小松和彦「鬼と日本人」の読書備忘録(要約と紹介と感想と)

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鬼とは何か

一般的に、「オニ」は「穏(おん)」つまりは隠れていて見えない神霊であり、死霊を意味する中国の漢字「鬼」と結びついて重ね合わさった概念である、と説かれる。これは「鬼」の語源であり、「鬼」の多様化した概念を適切に表現したものではない。

人間は見知らぬ者、異形の者、異文化に属する者を恐怖する。己の権力にまつろわぬ者を恐怖し、葬り去った者の怨念を恐怖する。こうして恐怖の対象となったものが「鬼」と名付けられたのである。

今日、鬼であるかどうかの判断は、頭の角が生えているかどうかが、最も重要な指標となっている。角の有無で、鬼であるかの判断が下される。

鬼は長い歴史を持っている。「日本書紀」や「風土記」に登場し、中世、近世と生き続けた。長い歴史をくぐりぬける中で、言葉の意味や姿かたちも変化し、多様化した。

鬼の歴史を眺めると、中世までの「化けもの」(妖怪)の多くが、鬼と深い関係を保っていた。古代から中世にかけての妖怪種目は多くはない。鬼以外では、大蛇(龍)、天狗、狐、狸、土蜘蛛、つくも神(古道具の妖怪)などである。いずれもが鬼の性格も持っている。

鬼が跳梁した平安時代末期の説話集「今昔物語集」によると、「鬼」は、さまざまな恐ろしい姿かたちをした者であった。「宇治拾遺物語」によると、群れを成して夜に出没する様々な鬼は「百鬼夜行」とも呼ばれていた。

鎌倉時代の鬼は、角がない鬼もいれば、牛や馬のかたちをした鬼もおり、見ただけでは鬼と判断できない異形の鬼もいた。それが画一化され、江戸時代になると、角を持ち虎の皮のふんどしをつけた姿が、鬼の典型となった。一方で、怪力、無慈悲、残虐という属性はほとんど変化していない。

「鬼」は「人間」の反対概念である。日本人が抱く人間概念の否定形、つまりは反社会的で反道徳的な人間として造形されたものである。

そして、中世の人々は、鬼の中に二重の性格を見出していた。人間に危害を加える好ましくない側面と、人間の側に立って邪悪な者たちを追い払うという好ましい側面である。

安倍晴明に従う「式神」も陰陽師の呪力で使役される鬼神の一種で、姿かたちは百鬼夜行の類であった。御幣をもち、疫病神(疫鬼)を追い払うこともしている。

やがて、角を持たない鬼は、鬼の仲間から次第に排除され「化け物」と称されるようになっていた。中世の鬼という語は「化け物」(妖怪)の総称であり、姿かたち、由緒・出自も多様であった。

  • 「土蜘蛛草紙絵巻」では源頼光に退治される土蜘蛛は「鬼」の姿になって出現する。
  • 「付喪神絵巻」では古道具たちが「鬼」になって悪事を働く。
  • 「玉藻前草紙絵巻」では、退治された妖狐の魂魄は「鬼」となって、玄翁和尚に引導を渡されて鎮まった。

同じく「鬼」を研究した本として下記の本が参考になる

時代とともに意味の変わってきた「鬼」であるが、令和における「鬼」のイメージは「鬼滅の刃」の鬼舞辻無惨に代表されることになりそうだ。

貴船神社

興味深いのは、鬼が恐ろしい者、否定的なものを表す言葉でありながら、その子孫を称する人々が散見されることである。大峰山の麓の洞川は、役行者に従っていた前鬼、後鬼のうち、後鬼の子孫の集落だという。比叡山の麓の八瀬も、八瀬童子という鬼の子孫の集落だという。

京都の貴船神社の社人として奉仕してきた鬼の子孫を巡る伝承が興味深い。「黄船社人舌氏秘書」は「舌(ぜつ)」家に秘蔵されていた。舌氏の始祖は、貴船大明神に従って天上から来臨した仏国童子である。

童子は明神から天上のことを話してはいけないと厳命されていたにもかかわらず、話してしまい、怒った明神によって舌を八つに割かれてしまったという。童子は吉野に逃げ込み、「五鬼」(役行者の後鬼か?)を従えて暮らしていたが、貴船に戻って洞にこもっていた。明神はこれを知り、3年後に再び召し抱えた。仏国童子は130歳で天に上った。

