【式内社】稲荷信仰と全国のお稲荷さんの総本宮である伏見稲荷大社の参拝録

寺社
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伏見稲荷大社

伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)。旧称は稲荷神社。稲荷信仰の中心にある神社で、全国に約3万社あるといわれる稲荷神社の総本社。

最寄りの駅からすぐに参道になるので、電車の方が便利だと思う。だが、今回は車で来た。楼門の近くに駐車場があるので便利。朝早い時間でないと厳しいかもしれない。

9時、10時には観光客が動き始めるので、着いた時にはすでに賑わいを見せていた。噂で聞いていたが、外国人観光客が多い。伏見稲荷大社がもともと渡来系の一族が作った神社であることを考えると、なんだか不思議な感じだった。

伏見稲荷大社は渡来系の秦(はた)一族と関係の強い神社だった。秦一族は古代において大きな勢力を誇った一族である。

京都市内でもほかの個所にその足跡をたどることが可能である。一族の分家筋にあたる秦家が太秦(うずまさ)を拠点にしている。「うずまさ」の地名の由来には諸説あるようだが、当て字に「秦」の字が入り、秦一族ゆかりの地であることが現代にまで伝わっている。

秦一族は嵐山周辺まで大きく関与したようだ。松尾大社もこの秦一族によるものである。松尾大社の創建には秦一族の他、賀茂神社の賀茂氏も関与している。この時期には両一族は姻戚関係を結んでいる。

近年は「千本鳥居」などで、外国人に人気がある。古くから稲荷山は神が降臨する場所として考えられ、鳥居は聖地への関門として建てられたそうだ。今は1万基になるという。稲荷の鳥居は下を「通る」ことと「願いが通る」というのをかけている。

