覚書/感想/コメント
教科書などで習うようなカエサルの業績、事績というのは、ルビコンを渡ったあとからのことがほとんどである。つまり、本書で取り扱っている部分である。
ドイツの歴史家モムゼンはカエサルを「ローマが生んだ唯一の創造的天才」と評しているそうだ。
そして、私見だが、ローマが生んだ唯一の天才といわれるカエサルの本領というのは、本書で余すことなく書かれていると思う。彼の天才は軍事の天才というだけではない。政治家としての天才であった。
もちろん、「第一次三頭政治」から、ガリア遠征といったものは、カエサルを語る上で欠かせないものはあるが、あくまでも、これはカエサルの助走期間内の話でしかない。
翼を得て、大きく飛躍し、後には名前そのものが「皇帝」を意味するようになったカエサルの真の姿を塩野七生氏と一緒に眺めていきたい。
なお、前作と本作の時代には、キケロとカエサルという二人がいた。二人は抜群の洞察力と表現力に恵まれ、二人ともが時代の主役であった。そして、二人は政治的には真逆の立場であり、友人でもあった。
二人が生きた時代ほど豊富で正確な史料を残してくれたのはなかったのではなかいと塩野七生氏は述べている。
そして、その豊富な史料が残っているこの時代こそが、ローマ1千年の歴史の中で最も重要な時代になるのである。共和政から帝政への移行。ローマ研究のほぼ4分の1が、たかが3、40年に過ぎないこの時期に集中しているのだという。
ルビコンを越えたカエサル。これを聞いたポンペイウスも現職の執政官二人も、まさかの事態に、首都ローマから逃げ出してしまった。この翌日にはカエサルはローマを押さえた。国庫はそのまま残されていた。
逃げ出した事により、高位の官職者は大きな失策をすることになる。一つは正統政府の立場を自主放棄したのと同じであり、二つはローマ市民に首都の住民を見捨てたと思わせてしまった事である。
カエサルの許にはルビコン以前に招集をかけていた第十二軍団が到着し、第十三軍団とともにポンペイウスの私有地に進軍した。
一方、ポンペイウスと元老院派の人びとは首都を捨てたのに続いて、本国のイタリア半島を捨ててギリシアに向かった。
ポンペイウスは「クリエンテス」たちを総動員するためにイタリア半島を脱出したのだった。地中海世界全体を見れば、圧倒的にポンペイウスの方が優勢である。
カエサルはキケロに手紙を出した。ローマで会いたいというのだ。これは元老院会議への出席を意味し、ひいてはポンペイウス側からカエサル派と断定されるのに等しかった。キケロは悩んだすえに断る。だが、カエサルの意図はまさにキケロにローマに来させない事にあった。
紀元前四九年四月一日に開かれた元老院会議。執政官二人がポンペイウスと一緒に逃げてしまっているため、イタリア半島の秩序と安全の維持が必要となっていた。
内政の最重要任務は法務官のレピドゥスに一任した。対外上の防衛の責任者は、護民官アントニウスを任命した。後にアントニウスとオクタヴィアヌスとともに「第二次三頭政治」の二人だ。
カエサルは西を撃つと決めていた。スペインを攻略するのだ。だが、資金に問題があった。カエサルの金庫は空っぽになっていたのだ。どうやら、資金はサトゥルヌス神殿の地下にある国庫が当てられていたようだ。
スペインへは陸路を使った。それは地中海の制海権をポンペイウスが握っていたからである。スペインにはポンペイウス配下の三将が待ち受けている。これに対してカエサルはガリア戦役をともに戦い抜いた軍団すべてを投じた。
思わぬ事態が起きたのはマルセーユでであった。激しい抵抗にあったのだ。マルセーユはカエサルの失脚を望んでいた。ガリア戦役でギリシア系ローマ人が台頭してきた事に対する不満だった。足止めを食らったカエサルは、一部を残してスペインへと進軍する。
スペイン戦役開始から一月が過ぎ、条件が整ったところでカエサルのいつもの速攻作戦が始まった。そしてポンペイウス軍の解体に成功する。
