中村彰彦「落花は枝に還らずとも 会津藩士・秋月悌次郎」を読んだ感想とあらすじ(最高に面白い!)

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覚書/感想/コメント

第24回新田次郎文学賞

幕末といえば、志士を扱った小説が多い。いわゆる武官肌の人物が多く描かれてきている。だが、本書は文官を主人公としている。

会津藩士・秋月悌次郎。「日本一の学生(がくしょう)」と呼ばれ、晩年にはラフカディオ・ハーン(小泉八雲)に「神のような人」と評された人物である。

秋月悌次郎は朱子学一筋に生きてきた。

その悌次郎は元服前まではせっかちで気性が荒かった。だが、ある日、韓非子を読むうちに忽然と悟った。

「西門豹の性は急なり。ゆえに韋を佩びて、もって己を緩くす」

この逸話を知ってから、悌次郎は韋をつねに懐中か袖の袂に入れ、激怒しそうになるとその韋を撫でて心を鎮める習慣をつけた。同時に韋軒と号することになる。

韋軒の秋月悌次郎に対して、竹馬の友とであるのが羽峰こと南摩三郎である。

悌次郎は昌平坂学問所を去る三郎にはなむけの詩を送っている。
「経世の術は、必ずこれ性命の微に原く。
性命の微は、必ずこれ治国の用に発す。
すなわち学は理窟に陥らず、治は覇術に流れず。」

つまり、『―国を治める術は、人の生まれながらの性質あるいは天命という本原に根差したものでなければならない。人の生まれながらの性質あるいは天命は、治国に用いられるものでなければならない。そこをよく承知しておけば、学者として生きていっても学がただの理屈に陥らないし、政治をおこなっても覇道に流れることはない』ということである。

秋月悌次郎の詩として有名なのが「北越潜行の詩」である。

『これは、秋月悌次郎一代の絶唱であった。
賊徒として討たれ、天地の間に身を容れるところを失った会津人の胸の思いを切々と詠んだとき、いつかかれは旧会津藩の心を代弁する文人へとおのれを昇華させていたのである』

行くに輿なく帰るに家なし
国破れて孤城雀鴉乱る
治功を奏せず戦いに略なし
微臣罪ありまた何をか嗟かん
聞くならく天皇元より聖明
我が公の貫日至誠より発す
恩賜の赦書はまさに遠きに非ざるべし
幾度か手を額にして京城を望む
之を思い之を思えば夕晨に達す
愁いは胸臆に満ちて涙は巾を沾す
風は淅瀝として雲は惨憺たり
何れの地に君を置き又親を置かん

秋月悌次郎が通った會津藩校「日新館」はこちらで紹介

會津藩校日新館の訪問録(福島県会津若松市)入口から建物の様子まで
会津藩校を復元會津藩校の日新館の復元。1987年に完全復元。会津若松市河東町にある。〒969-3441 福島県会津若松市河東町南高野字高塚山10TEL:0242-75-2525FAX:0242-75-3215什(じ...

「第十六章 神のような人」を読むために、この小説はあるようなものだ。そして、こうした教師に出会っていたならば、確実に己の人生が変わっていたであろうと思わせる。秋月悌次郎とはそうした教師であった。

東京で謹慎生活を送っている秋月悌次郎が母お伊野宛てに書いた手紙に後年の悌次郎のあるべき姿というものが映し出されている気がしてならない。

そこに書かれたのは次のような趣旨の内容だった。

『一度枝を離れた落花は、その枝に還って咲くことは二度とできない。しかし、来年咲く花の種になることはできる。
会津滅藩に立ち会い、亡国の遺臣と化した悌次郎は、自身を落花になぞらえることにより、逆風の時代になおかつ堪えて生きる覚悟を初めてあきらかにしたのである。』

はからずも、悌次郎は「来年咲く花の種」となるべく、これから国を担う若者たちを育てるために晩年のすべてを捧ぐことになる。
悌次郎は、東京大学予備門、第一高等中学校での教諭生活を経て、熊本の第五高等中学校教諭になる。

この時には名を秋月胤永(かずひさ)と変えている。この晩年の胤永の心のぬくもりを、もっとも理解したのがラフカディオ・ハーンであった。のちに小泉八雲の名で知られることになる人物である。

