坂井孝一「承久の乱-真の「武者の世」を告げる大乱」の読書備忘録(要約と紹介と感想と)

この記事は約21分で読めます。

いささか冗長な箇所が散見されます。例えば後鳥羽上皇の多才多芸を紹介するくだりや、源実朝の和歌の解説のくだりは、そんなに紙面を取らなくて良いのにと思いました。

なぜなら、本書のテーマは承久の乱だからです。

さて、本書は一般的なイメージを払拭し、研究の進展に即した承久の乱を描くことを目的としています。

研究の進展によって、朝廷と幕府の関係は対立の構造だけで捉えられるものではなく、後鳥羽が目指したのも執権北条義時の追討であって倒幕ではなかったことが明らかになってきた。高校日本史の教科書も、後鳥羽は「北条義時追討の兵をあげた」「義時追討の命令を諸国に発した」と叙述し、「倒幕」「討幕」という表現は少なくなっている。

承久の乱-真の「武者の世」を告げる大乱 はじめに ⅰ

さらに、後鳥羽上皇や源実朝の人物像も誤解されてきました。

後鳥羽上皇は無謀にも幕府にたてつき、返り討ちで島流しにあった、傲慢で情けない人物ではなく、諸芸能や学問に秀でた有能な帝王でした。

源実朝も天才歌人だが政治的には無力な将軍で、暗殺された悲劇の貴公子ではなく、長じてからは将軍として十分な権威と権力を持ち、幕政に積極的に関与していたことが明らかになっています。

後鳥羽上皇の朝廷と源実朝の幕府は親密な協調関係を築いていました。

同じく承久の乱を扱った本として、本郷和人「承久の乱 日本史のターニングポイント」があります。比較して読まれると一層理解が深まると思います。それぞれの視点が違っていて面白いです。

序章 中世の幕開き

院政期

一般的には院政は院による専制政治と理解されますが、天皇を国政機関上の公式な王とする考えがあり、院は非公式の存在とみなされたことも事実です。

非公式の立場ながら、位階を定める叙位や官職に補任する徐目、皇位選定のような案件にも介入し、朝廷政治の実質的な指導者、最高権力者としてふるまうことができる地位を「治天の君」といいました。

井原今朝雄氏によると院政の政治形態は天皇・摂関・院の三者による共同執政というべきもので、時々の力関係で左右されたとします。

院政期は武士の台頭と寺社の強訴が特徴的です。河内源氏と伊勢平氏、興福寺と延暦寺などです。

保元の乱と平治の乱

白河上皇による院政は次世代以降に引き継がれます。

次の鳥羽上皇の時代に、鳥羽上皇と崇徳上皇の確執があり、摂関家でも確執が進みます。

鳥羽上皇は後白河天皇に譲る前に手を打ち、源義朝、平清盛、足利義康ら有力な京武者や検非違使、衛府などを天皇の陣営に糾合していました。

対する崇徳上皇側は、源為義、平忠正ら院や摂関家に仕える私兵に頼るしかありませんでした。

こうして起きた保元の乱は兵力の差が歴然としており数時間で勝負が着きます。武者の世の到来です。

保元の乱後、政治の主導は信西が握ります。信西は王権の高揚を意図した政策を次々に打ち出します。

しかし信西に対して批判が集中するようになります。その急先鋒は藤原信頼です。

信西を排除するクーデターが起きます。平治の乱です。

保元の乱と平治の乱を通じて王権が大きく動揺する中で存在感を高めたのが平清盛でした。

院政期には巨大なモニュメントの造立、都市建設が注目されます。膨大な知と財が惜しげもなく費やされます。

強大な権力と豊かな財力を持つ治天の君の出現がそれを可能にしました。

白河院政から鳥羽院政、後白河院政をへて後鳥羽上皇の時代が到来します。

ここでは上皇が権力を持つにいたる理由が今一つはっきりとしません。

本郷和人氏は天皇家の家長であることから、権力を持つことができると解説しています。複数の上皇がいたとしても、天皇家の家長はただ一人であり、そうした上皇を「治天の君」と呼んだと説明しています。

