西郷隆盛:「敬天愛人」天を敬い人を愛した幕末・明治の英雄

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上野公園の西郷隆盛像

西郷家

西郷隆盛。文政10年(1827)12月7日生まれ、明治10年(1877)9月24日死去。51歳。

江戸時代の文政10年12月7日、鹿児島の下加治屋町に薩摩藩下級士族・西郷吉兵衛隆盛の長男。薩摩藩士。西郷吉兵衛は小姓組だった。母・マサ。

諱は隆永、のち隆盛。幼名は小吉、吉之介。父の死後吉兵衛を継ぎのち吉之助と改め、名を隆永、明治以後は父と同じ隆盛を称した。通称は吉兵衛、吉之助。号は止水、南洲。変名に大島三右衛門、菊池源吾。

実弟に西郷従道、従弟に大山巌がいる。

少年時代を貧苦のなかに過ごし、少年時代からの友人に大久保利通、伊地知正治らがいる。

幼少期から青年期まで

天保12年(1841)元服、吉之助隆永と名乗る

弘化元年(1844)18歳で郡方書役助。ついで書役となり27歳まで勤めた。、

嘉永3年(1850)高崎崩れで赤山靭負が切腹。赤山らの意志を継ぐため「近思録」を輪読する会を大久保正助(利通)らと結成する。伊藤茂右衛門に陽明学、無参和尚に禅を学ぶ。

嘉永5年(1852)須賀と結婚。祖父・遊山、父・吉兵衛、母マサが死去

島津斉彬に見いだされる

嘉永6年(1853)家督を相続、通称を善兵衛に改める。ペリー来航。農政改革を求める意見書で藩主・島津斉彬に見いだされる。

嘉永7年-安政元年(1854)江戸詰に任ぜられ、御庭方役に抜擢され斉彬から政治的手ほどきを受け、条約問題、一橋慶喜を将軍継嗣に擁立する運動を推進した。この活動の中で、藤田東湖や橋本左内と知り合い、志士として天下に広く知られるようになった。

妻の実家が須賀を引き取る。

安政元年-2年(1855)西郷家の家督を継ぐ。吉兵衛へ改める。橋本左内と国事を話し合う。

安政3年(1856)武田耕雲斎と会う。斉彬の密書を水戸藩の徳川斉昭に届ける。同年、第13代将軍・徳川家定と斉彬の養女・篤姫が結婚。

安政4年(1857)参勤交代の帰途に熊本藩の長岡監物津田山三郎と会い国事を話し合う。大久保利通と共に徒目付となる。斉彬の密書を越前藩主松平慶永に届け、橋本左内らと一橋慶喜擁立を協議する。

安政の大獄

安政5年(1858)篤姫から近衛忠煕への書簡を携え京都に赴く。僧・月照らの協力で慶喜継嗣の内勅をはかるが失敗。

同年、紀州派(反対派)の大老・井伊直弼の登場で紀州藩主徳川家茂が将軍継嗣に決定し一橋派が敗北する。徳川斉昭に謹慎、松平慶永に謹慎隠居、徳川慶喜の登城禁止が命じられる。

斉彬が天保山で大軍事訓練を実施するが、同年7月に鹿児島で急逝する。斉彬の弟忠義が家督を相続し、島津久光が後見人となる

情勢が逆転し、幕府の追及で窮地にたった西郷は絶望して、京都で斉彬の訃報を聞き殉職しようとしたが月照らに説得され斉彬の遺志を継ぐ決意する。

近衛家から託された孝明天皇の内勅を水戸藩尾張藩に渡すため江戸に赴くが京都に戻る。再び上京し挙兵をはかるが捕吏の追及が厳しいため大阪を出航、下関経由で鹿児島へ帰る。捕吏の目を誤魔化すために藩命で西郷三助と改名させられる。

月照が鹿児島へ来るが藩当局は彼らを東目(日向国)へ追放することを決定し、僧・月照と鹿児島湾に投身自殺を試みるが、西郷のみ命を取り留めた。この事件で西郷は天命を悟ったといわれる。