ハーンは胤永をこう評している。

『「秋月先生のそばにゆけば、ファイヤー・サイドに行った気がする」
とかねがね語っていたハーンは、そのころの胤永をのちにこう記すことになる。
「(中略)秋月氏はしだいに齢を加え、高齢となり、だんだん神さまのような風貌を呈してきた。
いったい、日本の神さまというものは、(中略)どんなかっこうをしているかと訊くとしたら、わたくしは、こうそれに答えたい。それは、「長い、白いヒゲをたらして、白装束に白の束帯をしめ、ひじょうに柔和な顔をした、しじゅうにこにこわらっている、高齢の老人だ」と
胤永は自宅にくつろぐとき、あるいはハーンの家を訪ねるときはいつも和服であった。ハーンはいつもにこやかにしている胤永に神を見出したのである。』

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内容/あらすじ/ネタバレ

文久元年(一八六一)三月初め。水戸街道上に二人の武士の姿があった。二人は十三山書楼を訪ねた。

一人は、五尺一、二寸しか背丈のない小柄の男は髷を総髪の儒者頭に結っている。三十八歳の秋月悌次郎である。もう一人は外島機兵衛。二人は会津二十三万石藩主・松平容保の家来である。

二人が訪ねたのは加藤有隣である。天下の碩学の一人に数えられている。

水戸藩は尊皇攘夷を主張する水戸学の総本山である。水戸の過激な尊皇攘夷は蠢動を続け、長州藩と密かに盟約を結んだとのうわさがある。徳川親藩の会津藩・松平容保は水戸藩の行く末を心配して内情を知ろうとしていた。

加藤有隣は水戸藩の内情をかいつまんで語り、同藩の尊皇攘夷派にも激派と鎮派(穏健派)があることを教えてくれた。そして武田耕雲斎と原市之進を訪ねよと助言した。

悌次郎は原市之進との面識がある。それはかつて昌平坂学問所に留学したときのたまものだった。

「水戸の三ぽい」という。理屈っぽい、怒りっぽい、ひがみっぽい、である。原市之進は律儀者だが、とにかく理屈っぽかった。

原市之進は他行中だったが、書状を残していた。

そこには水戸脱藩の十七名がなぜ桜田門外の変をおこしたのかを「戊午の密勅」問題から説いていた。

事情を詳しく知った二人はこの後、武田耕雲斎を訪ねた、旧知の数名を訪問し自重を促して江戸へ去った。この時から水戸では会津に秋月悌次郎ありと知られ始めた。

江戸の上屋敷に戻り江戸家老の横山主税に報告した。

秋月悌次郎の生まれた丸山家は高遠以来の家筋の一つである。

悌次郎の一つ上には南摩三郎がいる。圧倒的な学力によって幼い門人仲間を仰天させていた。悌次郎はその三郎と親しく付き合うようになっていた。

天保四年(一八三三)、十歳になった悌次郎は宗川塾を去り藩校の日新館に通いだした。日新館では今日でいうところに小学校から大学までの一貫教育がおこなわれていた。学生たちの数は一千。悌次郎の学力は常に首席だった。

十九歳になり、悌次郎は江戸に行くことになった。昌平坂楽音所で学ぶためだ。これまで丸山家から昌平坂学問所に留学した者はいなかった。そこで、これを機に、分家することになった。

藩からすんなりと許しが出たこともあり、悌次郎は一家を立てて新たな姓を創出した。「秋月」である。

江戸に出たものの、すぐには昌平坂学問所には入れなかった。定員がわずかに八十名。そのための順番待ちがあった。

四年がたち、弘化三年(一八四六)に晴れて入学した。悌次郎二十三歳である。その一年後、南摩三郎が入学してきた。五年ぶりの再会だった。

昌平坂学問所での学問は、自学自習をもっぱらとした。講義はあったがさほど重きを置いていない。書生同士で申し合わせ会を定めて稽古したのだ。

嘉永三年(一八五〇)、秋月悌次郎は書生寮の舎長助勤となった。その翌年、南摩三郎は藩から洋学修業を命じられ、外に師を求めることになった。

原市之進が入寮したのは嘉永六年(一八五三)の春だった。

それから間もなく、アメリカのペリーが来航した。

安政三年。三十三歳になっていた悌次郎は舎長となっていたが、会津に帰国することになった。

悌次郎の使っていた北寮の一室はそのまま保存されることになった。本人はそのことを知らなかった。そして、悌次郎は「日本一の学生」であったといわれるようになる。

安政六年(一八五九)。秋月悌次郎に藩命が下された。中国、四国、九州の西国諸藩の政情を探ってこいというものだった。

八年前、南摩三郎は西国に関する報告書を上げている。ここでの評価が高かったのは萩藩(長州藩)と薩摩藩だった。この報告書を上回るものを作成するのはなかなか容易ではなかった。

