海音寺潮五郎の「加藤清正」を読んだ感想とあらすじ

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覚書/感想/コメント

本書は加藤清正が秀吉に仕える時期から、死ぬまでの期間を描いている。

加藤清正といえば、猛将のイメージがあるが、これは秀吉の朝鮮半島出兵時の活躍によるものである。

この時の有名な逸話は、虎退治だろうが、この清正の虎退治の真相を海音寺潮五郎は鉄砲によるものであるとしている。

さて、清正と仲の悪かった石田三成。この石田三成が親しかったのは、豊臣家にとって外様の大名達が多かった。佐竹、伊達、毛利、上杉、長曽我部、島津、立花など。

一方、豊臣家子飼いの大名達とは仲が悪かった。身内だから厚遇する必要がないと判断したためだろうか。この辺りに石田三成の政治家としての限界があるように思われる。

加藤清正は猛将である一方で、治世者としても優秀であった。特に清正の領国経営。治水に関して、流れの急なところは強固な石垣を築き、場所によってはわざと決壊させ、他の場所に被害を拡大しないようにしていた。被害を最小限に食い止める方法である。

だが、ある作家は国防のために領民の難儀を犠牲にしたのだと解釈していたそうだ。海音寺潮五郎はこの考えを一蹴している。その作家はこういう治水法がある事を知らない、不詮索の至りであると一喝している。この作家とは誰なのか…ちと興味がある。

面白いのは、加藤家は肥後に二代四十四年しかおらず、後を継いだ細川家は二百三十九年続いたが、熊本の人びとは加藤家を称えるそうである。細川家も相当の善政を施いたにも関わらず、清正の残した堤防や城の印象が強いのだろう。

本書の後半で登場する逸話で、歌舞伎遊女の話がある。歌舞伎遊女の名前に男名前を付けるのは珍しくなかったらしい。海音寺潮五郎がこの作品を書いた時期(1983年)からほんの二、三十年前までは芸者にその名残があったらしい。

また、豆知識として、有楽町は織田有楽斎から来ていることも記載されている。

話はそれるが、文中に海音寺潮五郎が三田村鳶魚に師事していたことが書かれている。

あわせて海音寺潮五郎の「新太閤記」を読まれることをお薦めする。

内容/あらすじ/ネタバレ

天正元年、織田信長は浅井征伐にとりかかり、小谷城を陥れ、浅井氏を滅ぼした。秀吉はこの浅井氏の領地を信長から与えられた。

今浜から長浜と改称されたこの場所に秀吉が城を築き家族共々移り住んだこの年。

秀吉の母のいとこであるお沢が息子を連れて訪ねてきた。虎之助と名乗る少年は、秀吉が烏帽子親となり元服し、清正と名乗ることになる。そして清正は秀吉の近習として仕えることになる。

天正五年。清正が十九になった年、知行も五百石となり、成長も著しかった。この年、秀吉は石田左吉三成という青年を召し抱えた。そしてこの頃福島市松(後の正則)も召し抱えられた。

清正は市松とは馬が合うものの、どうも左吉を好きになれない。市松も同様であった。この頃から両者はそりが合わなかったのである。

この年、秀吉は信長の命により播州へ出発をした。播州を平定した後は毛利との対決である。この出兵の中で清正は山中鹿之助から、武辺は律儀にあるということを学んだ。そしてそれは生涯の指針となる。

秀吉が高松城で毛利と対峙をしているとき、異変が報告された。信長が本能寺で明智光秀に殺されたというものであった。

秀吉はすぐさま明智光秀を討ち取り、宿敵・柴田勝家も賤ヶ嶽の合戦で打ち破り、天下は秀吉に帰する。賤ヶ嶽の合戦では清正も賤ヶ嶽七本槍と呼ばれる活躍をした。

秀吉は徳川家康との対決にも決着を見せると、次は明を攻めると言い始める。この時、清正は肥後の北半分を有していた。そして南半分は小西行長が有していた。

明を攻めるために秀吉は朝鮮半島からの道を選ぶことにした。その先陣として清正と小西が朝鮮半島に渡った。

秀吉の外征は失敗であった。清正はそのことを認識していたが、小西行長や石田三成のやり方に不満を持っていた。不満が爆発したのは秀吉が死に、清正らに帰還命令が出た後のことである。

本書について

海音寺潮五郎
加藤清正
文春文庫 計約七四〇頁
戦国時代

目次

初見参
左吉と市松
落城遺芳
飛竜の時
武士の鑑
山崎合戦
賤ヶ嶽以前
賤ヶ嶽合戦
お篠
しッぱらい
半国の主
天草一揆
錦衣帰郷
妙法の旗と薬袋
出しぬく
先登争い
再度の衝突
鬼上官
和戦虚々実々
地震加藤
再征
撤兵
領国経営
肥後全国の主
築城
六尺の孤
胡孫
金官
歌舞伎遊女
幼な妻千姫
六月二十四日

登場人物

加藤清正
お沢…母
お篠…妻
飯田覚兵衛
金官
豊臣秀吉
ねね
黒田官兵衛(如水)
前田利家
徳川家康
福島正則
浅野長政
浅野幸長…長政の子
石田三成
小西行長
山中鹿之助

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