テーマ:平安時代末期から鎌倉時代初期(幕府成立前夜)

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平氏の台頭と鳥羽院政

大治4(1129)年、白河院が亡くなります。継承した鳥羽院は、秩序を求めた祖父とは異なり、諸勢力の統合に力を注ぎます。

すぐさま蔵に封させ宝物の分散を防ぎ、勝光明院付属した宝蔵を設けました。宝蔵は宇治の平等院宝蔵や延暦寺の前唐院蔵にならったもので、王権を飾ることに腐心しました。

諸国の荘園も院周辺に集中します。一度も荘園整理令を出さず、寄進を受け入れ、荘園には国役の免除や国使不入などの権利を与えました。

集められた荘園は六勝寺や待賢門院、美福門院、皇女の八条院などに所領とされ、荘園の目録は国王のコレクションに性格を有しました。

院は宝物や荘園の他に武士も集めました。白河院は武士の出世を抑えましたが、その中で出世したのが平氏でした。平氏は京での根拠地を六波羅に置きます。

平清盛が左兵衛佐に任じられた大治4(1129)年、平忠盛は西国に勢力を伸ばし、長承元(1132)年に殿上人になります。

この昇殿は平氏による武家政権への第一歩となります。

長承3(1134)年、天下飢饉が起きます。この飢饉はその後続く中世の飢饉の端緒となりますが、同時に海賊や山賊が横行するようになります。

これ以後、飢饉や彗星、代替わりとともに徳政が求められるようになります。

飢饉への有効な対策は特に取られませんでしたが、海賊に対しては追捕がなされました。

平氏は西国の海賊追討使に任じられ、西国の豊かな国の受領となって勢力を伸ばしました。

源氏は為義が畿内周辺に自ら出かけて勢力を広げます。

また源氏は様々な手段を講じて地方に勢力を伸ばしていきました。為義の嫡子・義朝は東国で育ち、為朝は鎮西で育ち、それぞれの地域で力を伸ばしました。

子を地上に派遣して在地の武士と主従関係を築く戦略を取ったのです。

このように源氏と平氏は院に仕えた地位を利用しつつ、地方の武士との間に広く主従関係を築いていきました。

武士独自の慣習が生まれ、国司の統制から自由な活動を繰り広げたので、武士同士の争いが絶えませんでした。法然が父を失ったのはこの頃でした。

特権が与えられた荘園と家産に組み込まれた知行国との紛争も起きていました。

国衙の目代や在庁官人と豪族的武士との対立が合戦に至ることは広く諸国で起きていました。

荘園の免除特権を否定して国の支配を強めようとする受領や国衙と、朝廷や院から免除特権を獲得して荘園支配を強めようとする荘園側の動きが衝突しますが、摂関家の知行国も例外ではありませんでした。

保元・平治の乱

保元の乱

京では皇位継承をめぐり崇徳院と美福門院が競り合っていました。これに密接に絡んできたのが摂関家の内紛でした。

忠通と頼長の兄弟で争いが生まれ、日本第一ノ大学生と称された頼長が氏長者の地位を奪い取りました。

家の実権をめぐる争いは武士の家でも起きていました。

源氏では源為義と嫡子・義朝との間、平氏では忠盛と兄弟の忠正との間です。

これらの争いは崇徳・頼長派と美福門院・忠通派に分裂します。

久寿2(1155)年、近衛天皇が亡くなると、法皇は側近を召して新帝の協議をします。そして図らずも即位したのが後白河天皇でした。

中継ぎの立場は歴然としていたため、後をめぐって争いがおきはじめます。

久寿3(1156)年、鳥羽法皇の病気が重くなります。法皇は源義朝・義康らの武士に臣従を誓わせ禁中の警護を命じます。平清盛も美福門院のはからいで警護に入りました。

このようにして起きたのが保元・平治の乱です。源氏や平氏が中央政界に進出するきっかけとなりました。

保元元(1155)年に鳥羽法皇が亡くなると、すぐさま崇徳上皇が藤原頼長と軍を発して皇位を奪おうとしていると噂が立ちます。禁中の警護が強化され、検非違使らが警戒しました。

