平将門:神にも怨霊にもなった関東の英雄

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桓武平氏

生年不詳~天慶3(940)

平安時代中期の武将。通称、相馬小二郎。

桓武(かんむ)平氏の出。桓武平氏上総介平高望(たかもち)の孫。鎮守府将軍・平良持(よしもち)あるいは平良将(よしまさ)と伝えられる。「尊卑分脈脱漏」によると、母は犬養春枝の娘。

父の遺領を継ぎ下総(しもうさ) 北部鬼怒川水系沼沢地帯の豊田(とよだ)・猿島(さしま)(茨城県結城・猿島郡地方)を本拠とした。香取海(かとりのうみ)がそばにあり、水運が発達した地域でもある。

若いとき上京して一時期、摂関藤原忠平に仕えたが、官途を得ず下総に戻って勢力を養い豊田、猿島、相馬の3郡(ともに茨城県)を支配した。

一族紛争

女論

承平1(931年)、「女論」により伯父の下総介良兼と争う。

「女論」には諸説あるが、良兼の娘は将門の妻として将門と同居しているので、この婚姻にかかわるものと推察される。

叔父・伯父たちとの争い

承平5(935)年、常陸西部の筑波山麓地帯を勢力とする常陸大掾・源護と平真樹との争いにまきこまれる。

将門は、源護の女婿で、源護についたあ叔父・国香と争うことになり、殺してしまう。

この結果、おじ良兼、良正や国香の子・平貞盛の攻撃を受けることになったが、これを打ち破った。

源護がこの事件を朝廷に訴え出たため、翌年10月京都に召喚されて禁獄された。

だが、朱雀(すざく)天皇元服の大赦によって帰国した。

帰国後、良兼らに攻められて一族紛争は激化する。

常陸国府の襲撃

天慶2(939)年、武蔵国において権守の興世王、介(次官)の源経基と郡司の武蔵武芝との争いの調停に当たったが失敗する。

慌てて京に戻った源経基によって謀反として朝廷に訴えられた。

この問題が未解決の同年11月、常陸国における国守藤原維幾と土豪藤原玄明の紛争に巻き込まれる。

将門を頼ってきた玄明を庇護して常陸国府(茨城県石岡市)を襲撃、官物を奪って放火した。

この直接の原因としては、いくつかの説がある。

将門を頼って常陸から下総にのがれた藤原玄明を助けるため国軍と衝突することになったとする説。

国守維幾の子為憲が将門の仇敵貞盛と結んで将門を挑発したことに中心をおく説。

両説ともに「将門記」にみえる。

新皇

坂東八ヶ国独立

将門は興世王にのせられ、下野(栃木県)、上野(群馬県)、武蔵、相模(神奈川県)の諸国を配下におき、八幡大菩薩の神託を得たとして新皇と称して坂東八カ国の独立を宣言した。

「将門記」によると、天慶2年(939年)11月21日に常陸国府を制圧した将門は、続いて12月19日に上野の国司を追放して国庁に入った。

そして、弟や従者を伊豆と関東諸国の受領(ずりよう)に任じたが、このとき八幡大菩薩の使と口ばしる昌伎から位記を授けられ「新皇」と称するようになる。

将門は、下総猿島(さしま) 郡石井に王城を営み、文武百官を任命した。

義江彰夫「神仏習合」で指摘されているが、平将門の新皇への即位の儀式に神仏習合の顕著な典型がみられる。儀式は巫女によって行われた。そして、儀式において、平将門の即位を正当化したのが、八幡大菩薩と菅原道真であった。

敗れる

朝廷では、征東大将軍・藤原忠文に討伐させた。

だが、それよりも早い940年2月、下野(しもつけ)の藤原秀郷(ひでさと)と国香の子・貞盛らの軍勢により、猿島の北山(嶋広山ともいう。茨城県坂東(ばんどう)市)で討たれた。