幕府をはばかった薩摩藩は、西郷を菊池源吾と変名させ奄美大島に隠すことにした。

流罪の時期

安政6年(1859)大久保利通らに後事を託し奄美大島龍郷村に着く。龍家の一族佐栄志の娘とま(愛加那)を島妻とする。島民のよき相談相手となって慕われた。

万延元年(1860)菊次郎が誕生。

文久元年(1861)見聞役・木場伝内と知り合う。

文久2年(1862)島津久光が亡兄・斉彬の遺志を継いで公武合体運動に着手するにあたって召還され、朝幕周旋に働く。このとき西郷三助から大島三右衛門と改名した。

西郷は久光の計画に批判的であり、また京坂の尊攘派鎮撫のため独断上坂したので久光の怒りに触れ、罪人として徳之島湾仁屋に流される。愛加那が菊草(菊子)を生む。

ついで沖永良部島に流された。この時、弟たちが遠慮謹慎などの処分を受け西郷家の家財は没収され最悪の状態となる。島での生活は西郷の人物を鍛えたといわれる。

文久3年(1863)薩英戦争の情報が入ると処罰覚悟で鹿児島へ帰り参戦しようとする。

薩摩藩藩政復帰

元治元年(1864)参予会議の失敗で薩藩公武合体運動が行き詰まると、大久保利通、小松帯刀らの勧めで赦免されふたたび召還され藩勢の回復にあたることになった。

軍賦役、小納戸頭取に任命され京都での政治工作に従事、村田新八を伴い京都に到着。徳川慶喜の出兵命令を小松帯刀と相談のうえ断る。

蛤御門の変(禁門の変)で薩軍を指揮して長州勢を撃退。薩藩の地位を向上させた。同年、側役に昇進、西郷吉之助と名のった。

まもなく始まった第一次長州征伐において、征長軍の参謀に任じられて長州藩の無血降伏を実現し天下に名をあげた。

慶応元年(1865)幕府中心主義克服の道を模索する。家老座書役・岩山八太郎直温の次女イト(絲子)と結婚。

坂本龍馬を同行して鹿児島に帰り、幕府の征長命令を拒否すべしと藩論をまとめる。

鹿児島入りした中岡慎太郎が西郷に薩長の協力と和親を説き、桂小五郎(木戸孝允)との会談を約束させる。

上京し幕府の長州再征に協力しないよう大久保へ伝え朝廷工作を進め、京都で坂本龍馬と会い長州の武器購入を承諾し薩長和親の実績をつくる。

慶応2年(1866)幕薩関係が悪化すると、今度は第二次征長の阻止に動いた。

坂本竜馬の仲介で小松帯刀邸で桂小五郎と薩長提携六ヶ条を密約、坂本龍馬が提携書に裏書する。薩長同盟の成立。

寺田屋事件が起き、薩摩藩邸が龍馬を保護する。小松帯刀、坂本龍馬夫妻らと大坂を出航し、鹿児島へ戻る。

同年年末から翌慶応3年1月まで、四侯会議で雄藩連合政権の結成を目指し奔走したが失敗する。

嫡男寅太郎が誕生。大目付、陸軍掛家老座出席に任命、病気を理由に大目付は返上する。

大政奉還、王政復古の大号令

慶応3年(1867)倒幕を決意し、大久保とともに藩をその方向にまとめ、10月14日に討幕の密勅が薩長両藩に降下したが、土佐藩、安芸藩と提携し、同日将軍慶喜は大政奉還上表、翌日勅許された。

その逆をついて12月9日王政復古のクーデターに持ち込み、明治維新政府の誕生に大きな功績をたてた。同月、参与に任命される。

慶応4年1月、京都に進軍する旧幕府軍を鳥羽・伏見の戦で撃退した。

慶応4年-明治元年(1868)戊辰戦争では東征大総督府参謀に就任。静岡で徳川慶喜の使者・山岡鉄舟と会見し徳川処分案7ヶ条を示し、3月に勝海舟との会談で江戸無血開城に成功。