カエサルの部下の兵士たちが従軍拒否をした。従軍拒否を突きつけられなかった最高司令官はハンニバルとスッラしかいなかった。アレクサンダー大王もスキピオ・アフリカヌスもストライキを起こされた経験がある。
ストライキを起こしたのは第九軍団だった。第十軍団と並んでカエサルの子飼い中の子飼いと自他ともに任じてきた軍団だ。苦楽をともにし、信頼度と親密度が増した上での甘えによるものだった。
カエサルは要求の受け入れをはっきりと拒否をした。
スペインでは成功したカエサルだったが、北アフリカ戦線では本格的な損失をこうむっていた。投入されていたのはクリオであった。
カエサルは独裁官に就任する。そして、執政官にも就任した。やるべき事を終えて、カエサルは独裁官を辞任した。
陸上戦力ならカエサルはポンペイウスに絶対的に不利だった。一個軍団の構成数はポンペイウスの六千にはるかに及ばない、平均二千五百前後しかなかったようである。だが、精鋭であった。
幕僚級では、人を欠かないでもなかったカエサルだったが、百人隊長に代表される中堅指揮官は圧倒していた。ローマ軍団のバックボーンは百人隊長といわれてきたのである。
戦費の比較においてはポンペイウスが圧倒していた。
カエサルは執政官という公式の立場を得てギリシアへ軍を進めた。
ポンペイウスは六万の軍、カエサルはその四分の一しか戦力を持っていなかった。ポンペイウスとカエサルは睨み合ったまま動かなかった。カエサルは動けない。ポンペイウスは動かないという理由の違いはあったのだが。
やがて「ドゥラキウム攻防戦」の名で知られる三ヶ月に及ぶ攻防戦が始まる。カエサルは少ない兵でポンペイウスを包囲するという方法に出たが、包囲網が長すぎた。やがて、逃げ出す事になる。
この両者の決戦は「ファルサルスの会戦」の名で知られる。敗れたのはポンペイウスだった。
元老院主導体制の打倒を目標とするカエサルは紀元前四七年の開始と同時に独裁官に就いた。
カエサルの「内乱記」はポンペイウスの死で終わった。以後は書かれなかった。そしてこれに続く「アレクサンドリア戦記」「アフリカ戦記」「ヒスパニア戦記」はカエサルの幕僚や配下の中堅指揮官の筆による。
ポンペイウスを倒したあと、カエサルはエジプトに上陸した。ポンペイウスが殺されてから六日目の事だった。当時のエジプトは内紛状態にあった。
上陸後ただちに、紛争の当事者である姉クレオパトラと弟プトレマイオスを王宮に招集した。
そして紀元前四八年にカエサルが下した裁定は、軍事上有利だった弟王を満足させるものではなく、「アレクサンドリア戦役」が始まった。
カエサルはローマに戻る前に一仕事を片づけた。小アジアでポントス王ファルナケス相手に防衛を任せていたドミティウスが苦戦していたのだ。
ここで勝ったカエサルはローマの元老院に「来た、見た、勝った」という三語で始まる戦果の報告を送った。
ファルサルスの会戦から一年ぶりにカエサルは帰国した。
キケロの問題を解決したあと、カエサルの許に第十軍団の従軍拒否を伝える知らせが来る。
第十軍団は退役を望んだが、方便で給料などの値上げを狙ったものだった。最初から第十軍団はカエサルから去るつもりはなかったのである。だが、カエサルは退役を許すという。とまどったのは第十軍団だった。
そして追い打ちをかけるように、カエサルは「戦友諸君」と呼んでいたのを「市民諸君」と変えた。まるでカエサルとの縁が切れたかのような呼びかけに、子飼いを自認する第十軍団としてはショックを受けた。
従軍拒否も、報酬の値上げもない気持ちになり、泣き出した兵士たちは、カエサルへの忠誠を誓った。
古代から、このエピソードは「カエサルは、ただの一言で兵士たちの気分を逆転させた」と言われるものである。
「文章は、用いる言葉の選択で決まる」と書いたカエサルの、面目躍如たるエピソードだ。
カエサルが凱旋式を始めて経験したのは五十四歳のときだった。業績の不足というよりは時間の不足によるものだった。