本郷和人氏の捉え方は、エマニュエル・トッド氏の家族型の分布の影響を受けているように思います。日本は直系家族型に分類され、親は子に対し権威的である社会とされますので、この考えを踏襲すると、上皇が権力を持つにいたる理由がすっきりとします。

第1章 後鳥羽の朝廷

神器無き践祚

治承・寿永の内乱(源平合戦)の結果、平家と共に天皇の正統性を証明する三種の神器が持ち去られます。

後白河上皇は治天の君として新天皇の選定に入ります。

その結果、誕生したのが後鳥羽天皇でした。神器のない践祚でした。

戦時体制の平時化

源頼朝は平家没官領を武士たちに恩賞として与えました。これは挙兵以来占領地で行ってきたことです。

高橋典幸氏によると、内乱を戦い抜くために編み出した制度や軍事組織を終結後も維持し、戦時の体制を平時の体制として朝廷に認めさせたことで、鎌倉幕府を樹立しようとしたと考えます。

武士たちは伝統的権威に魅了され、官職への補任を望みます。

しかしこれは頼朝の求心力を弱める可能性がありますので、自分の推挙なしに官職につくことを禁じました。

文治元(1185)年、頼朝は北条時政を上洛させ、源義経捜索の名目で守護と地頭を設置する勅許を得ます。こうして全国政権としての枠組みがほぼ出来上がります。

後鳥羽天皇の親政

建久3(1192)年、後白河上皇が死去します。後白河院政が終了して後鳥羽天皇の親政が始まります。

櫻井陽子氏の研究により、朝廷は消去法的に「征夷」「大将軍」を選んだことがわかりました。従来の、非常の大権を行使しうる征夷大将軍を強く望んだという学説は否定されました。

建久10年、源頼朝が急死します。

後鳥羽上皇の院政

その1年前、19歳になった後鳥羽天皇は為仁親王に譲位します。土御門天皇です。これにより後鳥羽上皇の院政が始まります。

この譲位は外戚の地位を得ようとした源通親が主導していました。

ですが後鳥羽上皇は着実に自立して行きます。

後鳥羽上皇が強く意識したのは正統なる王であることでした。正統性を保証する三種の神器は持ち去られたままです。宝剣は壇ノ浦の海底に沈んでしまいました。重大な欠格事項です。