江戸開城を扱った小説として、海音寺潮五郎「江戸開城」がある。

仙台藩(伊達氏)を盟主とする奥羽越列藩同盟との東北戦争に臨む。

彰義隊掃討戦で軍事指導権を長州の大村益次郎に奪われ、鹿児島に帰郷。

庄内藩討伐にあたり寛大な処置で庄内士民に敬慕された。

明治2年(1869)藩主・島津忠義に請われて藩参政のち大参事に就任、凱旋将兵の主張に沿って門閥打破、大規模常備軍の編成を柱とした藩政改革を推進。

箱館戦争の応援に総差引として藩兵を率い、箱館五稜郭が開城。戊辰戦争が終結し、戦功により賞典禄2000石。

初めて「隆盛」という名を用いる。

新政府

明治3年暮れ、鹿児島に下向した勅使岩倉具視に、西郷は政府改革のいくつかの条件を認めさせ、政府強化を期す岩倉具視、大久保らの求めに応じて明治4年1月に上京。

明治4年6月、薩長土3藩から招致した軍隊による御親兵の編成が成り、参議に就任、廃藩置県の密議に賛同し成功に導いた。

岩倉使節団(特命全権大使・岩倉具視、副使・木戸孝允、大久保利通、伊藤博文ら)が米欧に派遣された際は筆頭参議兼大蔵省御用掛として太政大臣・三条実美、参議・西郷ら留守政府が推進した急進的改革政策を指導した。

外遊派は、新規事業と政府首脳部人事の凍結を西郷に誓約させたが、留守政府では各省が学制、徴兵制度、地租改正などの重要政策実現に邁進している。

明治5年(1872)明治天皇の中四国九州巡幸に随行し、帰京後、陸軍元帥兼参議兼近衛都督に就任。

征韓論政変

明治6年(1873)陸軍大将兼参議。同年5月、朝鮮釜山の大日本公館をめぐって日朝間にトラブルが発生し、日朝国交問題が緊迫する。

6月、閣議で参議板垣退助は出兵論を主張した。西郷は反対し、自ら使節となって朝鮮に渡り平和的交渉によって日朝間の国交の正常化の解決に当たりたいと非常な熱意で要望した。

8月、閣議はいったん西郷を使節朝鮮派遣を決定、裁可された。ところが太政大臣・三条実美は西郷の平和的交渉論を征韓論と誤解し、9月に帰国した右大臣岩倉具視と謀って西郷派遣の延期を求めた。だが、西郷はこれを断った。

10月、閣議は改めて西郷派遣を決定したが、参議大久保利通は猛烈に反対論を主張、岩倉、参議木戸孝允、同伊藤博文らが大久保を支持して連袂辞職を表明、対策に窮した太政大臣三条実美は急病を発して政務処断能力を喪失。

同月23日、岩倉が太政大臣代理となり大久保利通、伊藤博文と組んで先の決定を覆し、使節派遣は中止された。

即日、西郷は下野し、25日、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣らも下野。同調した政治家軍人官僚600名余りが大量辞任する。征韓論政変といわれる。

通説では西郷が征韓論に敗れて辞職したものとされているが、西郷は征韓論に反対し、平和的道義的交渉による日朝国交の正常化を求め、朝鮮使節を切望した。

鹿児島に退去した西郷を追って薩摩出身の近衛士官、兵の多数が天皇の制止も聞かずに鹿児島に引き揚げた。

帰郷して私学校を経営し、士族授産に尽力した。

西南戦争

明治7年6月に士族の教育、軍事訓練、開墾事業を推進する機関として鹿児島に設立した私学校の経営を腹心の桐野利秋、村田新八らに委ねて、西郷は悠々自適を決め込んだ。

私学校党は鹿児島県政を掌握して、県官任免、禄制整理、地租改正、徴兵制という政府の主要な政策を拒絶した。

明治9年(1876)西日本で士族の乱が立て続けに起こる。熊本県士族の神風連の乱、福岡県士族の秋月の乱、山口県士族の萩の乱。政府は鹿児島士族の反乱を警戒するようになる。

明治10年(1877)中央政府との疎隔がはなはだしくなり、部下に擁立されて西南戦争を起し、敗れて9月24日城山で自刃した。

田原坂の戦いを描いた小説として海音寺潮五郎「田原坂 小説・西南戦争」がある。

死後、陸軍大将の位階などが復元された。

座右の銘は「敬天愛人」。

上野公園の敬天愛人の碑

西郷隆盛像

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上野公園の西郷隆盛像
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