主導権を握ったのが信西でした。後白河天皇は中継ぎの天皇でしたので、立場を強固にする必要がありました。

摂関家の氏長者を象徴する邸宅が没収され藤原頼長の氏長者の権限が否定されると、上皇・頼長が対処せざるを得なくなります。

しかし武力は少なく、武力で情勢を覆そうとは考えていなかったと思われますが、崇徳上皇が白河御所に入ると挙兵したものとみなされました。

教科書的には、朝廷内の政治主導権や、寄進によって生まれた荘園の支配権をめぐって引き起こされた乱で、地方から多くの武士が動員された、と説明されます。

後白河天皇、藤原忠道が源為朝や平清盛らの力により、崇徳上皇、藤原頼長、源為義を破ります。

貴族社会の内部争いも武士の力を借りずには解決できないことを示しました。

関白藤原忠通の末子の慈円は「愚管抄」でこれ以後「武者の世」になったと記しました。

この認識は貴族共通のもので、時代は武士に世に着実に動いてゆきました。

平治の乱

保元の乱は後白河天皇方の勝利終わったことから、地位も安定し、信西が天皇を押し立てて政治改革を進めました。

死刑復活を復活させますが、実力によって敵対者を葬る考え方を公的に認めることになりました。

天皇家の直轄領の充実を図り、後白河天皇の経済基盤を広げました。

また、荘園整理令を軸とする保元の新制を出します。鳥羽院政では出されなかった荘園整理令が出されたのは、全国に広まった荘園をめぐって紛争が生じていたからです。

整理の眼目は、久寿2(1155)年7月24日以後に立てられた荘園を停廃止することと、年貢の免除されていた土地以外の加納や出作による荘園を停止することでした。

延久の整理令を基準としてきたこれまでの荘園整理令に比べ、大きな転換となりました。

乱から2年経つと抑えられていた諸勢力が頭をもたげてきます。

後白河天皇に中継ぎの天皇を認めてきた美福門院が退位を求めてきました。美福門院と信西の話し合いの結果、後白河上天皇は譲位し二条天皇が即位します。そして後白河院政が始まります。

天皇親政を求める勢力が台頭するとともに、院近臣の中にも家を興す動きが広がります。

上皇の寵を得ていた藤原信頼は目覚ましい出世を遂げ公卿の仲間入りをします。

一方で信西は人事権を掌握します。「平治物語」では信西が藤原信頼の大将の望みを断ったから恨みを買って平治の乱が起きたとしています。

政治の実権を握った信西に対する院近臣の反発と、二条天皇の親政を求める動きがあわさって政局が進みます。

藤原信頼は武力を源義朝に頼みました。義朝は保元の乱の活躍のわりに信西の評価が低く取り残されていました。

保元4/平治元(1159)年に改元され平治元年となりますが、平清盛が熊野詣でに赴いた隙をついて藤原信頼は源義朝と挙兵します。

この争いで平清盛は源為朝を倒して、諸国武士団の上にたつ武家の棟梁になり、平氏全盛の基礎を固めます。

武家権門の成立

平清盛の政権を史上初の武家政権に位置づけ「六波羅幕府」と呼ぶ学説もあります。

乱後の平氏の知行国は五カ国から七カ国に増え、平氏は多くの荘園や知行を得て富を蓄えました。平清盛は日宋貿易に力を入れ、瀬戸内海航路をととのえ、大輪田泊(神戸港)を修築して、宋船を畿内までひきいれ、貿易によってさらに富を大きくします。