後鳥羽上皇の生涯は正統なる王を目指し、正統なる王たることを確信するための長い旅でした。

後鳥羽上皇の多才多芸

譲位により後鳥羽上皇は自由を謳歌するようになります。そして人並外れたマルチな才能を開花させます。

元久2(1205)年、新古今和歌集が一応の完成を見ます。後鳥羽上皇26歳の時でした。

和歌のみならず、音楽にも運動の面でも才能を見せました。武芸も好み、得意としました。

学問や政治においても宮廷儀礼の復興を領導します。

そして31歳の時に土御門天皇から順徳天皇への践祚を実現します。

後鳥羽上皇は文化のソフト面には力を発揮しますが、ハード面には興味を示しませんでした。

第2章 実朝の幕府

武士と朝廷

研究の進展により東国武士は朝廷の官職を望み、伝統的権威で自らの権力を強化・維持しようと考えていたことがわかりました。

武士団内に在地と在京の役割分担を設け、在京の武士は貴族たちとの人脈作りに力を尽くしました。

在京豊かな武士の中には文化的に優れた才を持つ者もいました。

源実朝は将軍として天皇や院、公卿たちを相手にしますので、文化的教養がないと話になりません。

成人後の実朝は将軍の親裁を推し進めます。後鳥羽上皇との関係も良好でした。執権の北条氏といえど表立って反抗はできません。

実朝が朝廷と幕府、源氏と北条氏との狭間で苦悩したというのは先入観によるイメージです。

比企氏対北条氏

源実朝は頼朝と政子の次男として生まれます。後見人の乳母夫となるのは北条氏でした。ここに頼家の乳母夫の比企氏との確執が生まれます。

頼家が二代将軍になると北条氏と比企氏の確執が顕在化していきます。そして比企氏の滅亡と頼家の殺害へ繋がります。

三代将軍になるのが実朝ですが、実朝の名は後鳥羽上皇でした。

源実朝の親裁

幕政は権力闘争が続き、北条時政自身が失脚し、政子が親権を行使する形で代行します。実質的には弟の義時が政治を主導します。

五味文彦氏によると、承元3(1209)年4月に実朝が従三位に叙されたことを機に政所を開設して親裁権を行使し始めたとします。

以後に政所が中心的な政務機関となっていきます。

当時、北条義時や大江広元らの実朝を侮るような行動が見られました。文弱な将軍というイメージを作る記事が吾妻鏡にあります。

しかし、実朝は毅然とした対応ができました。義時が自分の郎従を侍にしてほしいという傲慢な要求をしますが、実朝は毅然と要求をはねのけたのです。

実朝は統治者としても次々に政策を打ち出して成果を上げます。最も重要な御家人役である京都大番役を厳格化し御家人統制策を進めます。注目すべきは、実朝の将軍親裁に御家人が従わなかったり、反発したりする形跡が無いことです。

