浜松城の訪問録(静岡県浜松市)出世城と言われた城

城郭・城址
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浜松餃子の石松の本店で餃子を堪能して、再び市中へ戻って浜松城を見物。

駐車場に車を止めて城跡へ。駐車場のすぐそばにスターバックスがあったのは、意外な感じだったが、こういうのもありだな。城の見学を終えた人たちでいっぱいだった。

天守まではなだらかな登り坂だが、それほどの距離を歩くわけではない。小規模なお城で、ちょっとした丘を利用した平城である。

平成29年(2017年)、続日本100名城(148番)に選定された。

天守の上は展望台となっており、三方ヶ原の方面に視界が開けている。三方ヶ原の戦いの際には、城からも状況がよく見えたのではないだろうか。

城の内部はコンクリート造りなので趣はない。こうした点では松本城など、城の雰囲気をそのままに伝えるお城とだいぶ違う。

お城の見物を終えた後は、ウナギを食べに行くことにしていたが、まだ陽が高かったので、うなぎパイファクトリーを見学しに出かけた。

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浜松城の歴史

歴代城主の多くが後に江戸幕府の重役に出世したことから「出世城」といわれた。

野面積みの石垣で知られる。

浜松の拠点だった15世紀頃の曳馬城(あるいは引馬城、引間城)から始まる。

築城者については諸説ある。今川貞相(徳川家康の正室・瀬名姫の先祖)などと言われる。築城時期も確定されていない。

今川氏時代

室町時代に遠江の斯波氏と駿河の今川氏の抗争中、浜松を領有していた斯波氏方の大河内貞綱が敗れ、今川氏親配下の飯尾氏が浜松に入った。

飯尾乗連(あるいは父の飯尾賢連)が永正11年(1514年)に曳馬城主として入城し、16世紀前半には今川氏支配下の飯尾氏が城主を務めていた。現在の元城町東照宮付近にあった。

城主の飯尾氏は今川家に仕えたが、桶狭間の戦いにおいて今川義元が戦死し、今川氏の衰退が始まった。

今川氏の衰退後、飯尾連竜は今川氏真に反旗の疑惑をもたれ、永禄8年(1565年)に今川軍に攻囲される。

落城は免れたが、今川氏からの和議勧告を受け、飯尾連竜が駿府へ大赦御礼に出向くと、和議は謀略で飯尾連竜は殺されてしまう。

飯尾連竜が誘殺された後も家老の江間氏が城を守っていたが、城内は徳川派と武田派に分裂して内紛が起きていたため、永禄11年(1568年)末に徳川家康によって攻略される。

一説では、飯尾連竜の未亡人・お田鶴の方を中心として、飯尾氏が守っていたが、徳川家康がお田鶴の方に使者を送り、城を渡せば妻子共々面倒を見ると降伏を勧告したが、お田鶴の方が拒否したため、徳川家康が兵で攻め、お田鶴の方は侍女と共に討死にしたという。永禄11年(1568年)12月のことである。お田鶴の方を祀った「椿姫観音」が城の近くにある。

徳川家康時代

徳川家康が元亀元年(1570年)、武田信玄の侵攻に備えるために、本拠地を三河の岡崎城から曳馬城へ移し、浜松城へと改称。城域の拡張や改修を行い、城下町の形成を進めた。岡崎城は嫡男・信康に譲った。

改称の理由は、曳馬という名前が「馬を引く」、つまり兵馬を退いて逃げ、敗北を連想させるからと言われている。

浜松の名は、かつてこの地にあった荘園(浜松荘)に因んでのことで、城名・地名ともども「浜松」と改めた。

当初、天竜川を渡った見付(磐田市)に新たに築城をするつもりだったが、籠城戦に持ち込まれた場合には天竜川で背水の陣となることから、曳馬城を西南方向に拡張することにしたとされる。

徳川家康在城時における浜松城の具体像は不明確。現在の本丸に向けて城域が拡張された。また、徳川家康が築造した浜松城は、土造りの城であり、石垣や瓦葺建物を備えていなかったとされる。

三方ヶ原の戦い

元亀3年(1573年)、徳川家康は浜松城を素通りした武田信玄の軍勢を追撃して、逆に大敗北に帰した。三方ヶ原の戦いと呼ばれる。

三方ヶ原の戦いでは徳川軍が惨敗し、家康も討ち死に寸前まで追い詰められた。夏目吉信や鈴木久三郎を身代わりにして、成瀬吉右衛門、日下部兵右衛門、小栗忠蔵、島田治兵衛らわずかな家臣と一緒に浜松城へ逃げ帰った。

