立花宗茂:秀吉から忠義も剛勇も鎮西一と称えられた武将

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立花宗茂(たちばな・むねしげ)略歴

永禄11年(1568)~寛永19年(1642)。74才。安土桃山時代から江戸時代前期の大名。

初名は宗虎、その後、統虎、鎮虎、正成、俊正、経正。剃髪後、立斎と号した。

筑前岩屋城主・高橋紹運の長男で、請われて天正8年(1580)筑前立花城主・戸次鑑連(立花道雪)の養子となった。天正13年(1585)には家督を継ぐ。

天正14年(1586)九州の諸大名に先だって豊臣秀吉に服し、翌年の九州征伐では先鋒を務めた。

豊臣秀吉の九州平定で、秀吉から「忠義も剛勇も鎮西一」とたたえられ、天正15年(1587年)に筑後山門郡など13万2000石を与えられ筑後柳川の大名になる。

従四位下侍従に叙任、左近将監と称した。小田原攻めにも参戦。文禄・慶長の役では碧蹄館の戦で名を挙げた。

関ケ原の戦で西軍に加わり、西軍が敗れたため、改易となり、浪人生活を送った。

その後、徳川秀忠に召しだされ、慶長8年(1603)陸奥国棚倉(今の福島県棚倉町)一万石の大名となった。

大坂の陣の戦功で元和6年(1620)に旧領柳川へ戻って柳河藩主10万9600石、立花家初代となった。

関ケ原の戦いで改易された大名で、再び旧領に封ぜられたのは立花宗茂だけである。

寛永14年(1637)隠居。翌寛永15年(1638)島原・天草一揆の鎮圧に参加。その後剃髪して立斎(りゅうさい)と号した。

正室は戸次鑑連(立花道雪)の娘・誾千代。死別後は、家臣・矢島秀行の娘を継室とし、その没後は、葉室頼宣の娘を娶った。

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