和田合戦

建暦3(1213)年、鎌倉が戦場となる和田合戦が起きます。

背景には北条氏の相模支配に対する相模の御家人の反発があります。

反発の中心は侍別当の和田義盛です。三浦氏の長老です。実朝とも親密な関係でした。

御家人の指示を集め、実朝とも親密な和田義盛は、北条義時ら北条氏には目障りな存在でした。

和田と北条の確執が進む中、建暦3年2月16日に事件が起きます。

泉親衡の乱です。この逮捕者に義盛の子と甥がいました。子は実朝が赦免しましたが、甥は北条義時が流罪にします。

義時の挑発ですが、恥辱を受けた和田義盛ら一族は御所への出仕をやめてしまいます。

事の重大さを知った実朝は4月27日に義盛を慰撫する使者を送りますが、義時の傍若無人な振る舞いに一族を抑えきれないと返事します。

そして5月2日に和田義盛は挙兵に踏み切ります。しかし一族の三浦義村・胤義兄弟の裏切りもあり、敗れます。

乱の終了後、侍所別当に北条義時が任じられます。

和田合戦は将軍の地位の重さと権力の大きさを痛感させる出来事でした。勝敗の分岐点は将軍の身柄の確保にあり、将軍の花押を押した御教書が絶大な力を発揮したからです。

和田合戦後は将軍と執権が直接対峙するようになります。

第3章 乱への道程

後鳥羽上皇による源実朝の支援

和田合戦後、幕政は安定しました。2年後、後鳥羽上皇は源実朝に和歌を通じて手を差し伸べてきました。

建保4(1216)年になると官位を昇進させ働きかけはいっそう顕著になります。

この後鳥羽上皇の支援に実朝も応えます。将軍親裁に再び力を入れるのです。

後鳥羽上皇の支援に呼応した将軍親裁強化によって朝幕の協調関係はさらに進展します。

こうした中、建保4年6月に不思議な出来事が起きます。前世の夢を見た実朝は前世に住んでいた中国の医王山に向かうため渡宋すると言い出したのです。

建保年間の後半は幕府の政治課題は将軍の後継問題でした。実朝には実子がいなかったのです。

後継将軍問題

源実朝は後継将軍に親王を考えます。

建保6年、熊野詣を名目に政子が弟の時房を伴って上洛しました。後鳥羽上皇の皇子を後継将軍として迎えための交渉と思われます。

親王将軍の鎌倉下向は政所で審議されましたので、実朝の構想である事がわかります。

注目すべき点は政子、義時、時房、広元ら幕府首脳陣も目的を同じくして行動した点です。

源実朝にしても幕府首脳にしても公家政権の伝統的権威を武家政権に取り込み、いわば「東国の王権」として発展させる策は大きな利益をもたらすものでした。

将軍職を譲れば、幕府内院政ができます。後年、大殿として勢力を保持する例が出ます。

交渉は成功します。

後鳥羽上皇にしても我が子を将軍に据えれば、幕府をコントロール下に置いて、日本全土に君臨する帝王になる道が開けるからです。

実朝暗殺事件

こうした中で公暁による実朝暗殺事件が起きます。

公暁が親王将軍の動きを知っていた可能性もあり、そうなれば自らの将軍の道は閉ざされます。そうなる前に殺すしか無いと考えるのも不思議ではありません。

暗殺事件における北条義時の記述が史料によって異なります。筆者は愚管抄が最も信頼できるといいます。

それによると義時は実朝から石段より手前の中門でとどまっているように言われたため難を逃れたと言います。

吾妻鏡では義時が白い犬の幻影を見て気分が悪くなり、自宅に帰っていたので難を逃れたと言います。

著者は、吾妻鏡では義時が中門で控えている程度の存在とは書けないので、こうした記述になった可能性を提示しています。

難を逃れたことで、北条義時黒幕説がありますが、将軍後継者問題に一緒に取り組んできた義時が計画をご破算にするはずがなく、北条義時黒幕説は成り立ちません。

三浦義村黒幕説もありますが、吾妻鏡を論拠にしている点に難があります。

そのため公暁の単独犯と考えるしかありません

事件後、共犯者の捜索が始まりますが、咎ありとされたのはわずかでした。

突然の将軍空位

幕府首脳部にとって突然の将軍空位は想定外の危機です。

実朝がいなくなったことによる求心力の低下は避けられません。

そして公暁がそうだったように、源氏の血を引く者たちが将軍の地位を狙って反旗を翻し、幕府内が混乱する危険がありました。

懸念通り、実朝の叔父阿野全成の子時元が駿河で城郭を構え、宣旨を賜って東国支配を目論みます。すぐさま対応して時元を自害させます。

こうしたことを未然に防ぐために時元の兄弟を死に追い込みます。

他には頼家の遺児も京都で誅殺され、幕府首脳は源氏一族を粛清して求心力低下を防ぎます

源氏一族を粛清することが、求心力低下を防ぐことにつながるのかが理解できませんでした。誰もが納得できる源氏の血筋を棟梁に据えたほうが求心力低下を防ぐことにつながるように思うからです。

一方で将軍空位を解消するため力を注ぎます。後鳥羽上皇の親王を鎌倉に迎えるのです。

幕府首脳は、政子が政所別当の一人である二階堂行光を使者とし、宿老らが連署した奏状を添えました。この他、京都警護のため伊賀光季、大江親広を上洛させます。

幕府の必死さが伝わります。

後鳥羽上皇が突き付けた要求

後鳥羽上皇のもとに使者が届くと院御所で審議が行われました。後鳥羽上皇が下した結論は、すぐというわけにはいかないと言うものでした。

前年に快諾していましたので、事実上のゼロ回答です。真意を察せよということです。

信頼する実朝を守ることが出来なかった幕府への怒りと不信感がありました。

後鳥羽上皇は使者を鎌倉に送り込みました。

そして義時に摂津国長江・倉橋の二つの荘園を手放すように圧力をかけました。

両荘園ともに海運・水運の要衝に位置していました。

幕府が実朝亡き後、後鳥羽上皇の意思を受け入れるか否かを見極める試金石でした。

幕府首脳らは審議を重ね、後鳥羽上皇の要求をはねのけ、親王の下向を要請しました。

この時、北条時房が千騎の軍勢を率いて京都に乗り込みました。武力をチラつかせたのです。

後鳥羽上皇と幕府の間での妥協案は三寅の下向でした。のちの摂家将軍藤原頼経です。

大内裏焼失

京都ではとんでもない事件が起きていました。大内裏の焼失です。

幕府内の権力闘争、特に将軍の地位に絡んだ内紛が京都に持ち込まれ、兵火による焼失でした。

後鳥羽上皇にとって大内裏の再建は最優先事項になりました。

大内裏の再建には膨大な費用がかかります。各地で激しい抵抗が起きます。

後鳥羽上皇は最初こそ意気込んでいたものの、ある時期からは一応の形を整えておくという方針に転換したようでした。

京都では火災が相次ぎました。

この大内裏の焼失は幕府の内紛が持ち込まれたものであるため、後鳥羽上皇は幕府が地頭を指揮して積極的に再建すべきものと考えたでしょう。

この箇所は、著者が承久の乱の原因と考える肝となっている部分です。

ですが地頭が抵抗を見せたので、幕府がコントロール不能と判断したのです。

なぜコントロールできないのか。それは幕府の中に元凶がいるからです。北条義時です。

後鳥羽上皇は実質的に幕府を動かしているのは北条義時だと認識していました。ですから、幕府を倒せではなく、義時を倒せと言ったのです。

かつては後鳥羽上皇が目指したのは倒幕だと言われましたが、史料から読み取るのは難しく、大内裏の焼失事件から幕府をコントロール下に置くために、元凶である北条義時追討へ転換したと考えられます。