⇒ 日本三大稲荷

伊奈利社創祀前史
欽明天皇が即位(539または531)される前のことについて、『日本書紀』では次のように書かれています。
欽明天皇がまだご幼少の頃のある日のこと「秦(はた)の大津父(おおつち)という者を登用すれば、大人になられた時にかならずや、天下をうまく治めることができるでしょう」という夢をみました。天皇は目覚めてから早速方々へ使者を遣わされて探し求められたところ、山背国紀伊郡深草里に秦の大津父がいたのです。
天皇はこれを大いに喜ばれて早速彼を宮廷に呼び寄せられ、「今までに何事かなかったか」と問われたところ、彼は「別段何もありませんでしたが、伊勢のほうへ商いに行っての帰り道、山(稲荷山南麓の大亀谷)にさしかかったところ、二匹の“おおかみ”が血を出しながら争うのを見つけましたので、馬より降り、口をすすぎ、手を洗って『汝は貴い神であるため荒い事などを好まれるが、もし狩人が来たならばたやすくとらわれてしまうから争うのはおやめなさい』と血をぬぐって山へはなしてやったので、その“おおかみ”は二匹とも命を全うできました」と答えました。そこで天皇は、「夢で見たとおりの人に会えたのは、おそらく神のおかげであろう」と仰せられて、彼を厚く遇せられ、やがてにぎわいを呈するようになり、即位されると共に、彼を今でいう大蔵省の重席に任じたとあります。
稲荷大神のご鎮座は秦(はたの)伊呂巨(具)(いろこ(ぐ))によって和銅四年(711)2月初午の日に、なったと伝えられており、秦大津父とこの伊呂巨(具)との200年たらずの脈絡についてはほとんど不明です。しかし不明であるから全く関連はないとは言えないでしょう。深草の里が早くから開拓されて、人の住むところであったことは深草弥生遺跡に見ることができます。
ここへ秦氏族が住みつき、在地の小豪族として勢力を伸ばして、ついに秦大津父の輩出となったのですが、皇極天皇2年(643)11月のこと、当時の宮廷において権勢をほしいままにしていた蘇我入鹿が、政敵である聖徳太子の御子・山背大兄王を亡きものにせんと斑鳩に攻めた時、王の従臣たちは、深草屯倉に逃れられるようすすめたとあります。この「屯倉(みやけ)」とは、朝廷および皇族の直轄領のことで、その運営については、在地の豪族、深草屯倉の場合は秦氏族の勢力に期待するところが大きかったのであろうと考えられています。この頃の族長は誰であったかわかりませんが、大津父から伊呂巨(具)に至るちょうど中間に相当する時期に、深草の里に秦氏族の存在が予測できるのはたいへん興味深いことです。
平安時代初期に編集された数少ない書物の中に、『新撰姓氏録』という記録があります。これは弘仁5年(814)6月に奉られたもので、その当時近畿に住んでいた氏族の姓および出自等が伝承されていた1,182氏を、皇別、神別、諸蕃に分けて31巻に編んでいます。
諸蕃(渡来および帰化系氏族)のうち約3分の1の多数を占める「秦氏」の項によれば、中国・秦の始皇帝13世孫、孝武王の子孫にあたる功徳王が仲哀天皇の御代に、また融通王が応神天皇の御代に、127県の秦氏を引率して帰化しました。その際に金銀玉帛等を献じ、仁徳天皇の御代にこの127県の秦氏を諸郡に分置して蚕を飼育させ、絹を織らせて献上させました。天皇は、これらの絹織物は肌膚(ハダ)に温かであると詔せられ、その時に「波多公」の姓を賜ったとされています。降って雄略天皇の御代に、秦公酒という者が、天皇の御前に絹帛をうず高く積んで献上したので、「禹都万佐(うずまさ)」という号を賜ったとあります。
以上の来歴は、実際にはあまりあてにならず、近年では、秦氏は朝鮮半島の新羅地方出身であろうと考えられています。ともかく、雄略天皇の御代には、当時の国の内外の事情から、多数の渡来人があったことは事実で、とりわけ秦氏族は、先に見たように絹織物の技に秀でていた一方、大津父が大蔵省に任官されたように計数に明るかったようです。このようにして渡来あるいは帰化氏族は、秦氏に限らず、当時の先進地域であった大陸および朝鮮半島の文物をわが国にもたらし、これが後の律令国家建設のために大いに役立ったと思われます。例えば、記録、出納、徴税、外交事務それから文字使用を業とするのは、もっぱらこれらの氏族であったと考えられています。朝廷の渡来あるいは帰化氏族に対する処遇がよかったことがうかがわれるのも、以上の技能を高く買われてのことであろうとされています。彼らはたいてい畿内の小豪族としての生活を認められ、それぞれの特技を生かした専門職の地位を与えられていたようです。
大津父の時代を下った山城国における秦氏族の本拠地は右京の太秦であるとされています。たしかなことは不明ですが、深草の秦氏族は系譜の上で見る限り、太秦の秦氏族、すなわち松尾大社を祀った秦都理《はたのとり》の弟が、稲荷社を祀った秦伊呂巨(具)となっており、いわば分家と考えられていたようです。この太秦の秦氏族は、7世紀頃、今の桂川の大堰を築堤したり、奈良期から平安期にかけて、当時外戚として勢力を伸ばしてきていた藤原氏と姻戚関係を結び、長岡遷都やこれに引き続いて行われた平安遷都の際にも、河川の改修や都城の造営等で大いに影響を与えたとされています。また一方において、山背国における古くからの由緒正しい豪族である賀茂県主族とも早くから姻戚関係を結んでおり、ついには賀茂県主の子孫を自称するようになるのです。言うまでもなく賀茂県主族は天下の名社・賀茂社を奉祀していた名族で、新参の渡来氏族が彼と結びつくことによってその名をとり、一方賀茂氏族の側にあっては、そうなることによっておそらくは当時としては近代的な文化及び経済などの実をとったのであろうと考えられています。
こうして太秦の秦氏族は、記録の上では大宝元年(701)桂川畔にそびえる松尾山に松尾神を奉鎮、深草の秦氏族は、和銅4年(711)稲荷山三ケ峰の平らな処に稲荷神を奉鎮し、山城盆地を中心にして、御神威赫々たる大神があたかも鼎立する結果となったのです。