子の僧国童子は丹生明神に仕え、その後に貴船明神につかえる。そして、4代目までは姿が恐ろしい鬼に似ていたが、5代目から「日の本」の者と同じになった。

対応する話が中世に作られた「貴船の本地」にある。鞍馬に参詣に来た鬼国の姫が人間の貴族の妻になり、死後になって貴船の神となった。

「京都風俗志」では、貴船の奥に住む鬼は、地下の通路を使って深泥池(みぞろがいけ)の穴から出てきて洛中に出没するので、節分で撒いた豆をこの穴に捨てる習俗があった。京都では、いつのころからか、貴船の奥の谷に鬼の住処があると想像していたのである。

三妖怪

酒呑童子

中世の中ごろの南北朝時代前後から、鬼の集団を武将たちが退治する絵物語が生み出されるようになる。「大江山絵巻」や「土蜘蛛草紙絵巻」などである。そして鬼の代名詞となるのが大江山の酒呑童子であり、鈴鹿山の大嶽丸だった。

鬼の歴史に照らすと、古代から成長してきた鬼伝承・鬼信仰の頂点を物語っている。この時代あたりから、鬼のイメージが角を持った筋骨たくましい異形の者へ固定化し始めるからである。

最も有名なのが大江山の「酒呑童子」である。酒呑童子は南北時代の絵巻「大江山絵詞」に初めて登場する。室町時代にもてはやされたのは、足利将軍家が源氏の流れを汲んでおり、「起源神話」「王権神話」の性格を持っていたからだろう。

酒呑童子という鬼の大将が多くの鬼を従えて大江山に住み、都に現れては、貴族の子女や財宝を奪っていった。勅命を受けた源頼光と渡辺綱らが出かけて退治する。

「大江山酒呑童子(古絵巻)」によると。

正暦年間(990~995)、行方不明事件が多発する。安倍晴明が占ったところ、帝都の西北に大江山があり、そこに棲む鬼王の所業ということが分かった。

源頼光と藤原保昌が鬼王追捕を命じられた。源頼光は渡辺綱、坂田公時、碓井貞光、卜部季武の4人を従え、藤原保昌は太宰少監を従えた。

長徳元年(995)11月1日に出陣する。

ある山の洞に、老翁、老山伏、老僧、若僧の4人がいた。老翁は住吉明神、老山伏は熊野権現、老僧は八幡菩薩、若僧は日吉山王権現の化身だった。頼光たちを援助するために現れたのだった。

やがて、川辺で血の付いた衣を洗濯する老女にであう。洗濯女として200年余り生きている。頼光たちが超えた岩穴よりこちらは「鬼隠しの里」と呼ぶという。

老女が言うには、安倍晴明のおかげて帝都に入り込めないため、鬼は悔しがっているという

一行が進むと別天地が現れた。そこで3メートルあろうかという童子が現れた。身の上話を聞くと、平野(比良野)山を私領としていたが、最澄がやってきて追い払われた。抵抗したが結界で封じられた太刀打ちできなかった。移った近江のかが山も桓武天皇の勅使に追い出された。そして、さまよいつつ、怨念にまかせて大風、干ばつを起こし、心を慰めてきた。大江山に住むようになったのは、仁明天皇の嘉祥2年(849)からである。

日暮れになると、酒呑童子の家来の鬼たちが頼光たちのところにやってくるが、追い返した。

頼光と保昌は老翁から与えられた蓑帽子(隠れ蓑)で姿を消し、昼は童子の姿だった酒呑童子(長五丈、五体は五色のまだら、目は十五、角五本)の首を切り落とした。

頼光と保昌は鬼王の首を携え、凱旋する。そして宣旨によって鬼王の首を宇治の宝蔵に納めた。(別の逸話もあり、桂川に祓い流したという話もある。)

茨木童子

茨木童子は生まれたばかりなのに、毛が黒々と伸び、歯も生えそろっていた。並外れた力を持っていたため、丹波の山に捨てられた。やがて鬼の姿になって羅生門に出没するようになった。