第4章 承久の乱勃発

御家人の取り込み工作

後鳥羽上皇は御家人の取り込み工作を秘密裏に進めます。ターゲットに選んだのは三浦胤義でした。

後鳥羽上皇は御家人の一族内、特に兄弟間の競合・対立を利用ようとしたようです。

後鳥羽上皇直々の勅定が下され、在京御家人や西面衆、畿内や近国の武士には廻文が出されました。

承久3年5月15日の朝、京都守護伊賀光を攻めます。続いて、北条義時追討の院宣を下します。

承久の乱の勃発です。

院宣の論理は、後鳥羽上皇の意思に従いたい御家人の願いに反し、奉行の北条義時が朝廷の威光を笠にきて政治を乱しているので、義時の奉行をやめさせ、後鳥羽上皇の意思で政治を行えば、御家人たちの願いも叶うというものでした。

つまり義時排除の一点において後鳥羽上皇と御家人の利害は一致するという論理でした。

御家人の心を掴むのに十分な院宣でした。

院宣と官宣旨

院宣は武田信光、小笠原長清、小山朝政、宇都宮頼綱、長沼宗政、足利義氏、北条時房、三浦義村の八人に宛てて下したとされます。

同時に北条義時追討の官宣旨も下します。内容はほぼ同じです。宛先は五畿内諸国の守護・地頭でした。

朝敵の追討には追討使を任命し、追討軍を派遣するのが通例ですが、後鳥羽上皇は追討使を任命した形跡がありません。

従来、院宣・官宣旨の力を過信し、院宣・官宣旨を下すだけで武士たちを味方にして、北条義時及び倒幕が可能と楽観視したからと解釈されてきました。

しかし、この説には本質的に事実誤認があります。それは後鳥羽上皇の目的は北条義時を排除して幕府をコントロールすることで、討幕を目的としていなかったからです。

後鳥羽上皇の戦略について

北条義時の排除に絞れば、一族内の競合・対立を利用するのが最も効率的です。そのため、8人の有力御家人を指名して院宣を下したのです。

そして東国御家人の帰趨を決定できるかわからないため、官宣旨で後鳥羽上皇の権力が浸透している畿内近国や西国の御家人に呼びかけたのです。

2段構えの戦略でした。後鳥羽上皇の戦略はずさんでも楽観論に基づくものでもなかったのです。

北条義時追討の院宣と官宣旨は院の下部である押松(おしまつ)に託されました。

三浦義村は院宣を読むと返事もせず、義時のところに駆け付け、押松を捕縛するように進言します。そして、幕府首脳部はすぐさま押松を捕縛します。

三浦義村は和田合戦の時もそうですが、キーパーソンでした。権謀の人と評価されがちですが、一貫して北条義時の側につき、ぶれませんでした。

その後、御家人たちが北条政子の邸宅に参集します。院宣の宛先8人のうち6人、武田信光、小笠原長清、小山朝政、宇都宮朝綱、長沼宗政、足利義氏が参上し、有名な演説が始まります。

魂を揺さぶる名演説は、幕府存亡の危機感をあおり、御家人たちは鎌倉方に付いて、京方を攻めるという選択を行いました。

鎌倉における評定

戦の評定については「吾妻鏡」に即します。評議では様々な意見が出ました。

当初は東海道の関所を固めて鎌倉での籠城作戦に決まりかけました。

しかし、これに大江広元が反対します。広元は院宣や官宣旨に追討使が任命されていないことに気づいたのかもしれません。そのため、追討軍が組織される前に、逆に攻勢をかけるのが最善の戦術と結論したのです。

