必要がある。母礼は一つの作戦を提案した。

多賀城は再び燃やされた。紀古佐美の提言した作戦は失敗に終わった。藤原継縄は怒りを爆発させた。

だが、九月末、その継縄が罷免された。今年の戦はなくなった。新しい将軍が赴任するまで時間ができた。

今度はさらに兵が増強されるようだ。二万五千から三万の兵。それだけいれば力攻めで来るだろう。

阿弖流為らは朝廷軍の様子を見に名取まで向かった。朝廷軍の士気の低さを知り、何とかなるやもしれぬと感じた。そして、ここで延手とその妹・滝名とであった。延手は刀鍛冶である。

朝廷は新将軍・藤原小黒麻呂を送り込んでいる。年が明け、天応元年(七八一)となった。老齢の天皇の体調はすぐれず、陸奥情勢の不穏が続いている。

三月に入って久しぶりに二風の館で会議が開かれた。

阿弖流為は騎馬兵を率いて奇襲をかけることにした。二手に分かれ、一方を猛比古が率いている。

この奇襲作戦は他の作戦も取り入れたもので、敵を引き出す目的がある。最終的には二万の軍勢を壊滅させることに目的がある。

戦いを前に、阿弖流為は諸絞と兄弟の契りを結んだ。

藤原小黒麻呂は指揮を忘れて呆然と戦況を見守るしかなかった。紀古佐美も同様だ。何が起きているのか把握できないでいる。
信じられない大敗である。

あらゆる攻めの手順が鮮やか過ぎた。紀古佐美は何度も溜息を吐いた。蝦夷にこれほどの知恵があるなど一度も考えたことがない。

一方で諸絞は母礼を恐るべき知恵の持ち主だと今更ながらに思った。

蝦夷の平穏は七年も続いた。

朝廷からは陸奥按察使兼鎮守将軍として大伴家持が派遣されている。その家持の穏健政策に多分に与った結果だ。

その家持が倒れ、桓武天皇の時代になると、五万の兵を動員した。延暦七年(七八八)、また新たな戦さが始まる。

再び紀古佐美は征東将軍として陸奥に派遣された。

桓武天皇は長岡京から新たな都へ移ろうとしている。莫大な銭が必要となり、皆の反対なしにやり遂げるためには、帝の力を示す必要がある。蝦夷を討つのが一番いい。

東和に都に住んでいた物部天鈴が戻ってきていた。天鈴は阿弖流為らと会った。

この七年の間に阿弖流為は母礼の妹・佳奈と結婚をし、飛良手も滝名と夫婦となった。

天鈴は敵で恐ろしいのは亡き坂上苅田麻呂だけであるといった。その名を聞いて阿弖流為は息子の田村麻呂を思い出した。

昔、苅田麻呂が鎮守将軍として陸奥に居た時代、田村麻呂と遊んだ記憶がある。たしか田村麻呂は阿弖流為より五つほど上のはずだった。

紀古佐美の五万二千の兵のほとんどが衣川の里に布陣したという知らせが伝えられた。

今度の戦さは敵を蝦夷の懐に誘いこんでのものである。そして、誘い込んだところで全滅に追い込む…。

阿弖流為が都の地を踏んだのは延暦八年(七八九)の秋だった。旅装を解いたのは西市に近い物部天鈴の屋敷である。一緒についてきたのは母礼、伊佐西古、飛良手、猛比古である。

天鈴は坂上田村麻呂に引き合わせようと考えていた。田村麻呂は蝦夷を侮ってはいないがゆえに、戦をせぬ方がよいと訴えている。だが、かえってそれがゆえに弱気とみられていた。

都のもののほとんどはこの度の戦を蝦夷から仕掛けられた戦と信じている。

阿弖流為が坂上田村麻呂に出会ったのは偶然出会った。田村麻呂はまさか阿弖流為が都に来ているとは思っていなかった。

そして、田村麻呂も阿弖流為のことを覚えていた。二人が会ったのは十九年前のこと。阿弖流為は九歳だった。

田村麻呂は帝が遷都を考えているのだといった。遷都をやり遂げるために人心を一つにする必要がある。蝦夷政策はそのためだ。黄金が欲しいわけではない。

それ聴き、阿弖流為は暗い気持ちになった。

阿弖流為たちは気仙沼に戻った。八十嶋が支配する土地である。

八十嶋は嫌な噂を耳にしていた。それは阿奴志己が東日流の赤頭と勝手に談合をしたというのだ。その赤頭が朝廷と手を組もうとしているようだ。

阿弖流為は東日流に向かって赤頭に会うことにした。会ったが、その意図するところは結局のところつかめなかった。

延暦十二年(七九三)二月。

坂上田村麻呂は征東副将軍として陸奥へ向かっていった。田村麻呂は来年の戦のための下見として出向いたのだ。同じ時期を過ごし、来年のための糧とするのだ。

田村麻呂が赴任してきた知らせは天鈴に伝わった。四年の平和が乱されようとしている。

今度は十万の兵だという。それを聞いて母礼は堅牢な砦を作り、籠城策を選んではどうかと言った。三十の砦にこもって敵を分断するのだ。
それから一月、阿弖流為、母礼、伊佐西古の三人は山歩きに費やした。三十の砦の候補地選びのためである。

