海音寺潮五郎の「さむらいの本懐」を読んだ感想とあらすじ

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覚書/感想/コメント

ごく短い小説「献上の虎」があって、他がそれぞれほぼ等分となっている。「献上の虎」だが、書名を逸しているが、題材があるという。

勝海舟」は約一五〇頁と全体の約半分を占めており、その一生を書いている中編である。

『勝を利にさとい、忘恩の徒のように言う人が当時も多数あり、今日もまた相当ありますが、それは勝のことをほんの表面的にしか知らないからだと思います。その生涯を子細に吟味してみますと、この人ほど徳川家にたいして義理堅く、忠誠な人はそう多くはないでしょう。』

こうしたスタンスで書かれており、勝海舟を好意的に描いている。

江戸城無血開城の前後については海音寺潮五郎江戸開城」に詳しいので、そちらを是非一読することをおすすめする。

また、幼少期の海舟と父・小吉については子母澤寛>氏の名著「父子鷹」があり、同氏には「勝海舟」という長編もあるので、こちらもあわせて読まれることをおすすめする。

この中編を読んで思うのは、もし海音寺氏が長生きされていたのなら、勝海舟の長編を書いたのではないだろうかということである。勝海舟と同じ時期に活躍した西郷隆盛を氏は幾度となく書いているが、勝海舟もたびたび中編や短編で書いており、その人物を好ましく思っていたように感じられる。

たびたび取り上げている人物というのはほとんどいないので、よほど好きだったのではないかと思ってしまうのだ。少なくとも、高く評価していた人物であったことは間違いない。

「源頼朝」では源頼朝の「嫡流」について疑問を投げかけているのが興味深い。「嫡流」になったのは、あくまでも頼朝が天下を取ったからであり、その初めから「嫡流」ではなかったのではないかというのだ。

栄えた家が傍流であっても、世間からは嫡流と見なされるのは現在にもあることであり、当時も同じではなかったかというのだ。とても説得力のある展開をしている。

この頼朝だが、あまりにも猜疑心が強く、それがために兄弟を殺し、結局は自分の系統だけしか残らず、その系統もわずかにして途絶えてしまう。

この後の源氏の「嫡流」というのは、室町時代になって足利家が継ぐことになるが、兄弟の順番でいえば新田氏の方が「嫡流」であるべきだったが、天下を取ったのが足利氏であったため、足利氏の方が「嫡流」と見なされることになってしまう。こうした点も、海音寺氏の見解を裏付けているように思われる。

後半で書かれている随想に関しても面白い記述がそれなりにある。それは、歴史小説における「ウソ」という部分である。

私などは歴史小説とは所詮歴史を題材にしたフィクションだと思っているので、まぁ、そんなものだろう、と思って読んだのだが、意外な風に思われる人もいるかもしれない。一度読まれて、歴史小説作家がどのように考えながら作品を書いているのかを知るのもよいかもしれない。

内容/あらすじ/ネタバレ

勝海舟

「大人物は世に理解されにくい、百年、二百年、三百年経って、はじめて理解されることもめずらしくない」という意味のことを勝海舟は氷川清話で言っている。

勝海舟を理解している人は今日でもごく少ないのではないか。真に知るためには生きていた時代を見るだけでは足りず、ずっと後世まで眺める必要がある。勝海舟の生涯を見て、最後がどういう結果を結んでいるかまで見届ける必要がある。

勝家は三河以来の旗本である。海舟の祖父の兄の息子、つまり海舟の父・小吉の従兄弟に幕末の剣聖といわれた直真陰流の男谷下総守信友(精一郎)がいる。海舟の通称は麟太郎、名を義邦、明治以後安芳と改めた。

この信友の紹介により麟太郎が剣を学んだのは島田虎之助だった。麟太郎は「おれがまじめに修行したのは剣術だけだ」といったくらい影響を受けた。

麟太郎は十五、六の頃から蘭学をやる志を立てたという。嘉永三年(一八五〇)に二十八となった麟太郎は蘭学塾を開く。

安政元年に大久保忠寛(一翁)が麟太郎を訪ね、幕府への出仕をすすめた。いろいろな役を務めたが、重要だったのは幕府の海軍伝習生となって長崎で厳しい修行をしたことだった。