北条義時はこの提案を受けます。遠江、駿河、伊豆、甲斐、相模、武蔵、安房、上総、下総、常陸、信濃、上野、下野、陸奥、出羽の諸国に対して命令を出しました。

幕府存亡の危機を打ち出すことで、東国武士の大量動員を図ったのです。

一方で、詳しい情報もなく、上洛して官軍と戦えと命じられた御家人の一部から不安・動揺が表面化します。

ぐずぐずしていれば幕府の基盤である武蔵の武士まで離反する可能性がありました。北条義時は嫡子の泰時に出撃を命じます。

京都では東国の武士が上洛しようとしているという一報が届き、予想もしていなかった展開に院の人々は驚き動揺します。

そして押松がもどってきて、東海道・東山道・北陸道より、19万騎の東国の武士たちが来ると言います。

後鳥羽上皇は急ぎ軍勢を出すように藤原秀康に命じます。

第5章 大乱決着

短期決戦

激戦となったのは、瀬田の合戦と宇治の合戦でした。それぞれを制した北条泰時の軍勢は京都へ入りました。

一方で、敗れた後鳥羽上皇側は御所に立てこもって最後の一戦にかけるつもりでしたが、後鳥羽上皇が門前払いにしてしまいます。しかたなく、東寺などに立てこもりましたが、敗れていきます。

承久3(1221)年6月15日、北条時房、北条泰時をはじめとした東海道、東山道の軍勢は入京を果たしました。

すぐさま勅定がでます。内容は義時朝臣追討の宣旨の撤回、帝都での狼藉禁止、などでした。

一方、吾妻鏡によると、院宣を読むことができる者として、5千余りの鎌倉方の中から武蔵国の藤田能国を召し出します。それによると、この大乱は後鳥羽上皇の意志によって起きたのではなく、謀叛をたくらむ謀臣が起こしたものだと言います。

後鳥羽上皇は責任を回避し、責任転嫁を図ったのです。

残党の掃討は長く続きました。6年後にも残党が捕まった記載があります。同時に、北条時房・北条泰時は鎌倉方の武士たちの勲功の審理に当たります。

戦後処理

戦勝の報告は6月23日には鎌倉に届きます。

北条義時ら幕府首脳陣は、後鳥羽上皇をはじめとし、公卿・殿上人の処罰、朝廷人事の刷新など、戦後処理の課題が山積でした。

7月8日には守貞親王が院政を開始します。後高倉院政です。守貞親王は皇位についていません。天皇につかずに治天の君となったのは、守貞親王だけです。

7月9日には仲恭天皇から後堀川天皇へ変わり、摂政も九条道家から近衛家実に代わります。

野口実氏によると宮中の戦後処理において、もっとも重要な役割を果たしたのは三浦義村だったとします。

幕府による戦後処理の中で人々に衝撃を与えたのは、後鳥羽上皇の隠岐配流でした。帝王が武家の力によって孤島へ流されたのです。

新たな天皇と院を幕府が決定

歴史的には、より注目すべきは、新たな天皇と院を幕府が決定したことです。院政期、天皇の選定は治天の君が握っていましたが、その治天の君が幕府によって流罪にされるという異常事態が起きたのです。

圧倒的な勝利をした幕府の前に、王家・摂関家・公卿の合議は全く機能せず、天皇・院の人事権は幕府に握られてしまいます。

以後、院政は続きますが、白河・鳥羽・後白河・後鳥羽と4代続いた院政とは異なり、武家優位の下で展開されるようになります。

後鳥羽上皇に賛同した順徳上皇は佐渡国に配流されます。土御門上皇は乱に協力はしませんでしたが、土佐国に配流となります。

3人の院が流罪になる三上皇配流という前代未聞の結末を迎えます。

幕府は京方に属した貴族・僧侶たちも処罰します。東国へ連れてくるように指示がでてましたが、実際は東国へ下向する途中で斬首されました。

目につくのは新興の院近臣家の人々でした。五摂家とは別流の一条家、坊門家、高倉家などです。

京方についた武士たちも処刑されました。

第6章 乱後の世界

六波羅探題

承久3(1221)年6月中旬から、京都で北条泰時・北条時房、三浦義村らが戦後処理を行います。拠点としたのは六波羅です。

六波羅は平家が居館を構えた地ですが、滅亡後は没官領として源頼朝に与えられ、京における幕府の拠点となっていました。

このあと六波羅には北条一門が1名ないし2名常駐し西国守護と御家人を指揮します。六波羅探題(北方、南方の両探題)です。

六波羅探題は裁判権も行使するようになります。ただし、判決に不服があれば、鎌倉に訴えることとができました。和解したい場合は、関東下知状で和解内容を認めてもらう必要がありました。