蝦夷に大きな動きがあることを夏になってから田村麻呂は知った。いくつもの砦を設けていると聞き、不安な影が広がる。

秋になり、延暦十三年(七九四)春となった。

互いに動きがとれぬ冬の間、田村麻呂は都にいったん戻っていた。そして、陸奥に戻るときには六万の兵を率いていた。

三月中旬。坂上田村麻呂はついに軍を動かした。十万のうちの六万である。

朝廷軍は敗走の形となって陣に戻ってきた。将軍大伴弟麻呂は衝撃に腰が砕けそうになった。あまりにも惨めな敗退であった。

兵は半分以上失っている。それでいて砦の一つも落としていない。

弟麻呂は田村麻呂の策を退けたことを後悔していた。

延暦十五年(七九六)。今の朝廷には坂上田村麻呂しかいない。田村麻呂に陸奥按察使、陸奥守、鎮守将軍の役職を兼任させた。前代未聞の権限の集中である。

阿弖流為はいつまで戦いが続くのかと心が沈んでいた。これが三十年も続けば、蝦夷の土地は荒廃してしまうに違いない。

この冬。坂上田村麻呂は征夷大将軍に任じられた。もはや、この戦は後戻りができぬ。

阿弖流為は一人で降伏しようと考えていた。だが、それで戦が終わるわけではない。母礼は敵は蝦夷すべてを敵にしているのだと阿弖流為を諭した。

蝦夷に乱れが生じていると聞いて田村麻呂は首をひねった。阿弖流為に諸絞を筆頭として反対を唱えているというのだ。ほぼ全部である。阿弖流為は完全に孤立していることになる。

母礼はいった。我らが孤立していることは田村麻呂も承知のはず。わずかの人数に対して十万を動員することはないだろう。三万程度でくるのではないか。とすると、七万は戦わずして片づけたのと同じである。

この場に諸絞がやってきた。そして母礼、伊佐西古、飛良手の顔を見てぼろぼろと涙をあふれさせた。頼む。そなたらの仲間に加えてくれ。

延暦二十年(八〇一)一月下旬。

阿弖流為は部下に田村麻呂の本体には手を出すなと厳命をした。田村麻呂こそ蝦夷の命綱。そして、今日死ぬものは蝦夷の誇りと称えられよう。それを最後に阿弖流為は先頭に飛び出した。

取実が敵に囲まれて死んだ。立ったまま果てた。死に顔には穏やかな笑いすら浮かんでいた。

胆沢で田村麻呂が和議の談合を開いたという知らせはその日のうちに阿弖流為に届いた。砦は沸き返り、兵らは涙を溢れさせて阿弖流為の言葉に聞き入った。阿弖流為の目からも涙がこぼれた。

この数年の不安が今日で晴れたのだ。これで思い残すことはない。

阿弖流為は田村麻呂が兵を率いて胆沢に姿を見せたら争わず投降すると決めていた。

この二十二年間。蝦夷軍は一度も負けなかった。

阿弖流為は最後まで従おうとする兵に頭を下げ頼んだ。『死なんでくれ。千の命は俺には重すぎる。重過ぎて空には上がれぬ。それでは伊佐西古らにも会えなくなる。この通りだ』

延暦二十一年四月十五日。阿弖流為は母礼ら五十名と正式に投降した。

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本書について

高橋克彦
火怨 北の耀星アテルイ
講談社文庫

目次

宿命
挑戦
震動
雷火
宿敵
血闘
黙示
火怨

登場人物

阿弖流為
阿久斗…阿弖流為の父
母礼
佳奈…母礼の妹
飛良手
多久麻
物部天鈴
物部二風…天鈴の父
阿奴志己
諸絞
八十嶋
伊佐西古
猛比古
延手
滝名…延手の妹
伊治公鮮麻呂
道嶋嶋足
紀広純…鎮守将軍
藤原継縄…征東将軍
大伴益立…副将軍
紀古佐美…副将軍
百済王俊哲…副将軍
多治比宇美…陸奥介
藤原小黒麻呂…将軍
安部墨縄
池田真枚
入間広成
丈部善理
坂上田村麻呂
桓武天皇

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