平清盛は上皇・天皇の両勢力から頼みにされ、永暦元(1160)年に公卿になります。

上皇と天皇による二頭政治が行われて、武力の面で平清盛が支え、政治の面で摂関が支えました。

永暦元年に美福門院が亡くなると上皇側と天皇側の対立が深まります。

応保元(1161)年、二条天皇は院政を停止しました。失意の後白河上皇でしたが、平氏や院近臣の仲介等で後白河院領が急増し経済的基盤が拡大しました。

永万2(1165)年に二条天皇が亡くなります。後白河院政が完全に復活し、「治天の君」になりました。

仁安2(1167)年、平清盛は太政大臣になります。平清盛は短期のうちに太政大臣を辞し、政界から形式的に身を引き、平重盛に家督を譲ります。

平清盛の娘・徳子(建礼門院)は高倉天皇の中宮となります。

こうして軍制・官制において部門政権の平氏政権が誕生します。平氏は直接的には国政に関わらなかったため、院政下での武家政権でした。また、朝廷の支配機構のうえに成り立っており旧勢力の強い反発を受けます。

安元2(1176)年、平家と後白河法皇を結んでいた建春門院が亡くなります。

配流途中の比叡山の悪僧・明雲が大衆に奪われたため、後白河法皇は平清盛に比叡山への攻撃を命じました。

やむなく比叡山への攻撃へ腹を固めた頃、治承元(1177)年、鹿ヶ谷の陰謀が起きます。多田源氏の源行綱から藤原成親らの謀議が密告されます。藤原成親らは後白河法皇を動かして平氏打倒をはかりますが、発覚して終わる事件です。

鹿ヶ谷の陰謀以後、高倉天皇への皇子誕生が望まれ、平清盛の孫になる皇子が誕生(安徳天皇)しました。

しかし治承3(1179)年、娘の盛子、家督の重盛が相次いで亡くなります。

この年、平清盛の面目が丸潰れとなる人事が発せられ、法皇に裏切られた思いの清盛は強硬な態度に出ます。院政が止められ、大量の院近臣が解官され、法皇の身柄も鳥羽殿に移されます。

新たな政治を目指した行動ではなく、勢力が拡大したのを見届けると、福原に戻りました。

しかしこの影響は大きく、これを機に武士が積極的に政治に介入する道が開かれ、武士が武力で反乱する事態をもたらします。

安徳天皇即位すると、後白河法皇の皇子・以仁王平家打倒の令旨を出し、治承・寿永の乱が起きます。

寺院の大衆が蜂起したため、平清盛は法皇、高倉上皇、安徳天皇を福原に移します。福原遷都です。

東国では源氏が挙兵すると、平氏は追討に失敗したことから、都を戻して南都北嶺の大衆の鎮圧に向かいます。そのなかで南都が焼き討ちにあい、東大寺の大仏が焼かれます。

院政期の文化

平氏に栄華を残すものとして、安芸の厳島神社の平家納経からうかがえます。

奥州藤原氏の栄華を残すものとしては、平泉の中尊寺金色堂があります。

摂関時代からの浄土信仰による浄土教芸術として、陸奥の白水阿弥陀堂や豊後の富貴寺大堂などの阿弥陀堂が建てられました。

文学

  • 栄花(栄華)物語…藤原道長の栄華を編年的にのべている
  • 大鏡…歴史物語
  • 源氏物語絵巻
  • 伴大納言絵巻物
  • 信貴山縁起絵巻…地方社会を題材
  • 陸奥話記…武士の合戦をえがく
  • 今昔物語集…インド、中国、日本の1,000余りの説話を集めた
  • 梁塵秘抄…後白河法皇による、今様と言われる民間歌謡の編集

治承・寿永の乱(源平の争乱)

治承4(1180)年、後白河法皇の皇子・以仁王と源頼政が平氏打倒の兵を挙げます。

源頼朝、源義仲、近江、四国、九州の反平氏の武士団が蜂起し、源平の争乱が始まります。

東国は古くから中央政権に抵抗してきた伝統があり、武士団には独立心が育まれていました。

平氏は福原(神戸)に都を移して反乱勢力に備えましたが、富士川の戦いに敗れ、都を戻して畿内を中心に支配を固めます。

寿永2(1183)年、平家は飢餓の影響もあり、軍事力が衰え、安徳天皇と三種の神器を持って京都を脱出しました。

後白河法皇がいたため朝廷は機能しましたが、天皇の不在は不都合でした。安徳天皇の還京を待つ案もありましたが、新王を擁立することになりました。

8月20日に即位した後鳥羽天皇です。高倉天皇の第4皇子でした。安徳天皇が壇ノ浦に身を投じるまでの1年半、2人の天皇が存在しました。

同年、源頼朝が朝廷との折衝で東国の支配権を認めさせ、支配地に地頭を置き経済的基盤とします。

朝廷は宣旨により東海道・東山道諸国の年貢を復興し、神社・仏寺・王臣家領荘園が元のように領家に従うよう命じます。従わない者は源頼朝に沙汰させました。源頼朝が年貢と荘園の復興を保証したから発給できた宣旨でした。