http://inari.jp/about/num11/

こうして稲荷山の麓にできた伏見稲荷大社だが、稲荷山全体を神域とする。

式内社名神大社)。二十二社(上七社)。官幣大社。現在は神社本庁に属さない単立神社。

祭神は五柱。稲荷大神の広大な神徳の神名化とされている。主祭神である宇迦之御魂大神を中央の下社、佐田彦大神を中社、大宮能売大神を上社に据えている。明応8年(1499年)に本殿に合祀された左右の摂社、田中大神・四大神とともに、五柱の神を一つの社殿に合祀(一宇相殿)している。

  1. 宇迦之御魂大神 (うかのみたまのおおかみ) – 下社(中央座)
  2. 佐田彦大神 (さたひこのおおかみ)- 中社(北座)
  3. 大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ) – 上社(南座)
  4. 田中大神(たなかのおおかみ) – 下社摂社(最北座)
  5. 四大神 (しのおおかみ) – 中社摂社(最南座)

伊奈利社ご鎮座説話
稲荷大神のご鎮座に関する最も古い記録とされているのは、『山城国風土記逸文伊奈利社条』です。これにはまだ和銅4年(711)云々というご鎮座年代は出てきていません。しかし「秦中家忌寸《はたのなかつえ いみき》等遠祖伊呂巨(具)秦公」の時代に、彼が「積二稲梁一有二冨祐一」であったところから「用レ餅為レ的」したところ、それが「白鳥」と化して山の峰に飛んでゆき、「生レ子」んだ或いは稲が生じたので、その奇瑞によって「遂為レ社」した、そして「其苗裔悔二先過一而抜二社之木一殖レ家祷レ命也」とあり、「為レ社」した者が「伊呂巨(具)秦公」であったことが明記されています。この伊呂巨(具)について、「稲荷社神主家大西(秦)氏系図」によると、「秦公、賀茂建角身命二十四世賀茂県主、久治良ノ末子和銅4年2月壬午、稲荷明神鎮座ノ時禰宜トナル、天平神護元年8月8日卒」と記され、先にも述べた通り賀茂県主の子孫と称されています。
ここに和銅4年という年代が出てくるのですが、この年にご鎮座になった由縁として、この頃全国的に季候不順で五穀の稔りの悪い年が続いたので、勅使を名山大川に遣わされて祈請させられたときに神のご教示があり、山背国の稲荷山に大神を祀られたところ、五穀大いに稔り国は富み栄えた、この祭祀された日こそが和銅4年の2月初午であった、との伝承があります。これは全くそのとおりだと言えない面もありますが、唐突にこの日が伝承されたのではなく、やはり同氏族の間に何らかの明記すべき由縁があったものと推測されるのですが、それがどのような事象であったのか今のところはわかっていません。しかし強いて言えば、一族の族長、すなわち祭政を一人で行うあり方の中から、大神の祭祀を専門にする職掌(先に見た系図で「稲荷明神御鎮座ノ時禰宜トナル」と記されているのがこれに当たる)が確立した時期であると考えてもよいのではないでしょうか。

http://inari.jp/about/num10/
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伏見稲荷大社の概要

概要
項目内容
創建和銅年間(708年-715年)
主祭神

稲荷大神
宇迦之御魂大神
・佐田彦大神
・大宮能売大神
・田中大神
・四大神
5柱の総称

神体 稲荷山(神体山)

社格等古代社格制度

式内社名神大

中世社格制度二十二社(上七社)
近代社格制度官幣大社
現代の制度
その他例祭:5月3日
備考

本殿の様式 流造
札所等 神仏霊場巡拝の道123番(京都43番)