浜松城逃げ帰った家康は、全ての城門を開いて篝火を焚いた。そして湯漬けを食べてそのままいびきをかいて眠り込んだと言われる。

浜松城まで追撃してきた山県昌景隊は、空城の計によって警戒し、城内に突入することをあきらめ引き上げたといわれる。

浜松城の拡張と改修は天正10年(1582年)頃に終わったが、天正14年(1586年)には、本拠を浜松城から駿府城に移した。徳川家康の在城期間は29歳から45歳までの17年になる。

三方ヶ原の戦いについては、池波正太郎の「忍びの風」池宮彰一郎の「遁げろ家康」などで描かれているのが面白い。

徳川家康移封以降江戸時代

天正18年(1590年)、豊臣秀吉により徳川家康が関東に国替えになると、浜松城には堀尾吉晴が入城した。その次男堀尾忠氏が合わせて11年間在城した。

堀尾氏は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで徳川方でとして活躍した。その功績から、出雲国松江に移封となった。

関ヶ原の戦い以後、徳川頼宣を除き、江戸時代を通じて徳川家譜代大名の居城となる。江戸時代、もともと曳馬城だった部分には米蔵などが置かれていた。

江戸時代の浜松城主は九家二十二代に引き継がれていき、歴代の城主によって城域の改変・改修が進められた。

江戸時代には数々の城主が幕府重役に就任したことから「出世城」ともいわれた。

堀尾氏在城期に創建された天守は、17世紀のうちに姿を消し、天守台のみが現在に伝わる。近世には天守は存在しなかった。絵図にも記載がない。本丸にあった二重櫓が天守代用とされた。

明治6年(1873年)の廃城令により、浜松城の建物や土地の払い下げが行われ、三の丸、二の丸の宅地化が進行した。

天守曲輪と本丸の一部は開発を免れ、昭和25年(1950年)の浜松城公園開設に至る。昭和33年(1958年)に鉄筋コンクリート製の復興天守閣が建った。

浜松城築城の経緯

永禄11年(1568)、三河から東進し、今川領の制圧を開始した徳川家康。家康は、駿府に攻め込んできた武田信玄の侵攻に備え、遠州一帯を見渡せる三方ヶ原の丘に着目しました。天下を盗るためには、まず信玄を倒さなければならないと判断した家康は、元亀元年(1570)、岡崎城を長男の信康に譲り、三方原台地の東南端に浜松城を築城、駿遠経営の拠点としました。

築城様式

徳川家康の築いた浜松城の城郭は南北約500m、東西約450m。三方ヶ原台地の斜面に沿い、西北の最高所に天守曲輪、その東に本丸、二の丸、さらに東南に三の丸と、ほぼ一直線に並ぶ、「梯郭式」の築城法をとっています。「梯郭式」とは、各曲輪が隣接しながら、階段状になっている様式のことで、本丸の背後が自然の防衛線になるような城に多く見られます。

家康の在位期間にあった戦い

徳川家康は29歳~45歳までの17年間を浜松城で過ごしました。有名な姉川、長篠、小牧・長久手の戦いもこの期間中の出来事で、特に元亀3年(1572)の三方ヶ原の合戦は、関ヶ原の合戦以上の激闘であったと伝えられています。家康にとって、浜松在城17年間は、徳川300年の歴史を築くための試練の時代だったと言えるでしょう。

三方ヶ原の合戦

三方ヶ原の合戦は、元亀3年(1572)、武田信玄と徳川・織田連合軍が浜松市郊外の三方ヶ原台地で激突した戦いで、家康の生涯で最大の敗戦と言われています。武田軍3万人に対して家康軍はわずか1万人足らず。これでは勝負にならないと兜を脱いだ家康は、家臣に化けて命からがら浜松城に逃げ帰ったのでした。城に帰った家康は、敗戦直後の意気消沈した自分の顔の絵を描かせ、生涯この絵を大切にし、敗北を自戒したと伝えられています。

合戦の夜、家康はなんとか一矢を報いようと、三方ヶ原台地の南端にある犀ヶ崖で夜営していた武田軍を奇襲。崖に白い布を架けて橋と見せかけ、地理に疎い武田軍は次々と崖下に転落したと伝えられ、いまも「布橋」という地名が残っています。現在、犀ヶ崖では、毎年7月15日に三方ヶ原合戦の死者を供養するために「遠州大念仏」という郷土芸能が奉納され、市の無形文化財に指定されています。