「俵藤太物語」によると、藤原秀郷は、平将門を討つべき旨を上京して奏聞し、平貞盛も討手に加わり追討に赴いた。

だが、五体ことごとく金(かね)の将門を討つことが出来なかった。

秀郷は方便をめぐらし、いったん将門に奉公し、将門の弱点を探った。

すると、契りを交わした小宰相の局から影武者の秘密を教えられ、耳の根だけが肉身(にくじん)であると教えられた。

そして将門を討つことができたとされる。

伝説

将門が討ち死にすると、首は平安京へ運ばれ、都大路で晒された。

しかし、数日経つと将門の首は空を飛び、切り離された体を求めて東国に舞い戻ったという。それを祀ったのが将門塚とされる。

胴体は、亡くなった場所から近い寺に埋葬されたという。腕や足、兜や鎧を祀った寺社が各地にある。

将門は身体を徹底的に分断されて祀られた。強い霊を鎮めるための埋葬法で、支解分葬と呼ばれる。死体を斬り離し、異なる場所に埋めて凶霊の発散を防いだのである。

後世への影響

新皇・将門の関東支配はわずか数か月にすぎなかった。

だが、中央派遣の受領を放逐した将門に、東国の民衆は共感した。

そして、将門を英雄として仰ぐ気風は時代とともに強まり、関東では神となった。

同時に西海で起こった藤原純友の反乱とともに「承平・天慶の乱」、あるいは「天慶の乱」ともいう。

この承平・天慶の乱が貴族に与えた衝撃は大きく、のちの争乱で「宛も承平・天慶の乱のごとし」と引きあいに出されることが多い。

承平天慶の乱を鎮圧した側も東国武士であった。

関東では藤原秀郷の血筋を引く一族が武家の棟梁として隆盛を極めるようになる。

これ以降、関東地方を中心に武士が台頭していく。

結果として将門の反乱は源氏による武家政権(鎌倉幕府)の先駆けとなった。

将門による政権樹立の試みは、後世、日本の中心地が畿内から関東に移動していくきっかけになった。

関東独立の気風

東日本では、古墳時代から毛野(けぬ)氏などの自立的な勢力を生み出し、律令国家の支配下に留まろうとしていなかった。

9世紀後半以降、東国には僦馬(しゆうば)の党をはじめ大規模な群盗の蜂起が起こっている。

そのような状況下で、10世紀前半に平将門は坂東8ヵ国を基盤とする自立した国家を樹立したのである。

国家はごく短期間で崩壊するが、武将たちは王朝国家の下にあって、東国土着の勢力との結びつきを強めつつその実力を蓄えた。

そして11世紀に入ると、東北にも独自な政権ないし小国家の生まれる兆しが現れるようになる。

霊験譚

10世紀末には将門の霊験譚が形成される。

12世紀には子孫説話もつくられた。

「今昔物語」には地蔵信仰と絡んだ蔵念・如蔵尼説話がみえる。

中世になると千葉氏やその一族では、妙見信仰と絡んで将門の後継者と自称する説も生まれた。

首塚

東京都千代田区大手町の一角にある「将門の首塚」は、京都に運ばれた首が空を飛んで、関東を目指してここで力尽きたという伝説がある。

一説によると、将門は京都で処刑されたという。その際に、首が飛び帰って葬られたという。

この首塚は何度か移転しようとしたが、その度に原因不明の事故が相次いだ。

近年における周囲の再開発計画においても「地元にとって大切な信仰の場であるため」として、首塚は守られた。

各地に首塚など多くの遺跡がある。

三大怨霊

将門は「日本三大怨霊」の一人とされる。菅原道真・平将門・崇徳天皇(崇徳院)である。

日本三大怨霊のなかで、将門だけは今でも祟る。

将門塚は関東大震災で倒壊し、跡地に旧大蔵省の仮庁舎が建設されることになった。だが、大蔵省の職員や関係者が相次いで亡くなり、将門の祟りと噂された。

1928年には旧大蔵省主催で鎮魂祭が行われた。神田明神宮司、将門鎮魂を担ってきた浅草日輪寺の住職が招待され、蔵相も臨席した。

1941年にも将門の鎮魂が行われた。旧大蔵省が落雷で火事になったこと、蔵相経験者が2人暗殺されたことが祟りとされた。

亡くなったのは、血盟団事件に斃れた井上準之助と2・26事件で青年将校に撃たれた高橋是清だった。

この時は、震災で壊れた碑が再建され、地鎮祭が執り行われた。

信仰

神田明神

かつて、将門塚のあたりに、神田明神があった。730年に創建され、天変地異があいついだことから、中世の1309年に将門も祀られるようになった。

東国武士の祖として、平氏のみならず、源実朝らの源氏も崇敬したという。

神田明神は太田道灌や北条氏綱に崇敬され、江戸時代になると、徳川将軍家も将門を篤く崇敬し、神田明神は幕府公認の江戸総鎮守となった。江戸の庶民からも江戸の守護神として崇められた。1616年に江戸城の表鬼門にあたる現在地に遷された。