稲荷神は元来、五穀豊穣を司る神であった。時代とともに、商売繁昌・産業興隆・家内安全・交通安全・芸能上達としても信仰されるようになった。

摂社の田中大神と四大神の由緒がはっきりしない。田中大神は、田の神ではないかと考えらている。かつては大己貴神や猿田彦神、鴨建角身命などと同一視された。中社の摂社に祀られる四大神についても諸説あり、一柱の神名なのか、四柱の神の総称なのかも明確でない。江戸時代の国学者、前田夏蔭によれば「若年神、夏高津日神、秋比売神、久久年神」の四柱とされる。これらの神々は宇迦之御魂神と同一視されることもある穀物神・オオゲツヒメの御子神であり、四季を表す神とも考えられる。

稲荷社のあけぼの
先の系図によれば、「風土記」に出てくる“秦中家忌寸”は、伊呂巨(具)から数えて九代目に相当し、「賜姓秦忌寸、禰宜、嘉祥3年3月従六位上」と記録されています。この中家に至るまで、稲荷社祠官は代々禰宜1名でありましたが、彼の代にその弟“森主”が「祝、嘉祥3年3月従六位下」と記録され、この頃から禰宜・祝の2員制に移行したことがわかります。いわば中家が奉仕していた時期は、中家の譜に忌寸賜姓のことが記されており、和銅4年が記憶されるべき年であったと同様に、稲荷社にとっては重要な時期であったろうことが予測されます。またそれは、稲荷大神に初めて神階奉授がなされたことからかもしれません。この神階奉授のいきさつについては淳和天皇の御代・天長4年(827)正月の詔に、「頃間御体不愈」によって「占求留爾稲荷神社乃樹伐礼留罪祟爾出太利止申須然毛此樹波先朝乃御願寺乃塔木爾用牟我為爾止之弖東寺乃所伐奈利今成祟」(天皇の健康がすぐれないために占いを求められたところ、先朝の御願寺=東寺の塔をつくる材木として稲荷社の樹を伐った祟りであることがわかった)、ということで、「畏天」内舎人の大中臣雄良を遣わして「従五位下乃冠授奉理治奉(従五位下の神階が授けられた)」とあって、まさに大神の御神威が大きく顕れ、以降の勇躍を約束されるような一大展開期であったことがうかがえるのです。
延暦13年(794)に長岡京から山背へ都が遷されたとは言うものの、初めのうちはその市街地の区画整備がされている程度でした。宮廷が完全に整ってから新京もだんだんと賑わいだしましたが、都の正面玄関に相当する羅城門の東西に建立された「東寺」「西寺」の造営さえも長くかかっていました。東寺の造営が空海(弘法大師)の手に委ねられたのは、大師が大同元年(806)に留学先の唐から帰朝してまもなくの弘仁14年(823)のことですが、この頃から伽藍構築もだんだん軌道に乗り、その工事の途中に、先に述べた稲荷大神のご神威が顕れたのでした。
都が遷ってくるだけでも重大事であった上に、大神のお力が天下に知れわたり、それを畏って神階奉授がなされる。これはまさに一社の重大事として記憶されて当然のことです。“忌寸”の姓を賜った中家の奉仕時期は、ちょうどこの頃でした。伊呂巨(具)が「秦中家忌寸等遠祖」と称されたのと同様、中家も100年ほど後に「秦氏祖中家云々」と良く似た表現で記録されています。天暦3年(949)頃の『年中行事秘抄』という文献には次のように書かれています。
― 稲荷神 ―
 件神社立始由慥無所見
 但彼社禰宜祝等申状云此神和銅年中始顕坐
 伊奈利山三箇岑平処是秦氏祖中家等抜木殖
 蘇也
 即彼秦氏人等為禰宜祝供仕春秋祭等
 依其霊験有被奉臨時御幣相次
 延喜八年故贈太政大臣藤原朝臣
 修造始件三個社者
この文には、中家が秦氏祖と書かれていること以外にもう一つ重要な部分があります。それは延喜8年(908)、都が平安京に遷ってから約100年ほど後に、歌舞伎などでは悪役に仕立てられ、菅原道真公の政敵とみなされている藤原時平公によって、初めて三個社の御社殿が造営されたと書かれています。

http://inari.jp/about/num09/
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境内案内