凱旋式では軍団兵がシュプレヒコールを唱和するのが習わしとなっていた。カエサルの場合は「市民たちよ、女房を隠せ。禿の女たらしのお出ましだ!」というものだった。
民衆派と目されるカエサルが政治は、貧民救済のみを目的としたものではなく、社会福祉として行ったのは経済の活性化と表裏一体のものであった。その点では、カエサルはグラックス兄弟の弟のガイウス・グラックスの後継者だった。
そして、「元老院体制派」と「反元老院体制派」の抗争は終息に向かっていた。そもそも、ローマの混迷は個別の政策では解決できないレベルであった。ローマの共和政そのものが機能しなくなってきていたからだ。その事に気がついていたのが、スッラとキケロとカエサルだった。三人ともが憂国の士ではあった。
ローマの共和政は君主政、貴族政、民主政の利点を併せ持った理想的な政体と称賛されたが、いかなるシステムにも生命があるように、このシステムにも動脈硬化現象と問題の質の変化が襲いかかった。
スッラはシステム内改革を断行して元老院体制を補強して統治能力の回復を目指した。キケロは公生活の浄化、つまりは公人の徳の向上を目指した。
カエサルはこの二人と別の方法を採った。まずは独裁官としての絶対的権力を手中にしていた。
実際家であるカエサルは暦の改革から開始する。いわゆる「ユリウス暦」である。「グレゴリウス暦」に代わるまでの千六百二十七年間使われる暦である。両者の差はわずか十一分十四秒である。
カエサルは元老院によって十年の任期を持つ独裁官に任命される。カエサルは細心の注意を払ってこの地位にいた。王政となる気配だけでもアレルギーを示すのがローマ人だったからだ。
紀元前四五年に遺言状が書かれているが、これは政治遺言状だった。後継者の指名がなされたのである。指名されたのは当時十八歳でしかなかった。
カエサルはこれからのローマにとって元老院主導よりも帝政が適していると考えていた。元老院は補助的な機関として捉えており、市民集会は単なる追認の機関と化した。そして護民官は反体制となるべきではなく、体制と一体になるべきものであった。
そしてカエサルはローマ史上前例のない「終身独裁官」となる。一個人への権力の集中を防いできたローマの共和政は終わった。
カエサルは解放奴隷を積極的に登用し、属州統治にも力を入れた。司法改革にも着手し、ローマ法の集大成を考えていた。
この当時の首都ローマは女や子供、奴隷、他国人をふくめれば百万人に達する規模だったという。治安対策にも力を入れる事になる。
福祉政策、失業対策・植民政策、組合対策、交通渋滞対策、清掃問題、贅沢禁止法など次から次へと手を打った。
紀元前六世紀からあった「セルヴィウスの城壁」を破壊させた。城壁の必要性がなくなったのだ。他に力を入れたものとして、教育水準の向上と、医療水準の向上があった。
帝政は事実上成った。
キケロとマルクス・ブルータス、カシウスの間で手紙の交換が増していた。
「三月十五日」。カエサルが暗殺された。
暗殺の陰謀に加担した実行部隊の十四名以外の詳細は分かっていない。
カエサルがいったとされる「ブルータスお前もか」のブルータスはマルクス・ブルータスではなく、デキウス・ブルータスと考えた方がよいようである。
死後、カエサルの遺言状が公開され、後継者にはオクタヴィアヌスが指名された。カエサルとの繋がりは、カエサルの妹の娘の子という関係
である。相続の時点で、オクタヴィアヌスはカエサルの養子となり、カエサルの名を継いだ。
これに納得できなかったのが、アントニウスであった。
当時、オクタヴィアヌスは無名であった。オクタヴィアヌスに平時の統治能力があると見抜いたカエサルが指名したのだ。ただ、オクタヴィアヌスには戦場での才能はないとわかっていたので、アグリッパという青年を付けることにした。
ユリウス・カエサルの名を継ぐことは十八歳のオクタヴィアヌスにとって、一億セステルティウスの金の遺贈よりも効力があった。そしてそのことをオクタヴィアヌスは充分認識していた。世界史上屈指の後継者人事だったのだ。