こうしたことから、近藤成一氏は寿永2(1183)年に鎌倉時代が始まったと考えています。

源頼朝は源範頼、源義経に平氏を追撃させ、各地に東国武士団を配置して、平氏が長門の壇ノ浦の戦いで滅ぶ文治元(1185)年には、ほぼ全国の軍事的支配権を握りました。

源頼朝は平氏の土地を没収した平家没官領を与えられ、これらを合わせて関東御領を成立させます。源頼朝の権力基盤の一つになります。

また朝廷に知行国を求め、4ヵ国の知行国を得ます。関東知行国(関東御分国)と言います。

財源となる荘園・公領の経営、御家人らの裁判のために、公文所(のちの政所)や問注所をおきます。

それらの長官には別当や執事を置き、朝廷の下級官僚だった大江広元、三善康信を任じます。

鎌倉幕府の成立

メモ

※鎌倉時代の開始時期については諸説あります。3つの諸説(東国支配権の承認を得た1183年説、守護・地頭設置権を認められた1185年説、1192年の源頼朝征夷大将軍就任説)が有力です。

中世史研究者の間では1185年が鎌倉幕府成立時期として有力です。平氏が滅亡したからではなく、源頼朝が源義経らの探索を理由に、全国の守護・地頭の任命権などを朝廷に認めさせたためです。

守護・地頭は律令国家に置かれた地方の支配者である国司の権限を受け継ぐ存在です。それを任命できるということは、国家機構の一部を代行する地歩を築いた証と言えます。

なお、「幕府」が武家政権を指すようになったのは、江戸時代末期になってからで、歴史学ではこの言葉を借りて武家政権の統治機構を指すようになりました。

そのため鎌倉幕府成立時には武家政権を指す「幕府」という言葉は無いので、何をもって武家政権の成立とすべきなのかという問題のなり、歴史学者の解釈になります。

鎌倉時代において、武家政権を指す言葉としては、朝廷は「関東」とか「武家」と呼んでおり、幕府側の武士は「鎌倉殿」と言っていました。

後白河上法皇が源義経に源頼朝の追討を命じたため、文治元(1185)年に大軍で朝廷に迫り、守護・地頭を諸国の荘園・公領におくことを認めさせます。源頼朝は東国武士団にこれらを任命します。

この時、北条時政が入洛し、諸国荘公の兵糧米徴集と田地知行が認められました。これは源行家と源義経の追討のための軍事体制を展開する用意で、臨時の措置と思われます。後世に、このことが幕府の守護・地頭設置を朝廷が勅許したと解釈されます。

源頼朝はこの様な強権を握る理由として二人の逃亡と諸国の治安が乱れていることを理由としていますので、臨時の措置として朝廷側は受け取ったと思われます。

そして、地頭職は平家没官領・謀反人所帯跡に限って設置されるという原則が確立します。鎌倉時代通じて有効となります。

  • 守護:国ごとに任命され、国内の武士を御家人に組織し、幕府の命令を執り行い、大犯三ヶ条(京都大番役の催促、謀反人・殺害人の逮捕)の業務を遂行します。
  • 地頭:荘園や公領におかれ、年貢の徴収・納入、土地の管理、治安の維持にあたりました。

守護と地頭の設置により、国司と守護、荘園領主と地頭の二重支配が行われました。本所にとって地頭は極めて厄介な存在となります。

文治5(1189)年、源頼朝は源義経をかくまったとして、奥州藤原氏を攻めます。奥州合戦に勝利して源頼朝は名実ともに東国の王となります。宣旨なく追討を実施したことにより、東国における幕府の正統性を広く認めさせました。