表参道の一番鳥居から楼門、外拝殿(舞殿)、内拝殿、本殿が一直線に並ぶ。本殿の背後に、斎場と千本鳥居から続く稲荷山の神蹟群がある。近年は海外でも人気の千本鳥居だが、鳥居は山中に約一万基あると言われる。

本殿右には稲荷神明水がある。

一番鳥居

二番鳥居

手水舎

楼門(重要文化財)

外拝殿(重要文化財)

軒下四周に12基の鉄製灯篭が吊るされている。黄道12宮(おとめ座、ふたご座など)の透かし彫りがある。「曼荼羅に見られるもので、密教の影響を示すもの。

内拝殿・本殿(重要文化財)

応仁の乱で焼失した後、明応8年(1499年)に再建。

神楽殿

本殿の右脇

御茶屋(重要文化財):本殿の右脇奥。非公開のため、見られず。17世紀初建造

授与所

本殿の左脇。朱印所。おみくじ授与。

社務所

権殿(重要文化財)

本殿の左後ろ

稲荷山への鳥居

神馬

案内板

千本鳥居へ

千本鳥居

千本鳥居:奥社への参道に密に並ぶ鳥居を言う。二股に分かれている。

奥社「奥の院」

奉拝所。おもかる石、願掛け絵狐(絵馬のかわりに狐)。

奥への案内図

根上がりの松

圧巻の鳥居…

帰り道

熊鷹社まで行って、帰ってきた。

摂社・末社

長者社 – 加茂玉依姫(上末社(重要文化財))

荷田社御神蹟 – 伊勢大神(上末社(重要文化財))

五社相殿(上末社(重要文化財))

  • 八幡宮社:応神天皇
  • 日吉社:大山咋神
  • 若王子社:若王子大神
  • 猛尾社:須佐之男命
  • 蛭子社:事代主神

両宮社(上末社(重要文化財))

供物所

玉山稲荷社 – 玉山稲荷大神

白狐社 – 稲荷大神の眷属を祀る(重要文化財)

右手が奥宮(重要文化財)、左手が白狐社

熊鷹社(熊鷹大神)とその周辺の景色

熊鷹社そのものが独特。お堂の中では太いろうそくに灯がともされている。そして、周辺には多くの祠が散乱しており、魔界の様相を呈している。

伏見稲荷大社は2015年の映画「駆込み女と駆出し男」で撮影に使われた。奥の院への参道が使われたということだが、このあたりかなぁ…。

東丸神社(あずままろじんじゃ)

文化財

重要文化財(国指定)

伏見稲荷大社(8棟)
本殿 – 五間社流造、檜皮葺き、明応3年(1494年)建立
権殿 – 五間社流造、寛永12年(1635年)建立
外拝殿(げはいでん)
楼門 – 天正17年(1589年)再建
南廻廊
北廻廊
奥宮
白狐社
(附指定)長者社、荷田社、五社相殿、両宮社、熊野社、藤尾社
(附指定)城州稲荷社御修復御入用金高目録帳 9冊
御茶屋 – 後水尾上皇より下賜され、仙洞御所から移築

稲荷信仰

もともとは穀物や食物など五穀豊穣を司る神として敬われたが、さらに産業興隆・商売繁昌などのご利益得られる神として信仰され、邸宅の屋敷神となった。家内安全・交通安全・芸能上達の守護神としても信仰されている。霊験が幅広いのが特徴。

「稲荷」は「稲成り」「稲生り」がもともとであるが、神様が稲を荷っている姿がイメージされて「稲荷」の字があてられたと考えられている。

各地の稲荷神社では宇迦之御魂大神や、保食神(うけもち)、御食津神(みけつ)などを主祭神としている。「うか」「うけ」「け」は食物を意味する言葉。

狐と眷属

狐とお稲荷さんの関係には諸説ある。お稲荷さんが農業神であり、春になると山から「田の神」が降りてきて、秋の収穫が終わると山に帰って「山の神」となる。春先になると人里近くに現れる狐を見て、神の使い、ひいてはお稲荷さんのお使いとして神聖化されたとみられる。

