テーマ:鎌倉時代(北条氏の台頭から承久の乱、執権政治確立まで)

この記事は約14分で読めます。

承久の乱(後鳥羽上皇と北条義時の戦い)

承久の乱は朝廷対幕府の戦いですが、後鳥羽上皇が仕掛けた戦でした。朝廷側のトップは天皇ではなく、摂関家でもなく、上皇でした。

この時代は上皇による院政が敷かれていた時代です。なぜ上皇が天皇を凌いで「治天の君」として君臨できたのかを知るのが重要です。

坂井孝一氏によると、院政期の始まりとなった白河上皇は、院政を目的として院政を始めたのではなく、自らの皇統の確立のためだったと言います。

また、本郷和人氏によると、治天の君として君臨する上皇は、家権力、つまりは天皇家の家父長として天皇を凌ぐ力を持っていたと言います。つまりは、地位よりも家の重視です。

天皇や摂政・関白という地位よりも、家が優先され、家父長だった上皇が 「治天の君」として君臨したのが院政ということです。

北条氏の台頭

鎌倉時代、源頼朝の後を継いだ源頼家が頼朝同様に強大な権力を持つことを御家人は歓迎しませんでした。

そのため、有力御家人は将軍のもつ多くの権限を制限しようとします。

頼朝の死からわずか3か月で北条時政、大江広元、三善康信らは頼家から訴訟(裁判)の裁決権を取り上げて合議制を始めます。

13人の合議制

こうして始まったのが13人の合議制です。この制度はのちの評定衆や引付衆に連なります。

13人の合議制の構成は次の通りです。

  1. 文官4人
    • 大江広元
    • 三善康信
    • 中原親能
    • 二階堂行政
  2. 武将9人
    • 北条時政
    • 北条義時
    • 三浦義澄
    • 八田知家
    • 和田義盛
    • 比企能員
    • 安達盛長
    • 足立遠元
    • 梶原景時

会議の中心にいたのは、頼家の母・政子の実家・北条氏でした。これ以後、北条氏が台頭していきます。

本郷和人氏は、13人の合議制は強くなりすぎた将軍の権力に対する有力御家人たちの危機感の現れとみます。

北条氏による有力御家人の排除

13人の合議制はすぐに崩れ始めます。北条氏が有力御家人を排除し始め、政争が続くからです。

正治元(1199)年 梶原景時 鎌倉追放 翌1200年に駿河で滅ぼされます。

建仁3(1203)年 頼家が病に倒れると、時政は政子とはかり、頼家の子・一幡と頼家の弟・千幡を後継者にたてます。将軍の権力を2分割し継承させようとしたのです。

これを知った源頼家と一幡の外祖父・比企能員は、北条時政を討とうとしますが、 比企能員は逆に殺されてしまいます。

源頼家は修善寺に押し込められ、頼家の弟・千幡が将軍・源実朝となります。

北条時政は大江広元とならんで政所別当となり、将軍補佐を名目として実権を握ります。この時政の地位を執権と呼び、この後は北条氏に伝えられていきます。

当初は執権別当として下知状に署判を加えていましたが、やがて逆転し、下知状に署判を加える役職が執権であり、執権は必ず政所別当に加わるものと認識されるようになります

しかし、下知状に署判を加える執権の地位を世襲したことが北条氏の権力基盤になったわけではありませんでした。

元久元(1204)年、時政は頼家を殺害し、翌年には実朝を退けて娘婿の平賀朝雅を将軍にしようとしました。この事件の中で、畠山重忠の一族が滅ぼされます。

しかし、政子らの反対にあい、朝雅は京都で殺され、時政は引退を余儀なくされます。

平賀朝雅は源氏一門の有力者でした。坂井孝一氏はこの事件を重視していませんが、本郷和人氏は重視しています。平賀朝雅の兄・大内惟義も本郷和人氏は重要視しています。

北条義時登場

時政を継いだのは北条義時でした。ただし、上記のように北条時政から北条義時には順調に引き継がれませんでした。

建保元(1213)年、義時は和田義盛と一族を和田合戦の末に勝利し、政所と合わせて侍所の別当を兼ね、執権の地位を不動のものとします。

この頃には西国では源平の争乱から復興し、朝廷が勢いを取り戻していました。

北条義時をどのように捉えるかが人によって異なるようです。

  • 坂井孝一氏 :史料の中で見られるものとして、源実朝が暗殺されたとき、慈円の「愚管抄」では石段より手前の中門でとどまっているように指示されたというので、その程度の地位だった。
  • 本郷和人氏:すでに鎌倉一の実力者であったと考えています。有力御家人の排除を終えた北条義時にとって、源氏の棟梁の必要性が薄れており、もはや源実朝は排除の対象となっていたというのです。

源実朝の実権

従来、源実朝は北条氏の傀儡といわれてきましたが、最近では実朝の政治への取り組みを評価する説が有力となっています。

この従来の常識を覆す見解を示したのは五味文彦氏です。

しかし、北条氏の強い影響下にあったのは間違いありません。

坂井孝一氏によると、源実朝は統治者としても次々に政策を打ち出して成果を上げました。

最も重要な御家人役である京都大番役を厳格化し御家人統制策を進めましたが、源実朝の将軍親裁に御家人が従わなかったり、反発したりする形跡が無いことから、確固たる力を持っていたというのです。