十九歳になったオクタヴィアヌスは執政官になった。この頃は、キケロなどはまだ少年のオクタヴィアヌスを操れると思っていた。
そして、オクタヴィアヌスは「第二次三頭政治」と呼ばれる共闘体制をアントニウス、レピドゥスとの間に結んだ。キケロの希望を木っ端微塵に打ち砕く体制が出現したのだ。そしてカエサル暗殺に関わる復讐が始まった。
フィリッピの会戦の勝利により、カエサル暗殺の復讐を果たし、共和政主義者の壊滅に成功する。
このあと、アントニウスとオクタヴィアヌスは東西に別れた。オクタヴィアヌスは西方を担当した。この西方にはイタリア半島が含まれていた。
オクタヴィアヌスの外交を支えたのは、メチェナス。メセナ運動の開祖である。
二十四歳になったオクタヴィアヌスは五歳年下のリヴィアに恋をした。すでにクラウディウス・ネロと結婚していた人妻で、ティベリウスという三歳の子がおり、のちのドゥルーススを妊娠中でもあった。ネロに直談判して、オクタヴィアヌスはリヴィアと結婚することが出来た。ローマの為政者間の結婚としては珍しく、二人は生涯を添い遂げる。
この頃、アントニウスはクレオパトラと二重結婚をしていた。クレオパトラは自らの破滅の決定的な一歩を踏み出したのである。
アントニウスは所詮、軍団長レベルの人材だったようだ。キケロは「肉体だけでなく頭脳も剣闘士なみ」と評していた。
そして、そのアントニウスと結婚したクレオパトラは多くの言語を巧に操る技能と持っていた。だが、多くの言語を巧に操る技能と知性とは必ずしもイコールではない。
紀元前三三年には三十歳になったオクタヴィアヌスは、アントニウスと対決することになる。軍事上の指揮はオクタヴィアヌスではなくアグリッパが担当することになる。オクタヴィアヌスはカエサルがにらんだように軍事上の才能はなかったのである。
紀元前三一年「アクティウムの海戦」が行われた。
アントニウスを破って帰国したオクタヴィアヌスは以後の施政の基本方針として「パクス(平和)」をかかげた。「パクス・ロマーナ」の始まりだった。
本書について
塩野七生
ローマ人の物語5
ユリウス・カエサル ルビコン以後
新潮文庫 計約七五〇頁
目次
第六章 壮年後期
紀元前四九年一月~前四四年三月(カエサル五十歳-五十五歳)
「ルビコン」直後/ポンペイウス、首都放棄/コルフィニオ開城/ポンペイウス、本国放棄/大戦略/キケロ対策/首都ローマ/西を撃つ/マルセーユ攻防/スペイン戦役/逆転/降伏/ストライキ/北アフリカ戦線/カエサル、執政官に/戦力比較/ギリシアへ/第二陣到着/合流/ドゥラキウム攻防戦/包囲網/激闘/撤退/誘導作戦/決戦へ/ファルサルス/紀元前四八年八月九日/追撃/アレクサンドリア/クレオパトラ/アレクサンドリア戦役/「来た、見た、勝った」/カエサルとキケロ/政治家アントニウス/アフリカ戦役/タプソス会戦/小カトー/凱旋式/国家改造/暦の改定/通貨改革/ムンダの会戦/遺言状/「帝国」へ/市民権問題/政治改革(元老院/市民集会/護民官/終身独裁官)/金融改革/行政改革/「解放奴隷」登用/属州統治/司法改革/社会改革(福祉政策/失業対策・植民政策/組合対策/治安対策/交通渋滞対策/清掃問題/贅沢禁止法)/首都再開発/カエサルのフォルム/教師と医師/その他の公共事業/カエサルの特権/不満な人びと
第七章 「三月十五日」
紀元前四四年三月十五日~前四二年十月
三月十五日/三月十六日/遺言状公開/妥協/カエサル、火葬/逃走/オクタヴィアヌス/暗殺者たち/国外脱出/アントニウス弾劾/復讐/「第二次三頭政治」/キケロの死/「神君カエサル」/ブルータスの死
第八章 アントニウスとクレオパトラ対オクタヴィアヌス
紀元前四二年~前三〇年
第一人者アントニウス/クレオパトラ/「ブリンディシ協定」/オクタヴィアヌスの恋/アントニウスとクレオパトラの結婚/パルティア遠征/異国での凱旋式/対決へ/準備/アクティウムの海戦/最終幕/エピローグ