六波羅探題はあくまでも幕府の出先機関で、鎌倉の指示に従うように厳しく規制されていたのです。

六波羅探題の指揮下に入った西国守護にも大きな変動がありました。幕府は京方の御家人の守護職を没収し、東国御家人に与えたのです。

鎌倉中期以降は北条家一門の西国守護も増えていきます。

京方の貴族や武士の所領3,000も没収され、鎌倉方の御家人たちに恩賞として配分されました。

新恩を給与された東国御家人は、新補地頭として移住していきます。この西遷御家人により、幕府の支配権は西国にまで及ぶことになります。

幕府は貞応2(1223)年6月に新補地頭の得分の比率を宣旨によって決定するように朝廷に要請します。新補率法といいます

中世における荘園・公領制は承久の乱を経たことによって一つの完成形に到達します。

世代交代

貞応3(1224)年、北条義時が急死します。北条泰時は急遽鎌倉へ帰還します。義時の未亡人伊賀氏の陰謀(伊賀氏事件)を乗り切ると、3代目の執権となります。

同じころ、北条政子、大江広元が死去し、源実朝亡き後の幕府を実質的に動かしてきた首脳陣のいなくなり、一つの時代が終焉しました。

嘉禄元(1225)年、北条泰時は連署(執権の補佐役)の北条時房や有力御家人を御所に集めて評議始を行います。

執権・連署・評定衆が政治を運営する執権政治の開始です。

北条泰時は貞永元年に御成敗式目(貞永式目)を制定し、合議に基づく執権政治は、成文法典という客観的なよりどころを得たのです。

仁治3(1242)年、四条天皇が急死すると、朝廷は順徳上皇の皇子忠成の皇位継承を望みます。しかし、幕府は承久の乱に積極的に関与した関係者を排除したかったため、順徳上皇の皇子の即位を反対します。

結果的に、土御門上皇の皇統を継ぐ後嵯峨天皇が即位します。

仁治3(1242)年、北条泰時が死去します。享年60歳。2年前には北条時房も66歳で死去しており、また一つの時代が幕を閉じました。

新たな執権は北条経時です。将軍頼経と年齢が逆転することにより、幕政の主導権をめぐる緊張関係が生じます。

病に倒れた経時に代わって執権となった弟の北条時頼が攻勢に出て、将軍頼経を京都へ送還します。

北条氏の嫡流「得宗」の専制をふるう道をひらくものです。

承久の乱から20年。朝幕協調が復活します。

終章 帝王たちと承久の乱

寛喜3(1231)年、幕府から処断されなかったにもかかわらず、自ら土佐国に赴き、次いで阿波国に移った土御門上皇が没します。享年37歳でした。

延応元(1239)年、後鳥羽上皇は隠岐で没します。享年60歳でした。

仁治3(1242)年、順徳上皇は佐渡国で死去します。享年46歳でした。

人々は後鳥羽上皇の生前から、怨霊・生霊に恐れを抱いていました。北条義時、北条政子、大江広元の死、寛喜の飢饉、皇族の相次ぐ死、など後鳥羽上皇の怨念ではないかと考えたのです。

後鳥羽院の御霊は鶴岡八幡宮北西の山麓に勧請して祀られました。

13世紀後半には後鳥羽の怨霊は問題視されなくなります。

再び注目されるのは、後醍醐天皇の建武の新政を経て、南北朝の動乱が展開する14世紀半ばになってからです。

この頃には承久の乱に対する歴史認識にも変化が現れます。

14世紀前半までの文献には、関東を滅ぼす、倒幕、討幕などの表現は見られませんでした。

後醍醐天皇は倒幕を成し遂げますが、その後後鳥羽上皇と同じく壱岐に流罪となるため、後鳥羽上皇も倒幕を目指し失敗した事件という歴史認識が生まれ広がりを見せました。

15、16世紀になると、その傾向は一層顕著になります。吾妻鏡が15世紀後半の応仁・文明の乱後広く受容されるようになったことも影響しています。

現在の承久の乱の一般的なイメージは中世末期に根幹が作られたのです。

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