本郷和人氏も、従来の北条氏の傀儡に過ぎないというイメージとは異なり、源実朝は大きな実権をふるっていたと述べています。

源実朝暗殺

源実朝は公家文化に親しみ、官位の昇進を望み、武士に似つかわしくない行動をとります。

また、源実朝には遁世の意思を抱くようになり、朝廷から次期将軍を迎えて兄頼家の娘と結婚させて、出家するという構想を持っていました。

しかし、この構想は政治的にも経済的にも上皇の威勢が高まるなかでの動きだったため、幕府内で危機感を募らせ、起きたのが実朝暗殺事件でした。

承久元(1219)年、実朝は公暁によって暗殺されます。公暁が誰に操られていたのかは、北条氏設、三浦氏説があり定かではありません。

本郷和人氏は北条義時が状況証拠的に黒幕だろうと考えています。

事件の直前に、心身の不調を訴えて家に帰ってしまうなど、怪しい点があり、事件後も背後関係は調べられておらず、そこには最高実力者の北条義時の意図、さらには御家人の総意があったと考えているのです。

一方で坂井孝一氏は公暁の単独犯説です。

子がおらず後継者のいない源実朝が親王将軍を考え、良好な関係にあった後鳥羽上皇の親王を時期将軍に考えていました。

公暁にしてみれば、その案が実現してしまうと、自分が将軍になれる可能性がなくなるため、そうならないための襲撃だったと考えています。

義時は親王を奉じて将軍にたてようと願いますが、後鳥羽上皇はこれを許しませんでした。後鳥羽上皇は政治的に幕府を従属させるための媒介者を失い、幕府との協調路線が破綻したため、幕府からの皇子下向要請を拒否したのです。

そこで頼朝の遠縁にあたる摂関家の藤原頼経を迎え、摂家将軍となります。将軍とは名ばかりで、実権は執権北条氏にありました。

下知状に北条義時が署判するようになるのはこの頃からです。

承久の乱

承久の乱はなぜ起きたのか

武士の勢力が全国に伸びると、朝廷や貴族の反感が強まります。公家の経済的基盤である荘園が地頭によって侵されたことで危機感を強めました。そして、幕府を倒そうという動きを生み出します。 

倒幕目的ではなかった説

この倒幕という考えに対しては、坂井孝一氏は反対の見解です。あくまでも北条義時を排除するのが目的で、倒幕の意志はなかったというのです。

近藤成一氏も同様です。宣旨が命じるのは北条義時の追討であり、倒幕ではないという見解です。

倒幕が目的であれば、追討の対象は将軍ですが、三寅が元服前の幼齢であることをいいことに専権を振るっていることが謀反と断じられたのです。

倒幕目的だった説

本郷和人氏は朝廷が幕府を倒す命令を出すときは、排除すべき指導者の名を挙げますので、倒幕の意志があったと考えています。

承久の乱の原因

原因に対しても、坂井孝一氏は大内裏焼失事件に象徴されるように、コントロールのきかなくなった幕府の元凶として北条義時の独断があるため、排除すれば幕府がコントロール下に置けると考えています。

一方で本郷和人氏は後鳥羽上皇の「権門体制論」的な考え方と、北条義時の「東国国家論」「二つの王権論」的な考え方のぶつかり合いと考えています。後鳥羽上皇に代表される朝廷の国家像と、北条義時に代表される在地領主の国家像の違いです。

