海音寺潮五郎の「寺田屋騒動」を読んだ感想とあらすじ

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覚書/感想/コメント

幕末維新史を複雑にしたものは大別して二つあるという。

一つは孝明天皇の病的なまでの欧米嫌い。もう一つは薩長の反目である。だからこれら二つの問題が解決すると、トントン拍子に事は進んだのである。

この薩長の反目の原因として重要な島津久光の長州嫌いの原因が本書の寺田屋事件である。

だが、この時代の時勢は元々が複雑である。幕府の態度もころころ変わり、また主たる藩の態度もころころ変わる。当然、本書にも各所の主義主張が入り乱れる様が描かれることになる。結果として、構成自体が複雑なものになっているが、これは仕方ないことだと思う。

窮屈なのは、構成が複雑であるが故に、一体全体、寺田屋騒動の本質的な原因が何なのかが、ともすれば分からなくなってしまう点であろうか。

まず、本書は歴代の幕府と朝廷の関係を述べている。

これは、寺田屋騒動の壮士達で計画していたのは幕末維新において最初の幕府からの大権奪還の計画であった。その失敗が寺田屋騒動だった。そして、こうした挙にでた根本には勤王思想があるためである。だから、最初に朝幕関係を知る必要があるのだ。

そして、寺田屋騒動に強く関係する島津久光、大久保利通、西郷隆盛の関係が大きな柱として据えられることになる。

西郷隆盛と島津久光は終生反目しあった。なぜか?その部分はたびたび本書でも書かれているが、西郷隆盛が前藩主・島津斉彬の死に不審を抱き、この死に島津久光が関わっているのではないかと疑っている点から発するという。それを反射するように久光も西郷を嫌うことになる。この二人の反目が、最終的な寺田屋騒動の暴走となる。

結局のところ、久光が浪人志士の鎮撫していた西郷を戻してしまったために、歯止めがきかなくなり事件が勃発する。

島津斉彬の死は毒殺だと海音寺潮五郎も信じている。斉彬の父・斉興から指示を受け、毒殺したのだという。なぜそうしなければならなかったかは、本書に詳しく書かれているのでごらんいただきたい。

さて、西郷隆盛は人の好き嫌いの激しい人間だったようだ。心術が清潔で、さわやかな人柄の人、朴直で勇敢な人は手腕がなくとも好き、手腕がともなえばもちろん大好き。一方、私利私欲の徒、傲慢な威張屋や、小才にたけて多弁な人間は大嫌いだったようだ。

このことは、そのまま海音寺潮五郎にも当てはまる様な気がする。

最後に、海音寺潮五郎が文中で述べている次の言葉は辛辣であるが、まさにそうだとしかいいようがないと思う。いかがだろうか?

「為政者が適しているとするものが正しく、不適当なものが不正当とされるに過ぎない。」

内容/あらすじ/ネタバレ

井伊直弼の安政の大獄で処断された人々の政治意見は公武合体であった。だが、井伊が死ぬとこれが幕府の意見となる。これが和宮降嫁事件となり、まじめに公武合体による国家統一を考え始めたものが現れた。最初の人物が長州藩士の長井雅楽であった。

だが、この長井の意見には長州藩がすべて賛成だったわけではない。とくに吉田松陰の松下村塾出身の連中は大反対だった。それでも長井雅楽は京での活躍が目立った。

この長井雅楽と長州藩の活躍に衝撃を受けたのが薩摩の島津久光だった。

島津久光の兄・島津斉彬。斉彬は父・斉興に疎んじられ、長いこと藩主になれなかった。それは斉彬の曾祖父にあたる重豪に性質が似ているからであった。重豪は多額の借金をこさえ、薩摩を困窮のどん底に落とした張本人である。

その後、財政再建に励み借金もなくなり、余剰金すら生まれたが、斉彬が継げばすべてを散在する可能性があるように思われたのだ。だから斉興は斉彬より天性賢くはあるが保守好みの久光を愛したようである。

だが、世子は斉彬である。典型的な御家騒動の様子をはらんでいる。

その後、幕府の働きかけでようやく藩主になり得た斉彬であるが、果たして近代工業を藩内におこしはじめた。しかし、この斉彬も死んでしまう。一説には毒殺だと言われている。

この斉彬の死が、後年寺田屋騒動に絡む壮士達に多大な影響を与えることになる。

当時薩摩には誠忠組と呼ばれる青年武士の集団があった。西郷隆盛や大久保利通、有馬新七、有村俊斎、堀次郎らがいた。

やがて西郷が斉彬に抜擢され、国事に働くことになると、西郷からの手紙などで中央の様子が他のメンバーに伝わるようになった。また、時勢も大きく彼らを刺激したようである。メンバーは憂国慨世の政治青年となっていく。

斉彬の死を境にして藩の態度が硬化した。保守の殻に閉じこもってしまったのだ。誠忠組の青年等には気に入るはずがなく、脱藩して浪人運動をしようという気運が高まる。これを策をもって止めたのが大久保利通である。

大久保はこのために久光に近づこうと考えた。久光は賢い人間であることを聞いていたので、脈があると踏んだのだ。やがて、効を成し久光から、脱藩をやめよとの沙汰がおり下りたのだ。

また、大久保は久光に中央の情勢を教え、久光は藩の政治後見となり、薩摩全藩をあげて中央へ出たいと思うようになる。大久保は久光の教育も成功させた。

この頃の久光の権力は微弱である。長いこと臣籍にあったのが、息子が藩主となることになり後見的な立場になったためである。だから、久光が志を持っていても、藩をすぐに動かすほどの力はなかった。こうした状況の中で大久保は辛抱強く時勢の変化を待っていた。

対して、誠忠組の青年等は時期が来たら久光が動いて中央に乗り込んでくれると思っている。有馬新七ら、誠忠組の左派の連中は自然とかたまり分派の形を成しつつあった。双方の状況と、それぞれの認識に差が生じているのだ。この中、西郷隆盛が帰還した。

そして、久光引兵上京のことが伝わる。これに先んじて、西郷が薩摩を出発して浪人志士等の鎮撫にあたることになった。しかし…

本書について

海音寺潮五郎
寺田屋騒動
文春文庫 約三五五頁
江戸末期

目次

朝幕関係
久光由来
斉彬と誠忠組
大久保のはなれわざ
桜田門外の変
有馬新七
清河八郎と平野国臣
西日本を蔽う雷雲
西郷帰還
西郷・大久保の談合
西郷の先発
薩摩ブロックと長州ブロック
禍の種子
大久保と西郷
久光上洛
京の風大坂の風
伏見集結
惨たり、朋友相討つ
陰惨な結末

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