小豆餅と銭取

浜松市内には、三方ヶ原の合戦にまつわる地名が残っています。たとえば、「合戦に敗れた家康軍は逃げ帰る途中に空腹をおぼえ、1軒の茶屋に寄って小豆の餅を食べていました。そこへ追ってきたのが武田軍。家康は慌てふためき代金も払わず茶屋を飛び出しました。驚いた茶屋の老婆は、数キロ先まで追いかけて、代金をもらうことに成功しました」…そんなことから、この茶屋のあった場所を「小豆餅(あずきもち)」、老婆がお餅の代金を受け取った場所を「銭取(ぜにとり)」と呼ぶようになったそうです。

家康が去ったあとの浜松城

徳川家康が駿府城に移ったあとの浜松城は、代々の徳川家とゆかりの濃い譜代大名が守りました。歴代城主の中には幕府の要職に登用された者も多いことから、浜松城はのちに「出世城」と呼ばれるようになりました。明治維新後、城郭は壊され荒廃していましたが、昭和33年、野面積みの旧天守台の上に新天守閣を再建、翌年には浜松市の史跡に指定されました。

出世城の言われ

浜松城には、藩政260年の間に25代の城主が誕生しました。在城中に幕府の要職に就いた者も多く(老中5人、大坂城代2人、京都所司代2人、寺社奉行4人※兼任を含む)、浜松城は「出世城」と言われるようになりました。なかでも有名なのが天保の改革を行った水野越前守忠邦。天下統一を果たした家康にあやかって、自ら進んで浜松城主になったと言われています。

浜松城の石垣は、自然にある石を成型・加工せずに組まれています。非常に荒々しいつくりで、一見崩れやすそうに見えますが、400年もの間風や雪に耐え、現在にまで当時の面影を残している貴重な遺構

浜松城の天守曲輪の大手に作られた「天守門」。明治期に取り壊されてしまいましたが、2014年3月に復元されました。天守門の門脇にある巨石「鏡石」も注目スポットです。

天守台周辺には本丸とは別に「天守曲輪」という区画が整備されています。天守曲輪があるお城はそんなに多くなく、豊臣秀吉にゆかりのある武将のお城に多く見られ、何かしらの関わりがあるのではないかと言われているそうです。

浜松城の地階には石組井戸があります。これは当時お城に住んでいた人々の飲料水や、戦が起こった時の籠城用として天守付近に作られたそうです。このように地階に井戸があるお城は浜松城以外に、名古屋城や松江城にも見られます。

浜松城入り口脇にある「家康公お手植えのみかんの木」。実際にお手植えされたみかんの木は、実は駿府城にあるんです。浜松城のみかんの木は駿府城から接木されたものとなっています。

家康公が合戦の後、鎧を掛けて休息していたと言われる「鎧掛松」。初代は台風で枝が折れて枯死、2代目は焼失してしまった為、現在の鎧掛松は3代目となります。

https://www.entetsuassist-dms.com/hamamatsu-jyo/facility/history.html

歴代城主(藩主)

1.(桜井松平家)松平忠頼
2.高力忠房
3.(大給松平家)松平乗寿
4.太田資宗→5.太田資次
6.青山宗俊→7.青山忠雄→8.青山忠重
9.(本庄松平家)松平資俊→10.松平資訓
11.(大河内松平家)松平信祝→12.松平信復
13.松平資訓→14.松平資昌
15.井上正経→16.井上正定→17.井上正甫
18.水野忠邦→19.水野忠精
20.井上正春→21.井上正直

浜松城の概要

別名曳馬城、出世城
城郭構造梯郭式平山城
築城主今川貞相?
築城年永正年間(1504年 – 1520年)
廃城年1871年(明治4年)
指定文化財浜松城跡(浜松市指定史跡)
再建造物模擬天守
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浜松城の案内

天守入口にある門。両脇に大きな石が石垣に組まれている。

模造天守。

天守の上からの眺め。東方面。

西方面。

南方面。

北方面。こちら側に三方ヶ原がある。

周辺の案内図。

城の中にある井戸。

浜松城の略絵図。

野面積みの説明などがある。

こちらが野面積みの石垣。

銀名水と呼ばれていた井戸。城には計10本の井戸があった。

八幡台

天守曲輪の石垣

御城印

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住所及び地図

〒430-0946 静岡県浜松市中区元城町100-2
053-457-0088

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