安政六年。江戸に戻り、有名な咸臨丸の太平洋横断の話となる。

アメリカから戻ってくると、しばらく麟太郎の栄達がつづく。文久二年には軍艦奉行並になった。

世の中が騒然とし始めた時代に勝麟太郎は日本の国を保全し、日本国民を安全に守り抜くことが本当に大事だと考えていた。

文久三年。勝麟太郎は西郷隆盛と会うことになる。この時から勝は西郷と懇意になり、四年後の江戸が兵火を免れて百万の生霊が安泰であることの因縁が生まれた。

第二次征長の役にあたって、いったん役を放されていた勝を呼び戻すことになった。頼まれた役目を至極あっさりとケリをつけて帰ってきた。この第二次征長の役の途中で十四代将軍が亡くなり、将軍には徳川慶喜がなった。これに勝は長州との和議をまとめろと言われた。

勝は和議をまとめてきたが、京へ戻ってみると、事情がガラッと変わっていた。勝は何のために骨身を削ったのかがわけのわからないことになり、結果的には長州人を裏切ったことになってしまった。

大政奉還が行われた頃、勝は時局とははなれたところにいた。この時に英国公使パークスや書記官アーネスト・サトウとの間に親交を結んだ。

(以下は「江戸開城」の方が詳しいので省略)

源頼朝

源頼朝は清和源氏の嫡統となるべき天命を持っていたということは古来考えられていた。平治物語では頼朝の着た「源太が産衣」は嫡流でなければ伝承しないことになっているものだとされている。

だから、悪源太義平という嫡男がいたのにもかかわらず、頼朝に家を伝えるこころがあったとされてきた。

だが、頼朝が着せられたのはそれが単に子供用のものだったからで、他に特別な理由はないのではないか。

頼朝の家は清和源氏で嫡流というのが常識になっているが、これも頼朝が天下取りになったからで、それ以前は必ずしもそうは考えられていなかったのではないか。頼朝は東国掌握しながらも、西に向かわず、しきりに同族を征伐した期間が三年ほどある。上州の新田義重、常陸の佐竹義政と甥の秀義、志田義広、信濃の木曾義仲。皆同族で、しかも近い同族だ。

それぞれが頼朝は嫡流に相応しくないと考え、反抗の色まで見せたのではないか。そして、こうした人々だけでなく、一般にも同じように考える人が相当いたのではないか。

頼朝が主導的にこの人々を討滅しようとしたのは、病的なほどに強烈な猜疑心によることであるが、こうした人々の意識も頼朝の猜疑心をさらに鼓舞して深刻化させた。

頼朝に東国がなぜ味方する気になったか。それは、平家の武士達を羨ましく思い、自分たちも武運めでたかったら、ああであったはずだと思う心が、馳せ参じさせたのだと考える。

鎌倉幕府は東国の武士が自分らの便宜のためにおくことにした政治機関であったといってよい。

献上の虎

豊臣秀吉の朝鮮出兵で、出兵していた諸大名の多くが内地に引き上げていることのこと。明の使者が象と虎を持ってきた。

この頃、肥後のある村に伝太という猟師がおり、カヤという犬を飼っていた。そのカヤを虎の餌にせよという命令がやってきた。差し出すまでの五日間、伝太はカヤを存分に可愛がった。

カヤは他の犬とは違った。虎の檻に入れられると、カヤは虎の喉にかみついたのだ。

本書について

海音寺潮五郎
さむらいの本懐
文春文庫 約三〇〇頁
鎌倉時代江戸時代

目次

勝海舟
源頼朝
献上の虎
随想
 史実と小説
 商君列伝
 愛情と嫉妬
 文学と真実
 独白心理描写
 オブジエ生花
 美と実用
 執念深く
 原作者の不安
 「尾崎・太平記」に対する期待
 作家と歴史観
 疎開の児童
 十二月のうた
 ツバメの夫婦喧嘩
 サギにあった話
 ある特高の話
 なまぐさい歳首の辞
 近頃悲憤のこと
 杞人の憂え

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