三月初め、悌次郎は東海道を西に下って行った。

備中松山に入った時、悌次郎は長岡藩牧野家の河井継之助と出会う。この年、三十三歳である。

この後、悌次郎は継之助と別れ、萩へはいって行った。萩では西洋学問所などを見物させてもらった。その中、十九歳の奥平謙輔という青年が悌次郎に漢詩の添削をしてもらうために訪ねてきた。

次に悌次郎が入って行ったのは薩摩である。そして、熊本、長崎へと向かった。

長崎で再び河井継之助と会う。継之助は悌次郎が長崎奉行支配の通詞を雇うことを知り、便乗するつもりだ。

文久元年(一八六一)。「観光集」「列藩名君賢臣事実」を提出していた悌次郎が水戸藩への使者として外島機兵衛の添役に指名された。
政情不安定の京都の治安を守るための京都守護職。これには二つの条件が必要だった。徳川家の親藩であること。そして武備の充実している藩であること。これを満たすのは福井藩と会津藩しかなかった。そして、福井の松平慶永はすでに政治総裁職についている。必然と松平容保がなるしかなかった。

松平容保は蒲柳の質である。その手足となる者を増やすため、秋月悌次郎は国許から呼び寄せられていた。

悌次郎は松平慶永を訪ねた。京都守護職に関する案件である。慶永には側用人として中根靱負がいる。福井藩主従は君臣一体と言っていい関係である。一方の会津藩は容保、横山主税、秋山悌次郎という線で対策を講じることになる。

「日本一の学生」といわれた悌次郎も、いつしか現実政治の世界に足を踏み入れていた。

この年、島津久光を追うようにして長州藩の毛利慶親も入京し破約攘夷を主張した。

会津から二人の国家老が出府してきた。田中土佐と西郷頼母である。

そして導き出されたのが、君臣もろともに京を死に場所にしようというものだった。この瞬間、会津は取り返しのつかない一歩を踏み出すことになる。

文久二年(一八六二)、松平容保は京都守護職就任を承諾した。

先乗り組が選抜された。その中に悌次郎もいる。他に田中土佐、広沢富次郎、大庭恭平らがいた。

文久二年春先から、長州藩は尊皇攘夷の急先鋒へと変貌をとげていた。悌次郎らは逆風が吹きだした時期の京都に行くことになってしまった。下手をすると、会津こそが尊攘激派と長州藩の最大の敵とみなされかねない。

そしてもう一つ待ち構えていたのは、権謀術数の世界であった…。

松平容保が京に姿を現したのは暮れのことだった。

文久三年(一八六三)一月二日。松平容保が天皇の名代から緋色の袙を賜った。悌次郎はこの一瞬のいわくいいがたい気持ちの高ぶりを広沢富次郎に語った。

薩摩藩が朔平門外の変によって一気に名望を失っていた。

その薩摩から高崎左太郎という人物が訪ねてきた。そして悌次郎はその日に面談したばかりに後世「薩会同盟」と呼ばれる盟約の立役者となってしまう。

望んだわけではないが、悌次郎は会津藩の公用局の中心人物のようになってしまった。

そして「文久三年八月十八日の政変」となる。長州が京から一挙に追われ、「七卿落ち」となる。

手代木直右衛門が留守居役に任じられてやってきた。直右衛門は悌次郎にふくむところがある。

この時期の会津藩の内緒はひっ迫していた。京での活動が長くなるにつれ、赤字の累積が増えていった。一種壮絶ですらあった。

横山主税が倒れた。続いて松平容保も心労で倒れてしまう。

発言力を増してきたのは手代木直右衛門であった。

秋月悌次郎は単身帰国した。横山主税を見舞い、すぐに戻るつもりでいた。

戻って驚いたのは、南摩羽峰が蝦夷地に左遷させられていたことであった。山本覚馬にしてもそうだった。そして、同じ運命は悌次郎にも降りかかる。

元治二年(一八六五)。悌次郎に縁談が起こった。相手は遠藤美枝といった。

秋月悌次郎は母、兄弟らと水盃を交わし、新妻の美枝と蝦夷の斜里に向かった。その道中、悌次郎はそれまで知らなかった美枝の才能に気付いた。

「馬には乗ってみよ、人には添うてみよ」という言葉がある。旅の間に互いの気質を理解して琴瑟相和した二人は初めて蝦夷地を踏んだ。

付近の村を巡回しはじめた悌次郎は柿沼新八の教えを守った。降雪をみるころ、斜里岳の麓に住むノシケオマというアイヌの若者と親しくなった。こうした交流は芽生えたが、京の政情は一切伝わってこない。