酒呑童子と似た説話を持つ大嶽丸も宇治の宝蔵に収められている。

玉藻前

久寿元年(1154)。鳥羽院の御所に一人の女房が現れる。知恵・学問があり、院の寵愛を受け「化性前」と名付けられた。

詩歌管弦の会の折、嵐が起き暗闇になったとき、化性前の体が光り、殿中を明るく照らした。これによって「玉藻前」と名を改めた。

院は玉藻前を恐ろしく思ったが、美しさに惑わされた。契りを結んで日を送るうちに、院は病を得て日増しに重くなる。安倍泰成が病の原因を占うと、玉藻前のせいだという。

下野国の那須野に800歳を経た、尾が二つで丈7尺の狐がいる。もとは天羅国の斑足太子をだまして千人の王を殺そうとした塚の神で、仏法を敵として、王法を破壊しようと日本にわたってきたという

泰成はいやがる玉藻前に、幣取りの役をさせて祈祷を開始した。祈祷半ば、玉藻前は突然姿を消した。院の病は次第に快方に向かう。

院は上総介、三浦介の2人の東国の武将に那須野の妖狐を退治せよと院宣を下す。両将は武芸に励み、神仏の守護を頼んで那須野に赴き、苦心の末に老狐を退治する。

退治された狐は宇治の宝蔵への収納、川に祓い流したという、二つの説話が残っている。遺骸の中から、仏舎利と白き珠(宝珠)、針が出てきたという。

那須野(栃木県)の妖狐の退治の話については別の伝説も残されている。退治された狐(=九尾の狐)が殺生石となったというものである。地元の玉藻稲荷神社には九尾の狐にまつわる別の伝説が残されている。

タマ

日本文化において異界をタマという概念を設定することで形象化し、タマを通じて異界を制御しうると考えてきた。

タマは「魂」でもあり「珠(玉)」とも深い結びつきを持っていた。「魂」を形象化したのが「珠」だった。

人間社会を脅かすものを古代では「アラタマ(荒魂)」とされ、アラタマが秩序の側に吸収されると「ニギダマ(和魂)」となった。

宇治の宝蔵

平等院を建てた関白藤原頼通(=宇治殿)は龍神となって宇治川に住んだ。

宇治の宝蔵は最上の重宝をことごとく収めた日本一の宝蔵である。

たとえ余所の重宝が散失することがあっても、宇治の宝蔵だけは紛失したことがない。それは宇治殿が守っているからである。

中世中ごろから流布した妖怪退治譚のなかで、宇治の宝蔵に納められたとされる妖怪は、酒呑童子の首、大嶽丸の首、那須野の妖狐の遺骸の3妖怪であった。

宝蔵では毎年3月3日に一切経会が行われ、その日に開扉されるほかは、上皇や天皇の御幸、藤原氏の氏長者が就任後初めて平等院を訪れる「宇治入り」の儀式の日以外は、余人の立ち入りが許されなかったという。

それは、蔵の中に摂関家が収集した貴重な宝物がたくさん収納されていたからである。

牛若丸の虎の巻を巡る考察

一条堀川の鬼一法眼と、安倍晴明に支配されていた下級の陰陽師を巡る変遷なども興味深い。そして、鬼一法眼譚では五条天神社が重視されているという。

鬼一法眼の妹婿の湛海は北白川の印地の大将とされるが、白川の印地は祇園社(現在の八坂神社)につながりを持っていた。この時期は、祇園社は感神院が別当として支配されており、比叡山延暦寺の支配下にあった。

鬼一法眼・牛若丸譚の背後には、鞍馬、貴船、一条戻橋、五条天神、北白川、八瀬、大江山に至るまでの鬼の伝承ネットワークが存在していた。

本書について

鬼と日本人
小松和彦

目次

鬼とはなにか
鬼の時代――衰退から復権へ
「百鬼夜行」の図像化をめぐって
「虎の巻」のアルケオロジー――鬼の兵法書を求めて
打出の小槌と異界――お金と欲のフォークロア
茨木童子と渡辺綱
酒呑童子の首――日本中世王権説話にみる「外部」の象徴化
鬼を打つ――節分の鬼をめぐって
雨風吹きしほり、雷鳴りはためき……――妖怪出現の音
鬼の太鼓――雷神・龍神・翁のイメージから探る
蓑着て笠着て来る者は……――もう一つの「まれびと」論に向けて
鬼と人間の間に生まれた子どもたち――「片側人間」としての「鬼の子」
神から授かった子どもたち――「片側人間」としての「宝子・福子」

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