だが、明治時代に皇国史観が国定史観化すると逆賊と見なされ、1874年、神田神社の祭神からも外された。この辺りは安丸良夫「神々の明治維新―神仏分離と廃仏毀釈―」に詳しい。

明治天皇が神田明神に立ち寄る際に、教部省では祭神を改めるように指示した。逆臣平将門を祀るなど容認できるものではなかった。ましてや天皇が参拝してよいものではなかった。

しかし、地元有志による復権の動きもあり、昭和59年に神田明神の本社祭神に復している。

成田山新勝寺との関係

成田山新勝寺は、朝廷が将門を調伏するよう指示して祈祷を行った寛朝僧正が開山した。

そのため、神田明神や同じく将門を祀る築土神社においては成田山新勝寺への参拝は禁忌と言われる。

寛朝僧正が祈願し、成田山の本尊となっているのは不動明王であるが、不動信仰そのものは禁忌ではない。

首を切り離された将門の胴体を葬る「胴塚」の伝承がある神田山延命院には「谷原光不動尊」が祀られている。

明王山大栄寺には京都の東寺から将門が守り本尊として持ち帰ったと伝わる「山川不動尊」がある。

東京都奥多摩町の将門神社の北側には「将門山不動尊」が祀られている。

関東で将門を信仰する人々は、不動明王を拝む際は成田山を避ける形で、別個に祀られた尊像に向かって拝んだ。

国王神社

茨城県岩井市の国王神社(将門の二女如蔵尼の創建と伝える)に将門の木像がある。

逸話

将門公には不思議な逸話が幾つも伝わっている。

  • 常に7人の影武者を従え敵を混乱させた
  • 影武者は将門公が信奉している北斗七星の化身だった
  • 日本で一番最初に反りのある刀、つまり日本刀を作らせ、戦で活用した

桔梗の裏切り

愛妾だった桔梗姫の裏切りの説話はよく知られる。

この逸話では、戦いの最中に死んだのではなく、捕らえられて京で処刑されたことになっている。

将門公が捕らえられた際、影武者達も共に捕らえられた。

だが、どれが本物か判らない。立ち振る舞いも姿も本物の将門公に瓜ふたつだったためである。

その時、桔梗姫が、本物の将門は食事の折こめかみが大きく動く、と白状してしまい、本物の将門は首を打たれた。

城峰山の桔梗

処刑される際、将門は処刑場から見える城峯山を睨んで、歌を詠んだ。

「この山に 桔梗あれども 花咲くな」

それ故、今でも城峯山には桔梗が咲かないという。

現代でも将門を神と奉ずる人々は桔梗の花を忌む。

平貞盛の奥方

「将門記」によれば、平貞盛の奥方が連れて来られた際、将兵に凌辱されて肌が露わな状態になっていたのを憐れみ、釈放するよう命じた。

将門は歌を詠んで新しい上着を与えて慰めた。

「よそにても 風の便りに 吾そ問ふ 枝離れたる 花の宿りを」

貞盛の奥方も歌を返した。

「よそにても 花の匂ひの 散り来れば 我が身わびしと 思ほえぬかな」

歌人とのやり取り

「太平記」によれば、晒し首になっても、将門の首は朽ち果てなかった。

「斬られし我五体 何れの処にか有らん 此に来れ 頭続(くびつい)で今一軍せん」

将門が、そう叫んでいるのを見た歌人が、詠んだ。

「将門は こめかみよりも 射られけり たはら藤太が はかりことにて」

米つながりの、こめかみと俵の語呂合わせで慰められたのか、将門は笑いつつ朽ちていったという。

平将門を描いた作品

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