平貞盛:平将門を追討した伊勢平氏の祖

歴史上の人物
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平貞盛(たいらのさだもり)

生年:生没年未詳。

平安時代中期の武将。通称は常平太、平将軍。字(あざな)は平太。

父は常陸大掾鎮守府将軍・国香。

祖父・平高望は桓武天皇の孫・高見王の子として生まれ、上総介に叙任、関東に下向して桓武平氏の祖として知られる。

高望の子孫は関東各地に広がり、坂東八平氏と称された。

関東は源氏のイメージが強いが、本郷和人教授が「日本史のツボ」で述べているように、平家は関東で勢力を持ち、のちに伊勢に移る。

関東の平家の中から現れたのが、平将門で、将門の乱は下総、常陸の平氏一門の争いだった。これを鎮圧したのが同じ平氏の平貞盛で、この4男・維衡が伊勢平氏の祖となる。

関東で勢力を広げた平氏の中で、豊かな京都に近い伊勢に移った連中がおり、その中から平清盛が出てきた。平家の本流がいなくなった関東に今度は源氏が入ってきただけであった。

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平将門との対峙

父の死

京において右馬允として出仕していたが、承平(じょうへい)5年(935)に父が従兄弟の将門に殺されたので常陸国(茨城県)に帰国。

父・国香は常陸に本拠を置き、常陸大掾・鎮守府将軍に任じられたが、承平元年(931年)以来の一族の争いに関与して兄弟の平良兼に加勢、承平5年(935年)、将門に敗れて殺害された。

平将門との戦い

将門との対戦を余儀なくされるが、その態度は消極的であった。

宥和策をとったが失敗し、叔父の良兼とともに将門を討とうとしたが、逆に打ち破られる。

天慶(てんぎょう)1年(938)年に京へ戻ってこれを朝廷に訴えた。

容易に追討の官符が出なかったので、態勢を整えて下向し、ふたたび将門と戦った。

藤原秀郷との共闘

天慶2年(939年)、将門は桓武天皇の五代先の子孫であることから、武力によって天下の半分を治めると主張し、「新皇」を名乗った。

翌天慶3年(940年)、朝廷は当時68歳の藤原忠文を征夷大将軍(征東大将軍との説もある)に任命、忠文は軍勢を率いて関東に下向することとなった。

貞盛は苦戦を強いられたが、将門は関東を制圧するため軍勢を各地に派遣していた。

下野国(栃木県)の豪族・藤原秀郷(俵藤太、母方のおじでもある)を味方につけたことで、手薄になった将門本隊を襲い、征夷大将軍・藤原忠文率いる追討軍の到着を待たずに下総国幸島(茨城県猿島郡)の北山で将門を倒すことが出来た。

京より下向してきた忠文は将門の残党を追討、戦後処理を終えて帰京すると、すぐさま征西大将軍に任命され瀬戸内海で暴れまわる藤原純友追討に派遣されることになった。忠文は70歳に近く、実際に活躍したのは小野好古であった。

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子孫たち

平貞盛は平将門を討った功により右馬介、鎮守府将軍、従五位上となり、さらに陸奥守従四位下に昇進した。

子息らのうち、維将(これまさ)流が北条氏、四男・平維衡(これひら)が伊勢に居を移して藤原道長ら有力貴族に仕え、伊勢平氏として京都での平氏発展の基礎を築く。伊勢平氏から平清盛が出た。

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