慶応二年(一八六六)。南摩羽峰が悌次郎を訪ねてきた。

そして、悌次郎を京都公用局復帰を申しつける文が届いた。一年四か月ぶりに思いがけず京に返り咲くことになった。

慶応三年三月下旬、悌次郎は三本木屋敷に復帰した。

薩摩藩は禁門の変が終わってから会津藩によそよそしくなっていた。どうやら薩摩と長州が手を結んだようである。

悌次郎はかつて訪ねてきた高崎左太郎に会おうとしたが、会うことはかなわなかった。

一方で、会津藩は物心両面でいよいよ危機に瀕していた。

将軍は徳川慶喜になっている。悌次郎が見るに、慶喜は駄目なことを駄目と言い通せない気性で、考えていることもくるくる変わる。
この時期、京の各藩邸では大政奉還が議論の的となっていた。

朝廷は一方で討幕、討会討桑の勅命を下し、一方で慶喜から大政奉還の上表を受け取っている。こうした動きは会津の公用局はつかんでいなかった。

そして慶喜が征夷大将軍の職を返上したことにより、松平容保ら会津藩は京において舫綱の切れた弧舟と化した。

さらに続いて、朝廷は王政復興の大号令を発した。

鳥羽伏見の戦いを経て、悌次郎は江戸へ下った。この時には会津の立場は最悪のものになろうとしていた。
外島機兵衛が過労で倒れてしまったため、悌次郎が越後諸藩を味方につけるための運動に奔走することになる。まずは、長岡藩を訪ねた。悌
次郎を迎えたのは河井継之助であった。

同様の使命を帯びたのが南摩羽峰である。

ようやく会津藩は軍制改革に踏み切っていた。結果新たに成立したのは、白虎隊、朱雀隊、青竜隊、玄武隊である。
もはや浴びせられた汚名は、実力によって雪ぐしかない段階を迎えていた。

籠城戦を経て、会津藩は新政府軍に恭順謝罪を申し出ることに決定した。交渉相手は土佐藩。使者として向かうのは手代木直右衛門と悌次郎である。

開城降伏は認められたが、九カ条の条件が付けられた。そして、開城降伏式という会津藩始まって以来の凶事の采配をふるうことになったのも悌次郎であった。

真竜寺の住職・智海が長州藩参謀の奥平謙輔からの書状をもってきた。そこにはこれからの会津の歩むべき方角を示していた。

悌次郎は奥平謙輔に会い、御家再興を嘆願することにした。智海は、会津松平家の将来を託すに足る少年を奥平に預け、世話を頼んだらどうかという。この嘆願の旅に智海が同行してくれることになった。

この時に読んだのが、「故ありて北越に潜行し、帰途得るところ」と題された詩である。「北越潜行の詩」といわれるものだ。

松平容保親子が東京へ護送され、その後、悌次郎も東京へと送られ、幽閉生活が始まる。

明治二年(一八六九)。広沢富次郎が悌次郎と同じ長屋に入れられた。だが、ほどなくして悌次郎は場所を移された。そこで一緒になったのは手代木直右衛門だった。

明治五年(一八七二)一月六日。悌次郎は永預けを免じられた。

名を秋月胤永(かずひさ)と変え、四十九歳にして若松に戻る。

その後、左院の少議生を出だしに、文部省、東京大学予備門の教諭、熊本の第五高等中学校教諭を歴任する。

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本書について

中村彰彦
落花は枝に還らずとも 会津藩士・秋月悌次郎
中公文庫

目次

第一章 奇人たち
第二章 日本一の学生
第三章 京都まで
第四章 三本木屋敷
第五章 若き京都守護職
第六章 言路洞開
第七章 八月十八日の政変
第八章 流離
第九章 斜里の羆
第十章 瓦解の時
第十一章 汚名
第十二章 使命ふたたび
第十三章 越後の雨
第十四章 開城の使者
第十五章 北越潜行の詩
第十六章 神のような人
あとがき

登場人物

秋月悌次郎(韋軒)
美枝
南摩三郎(羽峰)
外島機兵衛…留守居役
横山主税…江戸家老
松平容保…会津藩主
山本覚馬
高津淄川
田中土佐…国家老
西郷頼母…国家老
広沢富次郎
大庭恭平
手代木直右衛門…留守居役
加藤有隣(桜老)
武田耕雲斎
原市之進
大山正阿弥
高崎左太郎
河井継之助
山本帯刀
奥平謙輔
松平慶永
中根靱負(雪江)
小笠原長行
三条実美
柿沼新八
ノシケオマ
智海…真竜寺の住職
小出鉄之助

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