建久3年(1192)全国の軍事支配を達成し、後白河法皇の死後、征夷大将軍に任命されました。

この時、源頼朝は国衙に結集する武士の大番頭を統率する守護を支配する権限も掌握し、そして、守護を通じて諸国の武士を統率する地位として「大将軍」を求めました。

朝廷は、「大将軍」に相当する官職は複数ありますが、坂上田村麻呂の征夷大将軍が吉例として任じます。征夷大将軍が幕府の首長を指すようになるのは源頼家から源実朝への交代以降です。

主従関係

源頼朝は主人と従者(家人)の主従関係を幕府の根本に据えました。

将軍は御家人に御恩を与え、御家人は将軍に奉公する制度です。

この社会制度を封建制度と呼びます。

御恩

  • 本領安堵…土地の権利を認める
  • 新恩給与…あらたに領地を与える
  • 守護職・地頭職へに任命

奉公

  • 軍役…戦場にでかける
  • 京都大番役・鎌倉番役をつとめる

武士団の地位と経済力は向上しますが、国司や荘園領主と土地をめぐる争いがおきます。

幕府は政所や問注所などで対処しますが、朝廷との関係を重視する源頼朝と、守護・地頭の権利を主張する御家人との対立が生じます。

日本史論述問題の過去問

院政

  • 2012年筑波:鎌倉幕府の成立過程について、「後白河法皇」「藤原泰衡」「壇の浦」「地頭」の語句を用いて回答することが求められました。
  • 2007年阪大:後三条天皇・白河天皇の政治について院政段階も含め、その歴史的意義について問われました。
  • 2007年筑波:平安時代後期における院政のあり方について、「南都・北嶺」「院宣」「平清盛」「熊野参詣」の語句を用いて回答することが求められました。

東国・東北政策

  • 2013年東大:奥州藤原氏はどのような姿勢で政権を維持しようとしたか。京都の朝廷および日本の外との関係にふれながら問われました。また、頼朝政権が、全国平定の仕上げとして奥州藤原氏政権を滅ぼさなければならなかったのはなぜか。朝廷の動きを含めて問われました。さらに、平氏政権と異なって、頼朝政権が最初の安定した武家政権(幕府)となりえたのはなぜか。地理的要因と武士の編成のあり方の両面から問われました。
  • 1996年筑波:9~12世紀における東北地方の政治的動向について、京・鎌倉の政権と関連させつつ、「多賀城」「中尊寺金色堂」「俘囚」「藤原秀衡」「安倍頼時」の語句を用いて述べるよう求められました。

参考文献

テーマ別日本史

  1. 縄文時代と弥生時代
  2. 古墳時代から大和王権の成立まで
  3. 飛鳥時代(大化の改新から壬申の乱)
  4. 飛鳥時代(律令国家の形成と白鳳文化)
  5. 奈良時代(平城京遷都から遣唐使、天平文化)
  6. 平安時代(平安遷都、弘仁・貞観文化)
  7. 平安時代(藤原氏の台頭、承平・天慶の乱、摂関政治、国風文化)
  8. 平安時代(荘園と武士団、院政と平氏政権)
  9. 平安時代末期から鎌倉時代初期(幕府成立前夜) 本ページ
  10. 鎌倉時代(北条氏の台頭から承久の乱、執権政治確立まで)
  11. 鎌倉時代(惣領制の成立)
  12. 鎌倉時代(鎌倉文化)
  13. 鎌倉時代(蒙古襲来)
  14. 鎌倉時代~南北朝時代(鎌倉幕府の滅亡)
  15. 室町時代(室町幕府と勘合貿易)
  16. 室町時代(下剋上の社会)
  17. 室町時代(東山文化)
  18. 室町時代(戦国時代)
  19. 安土桃山時代
  20. 江戸時代(幕府開設時期)
  21. 江戸時代(幕府の安定時代)
  22. 江戸時代(幕藩体制の動揺)
  23. 江戸時代(化政文化)
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