狐の姿にも意味がある。稲束をくわえているのは、豊穣を意味する。巻物をくわえているのは、仏教経典を意味する。(平安時代に仏教の荼枳尼天(だきにてん)と習合した。)鍵をくわえているのは、蔵の鍵なので、富貴、豊穣、諸願成就を意味する。宝珠をくわえているのは、諸願成就を意味する。

狐と眷属
おいなりさんというと、だれもが反射的に思い浮かべるのは狐でしょう。我が国の神社では、たとえば伊勢神宮の鶏、春日大社の鹿、日吉大社の猿、八幡宮の鳩というふうに、それぞれ固有の動物が神の使いとして尊ばれています。しかし、お稲荷さんの狐は、単なる神使ではなく、眷属といって神様の一族のような資格を与えられており、そのため狐は稲荷神そのものだという誤解も一部の人にもたれています。
お稲荷さんと狐がこのような親密な関係をもつに至った由来については、いくつかの説があります。そのなかで一番よく耳にするのが、稲荷の神が「食物の神」つまり御饌神(みけつかみ)なので、その「みけつ」がいつか御狐(おけつね)・三狐(みけつね)に転じたことによるという説でしょう。あるいは、稲荷神がのちに密教の荼枳尼天と本迹関係を結んだことを重視し、荼枳尼天のまたがる狐がそのまま稲荷神の眷属とされたのだという説も一般に流布しています。
それはそれとして、空海の弟子真雅僧正の著といわれている「稲荷流記」に面白い伝説が記されています。
時は平安初期の弘仁年間(810~24)のこと、平安京の北郊、船岡山の麓に、年老いた狐の夫婦が棲んでいました。全身に銀の針を並べ立てたような白狐だったのです。この狐夫婦は、心根が善良で、常々世のため人のために尽くしたいと願っていました。とはいえ、畜生の身であっては、所詮その願いを果たすことはできない。そこで、狐夫婦はある日意を決し、五匹の子狐をともなって、稲荷山に参拝し、「今日より当社の御眷属となりて神威をかり、この願いを果たさん」と、社前に祈りました。すると、たちまち神壇が鳴動し、稲荷神のおごそかな託宣がくだりました。
「そなたたちの願いを聞き許す。されば、今より長く当社の仕者となりて、参詣の人、信仰の輩を扶け憐むべし」こうして、狐夫婦は稲荷山に移り棲み稲荷神の慈悲と付託にこたえるべく日夜精進につとめることになりました。男狐はオススキ・女狐はアコマチという名を明神から授けられたとのことです。

http://inari.jp/about/num04/

全国に散らばる稲荷信仰の神社

九州:祐徳稲荷 藩主鍋島直朝夫人の萬子媛が勧進したことに始まる

愛知:豊川稲荷 妙厳寺の祭神は吒枳尼天(がきにてん)。習合の結果、稲荷神と同一とされた

東京:穴守稲荷 羽田空港の拡張により現在の地に移った

東京:波除稲荷 海から稲荷大神のご神体が現れたとされる。

青森:大間稲荷 かつて百滝稲荷大明神と称した

「九尾の狐」が化けたとされる美女「玉藻前(たまものまえ)」が祀られているところもある。九尾の狐と玉藻前にゆかりのある場所は、殺生石と玉藻稲荷神社などがある。

殺生石の訪問録(栃木県那須町)九尾の狐が閉じ込められているという伝説の地
鳥羽上皇が寵愛した伝説の女性、玉藻前(白面金毛九尾の狐の化身)が正体をあらわし、数万の軍勢によって殺害され、石となったという逸話がある。
玉藻稲荷神社の参拝録(栃木県大田原市)九尾の狐の伝説
玉藻稲荷神社の紹介と写真の掲載。那須には九尾の狐にまつわる伝説がある。もっとも有名なのは、那須岳の殺生石。この神社はひっそりと、それと知られていない、隠れた「九尾の狐」伝説にまつわる神社。
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