また、本郷和人氏は、全国に武士の勢力が伸びていたわけではなく、承久の乱より前に鎌倉幕府が影響力を行使できたのは東国が中心だったと指摘します。

具体的には遠江、伊豆、甲斐、相模、武蔵、安房、上総、下総、常陸、信濃、上野、下野、陸奥、出羽だけだったと述べています。

三河・美濃以西は幕府の動員の外でした。全国に影響力を行使できるようになるのは、承久の乱後のこととも述べています。

後鳥羽上皇による院政

後鳥羽上皇が強力な指導力を発揮するようになると、貴族の合議は退けられ、上皇と何人かの寵臣によって政務が行われます。

乳母の卿二位(藤原兼子)をはじめとする上皇の近親者が政治に口を出します。

鎌倉時代前期は女性が政治に大きな力を持った時期でした。摂関家出身の僧・慈円が「愚管抄」で日本は女人入眼の国と評しました。

後鳥羽上皇は分散していた天皇領をまとめて手に入れます。八条院領、長講堂領などの広大な天皇家領です。

これらの土地を恩賞として新たな朝廷の軍事力を編成していきます。北面の武士に加え、西面の武士を設けます。

上皇は源実朝を厚遇し、実朝を介して鎌倉幕府に影響力を行使しようとしたのではないかと考えられます。

しかし、実朝が殺されると、朝廷と北条氏を代表する幕府の関係は不安定になります。

承久の乱勃発

承久3(1221)年、上皇は北条義時追討の院宣を発します。承久の乱の始まりです。

上皇の下には北面・西面の武士となった御家人や北条氏に反発する人が集まりますが、大寺院の僧兵や東国の武士の大多数は上皇の呼びかけに応じず、幕府に結集していきます。

北条政子による演説が有名ですが、本郷和人氏は御家人たちが鎌倉に集結した時点で、演説の有無にかかわらず鎌倉方に付くことを決めていたと言います。

そうでなければ、叛旗の兵を挙げているはずだからです。

一方で坂井孝一氏は北条政子の演説の時点では、何が起きていたのか分かっていなかった御家人たちがおり、不安・動揺を与えていたと言います。

大江広元の意見に従って、北条義時は子・泰時を大将とし、弟・時房を副将として、東海・東山・北陸の3道から京都に進めます。朝廷軍は木曽川や宇治・勢多で戦いますが、一戦の下に敗れます。

承久の乱の短期決戦と戦後処理

幕府軍はわずか1か月で朝廷軍を壊滅させ、京都を占拠します。

乱後、義時は泰時と時房を京都にとどまらせて事後処理を指せます。

後鳥羽上皇の嫡孫・仲恭天皇を退け、上皇の兄の子・後堀川天皇を即位させます。後鳥羽上皇の血縁を嫌ったのです。

後鳥羽上皇は隠岐島、順徳上皇を佐渡島、土御門上皇を土佐国に流します。

治天の君が処罰されるのは前代未聞で、朝廷の威信が失墜します。また、何人もの貴族・武士を斬刑に処します。

上皇方の所領は没収されます。平家の遺領が500か所あまりでしたが、この時は3000にのぼりました。

幕府の使節として二階堂行盛が入洛し、治世に関する意向が伝えられ、後鳥羽院の兄・入堂行助親王(=後高倉院)が院政を行うことになり、子の後堀川天皇が即位します。

後高倉院は皇位を経験せずに院政を行った唯一の例です。ここに院政の本質が出ています。院政は天皇の直系尊属が政治を主宰することであり、皇位を経験していることは要件ではありません。

承久の乱の影響、六波羅探題設置

幕府は功績のあった御家人に地頭職を与えます。この地頭を新補地頭と言います。そして新たな給与を定めた基準を新補率法と言います。

これにより以前からの本補地頭をあわせて地頭制度が完成します。

上皇方の所領は畿内・西国に多く分布していたため、幕府の勢力は全国に及ぶことになります。

乱後の処置を終えたのちも泰時と時房は京都の六波羅に住み、京都守護にかわって京都市中の警備にあたります。

六波羅探題と呼ばれ、執権に次ぐ要職となります。

六波羅探題は朝廷を監視し、尾張以西の西国御家人を統轄し、幕府と連携しながら西国の行政・司法を行います。

幕府は争乱の再燃を恐れ、朝廷を監視します。特に軍事面を留意され、朝廷は独自の軍事行動がとれなくなります。

乱の結果によって、朝廷と幕府の二元的な支配構造は大きく変化します。幕府は皇位の継承や朝廷の政治の在り方にも干渉するようになります。

院政は行われていきますが、幕府と良好な関係を築いた上皇・貴族が朝廷内での統治行為を行っていきました。

保元の乱から承久の乱までの65年間は戦乱の続いた時代でした。慈円は「愚管抄」でこの時代を「武者(武士)の世」と言いました。

執権政治

六波羅探題の基礎を築いた北条泰時が鎌倉に戻ると、京の政治と文化を以前よりも積極的に摂取していきます。

北条家3代目の北条泰時は、北条政子の死後、摂関家から迎えた藤原頼経が将軍(藤原将軍、摂家将軍)になるまえに、政治や裁判を執権と有力御家人からなる評定衆で行う体制を築きます。鎌倉殿の藤原頼経は排除されていました。

執権を補佐する連署には北条一族をあて、北条氏による執権政治が完成します。執権と連署は基本的には同格であり、両者を合わせて「両執権」と呼ぶことがあります。

なお、北条氏が世襲した執権は、政所別当だった北条時政が称したもので、立場は将軍家の家司(家政を司る者)に過ぎませんでした。

山本博文氏は、北条氏は、実力があっても将軍になる資格があるとは周囲の武士が認めず、北条氏もそう認識していたはずと述べています。

寛喜2(1230)年に始まる飢饉に朝廷が新制を出すと、貞永元(1232)年、北条泰時は武家の法典「御成敗式目」51ヵ条(貞永式目)の制定に動きます。

御成敗式目は、武士社会の慣習や道徳、幕府の先例をとりいれて成文化したものでした。武士の土地の争いについての裁判の基準などが示されています。守護・地頭などの職権も定められました。

基本的には地頭御家人への徳政を意図したもので、効力は武家に限ると強調しましたが、武家に限定されない規定もあり独自の政権としての法令になっていました。

ただし、対象となったのは、幕府の勢力範囲に限られ、朝廷や荘園領主の支配下では公家法や荘園の法が効力を持っていました。

また、古代の律令とは異なり法を網羅的に規定するものではなく、極めて重要な法理についての応用や例外を規定されているように見受けられます。法理そのものの規定はどこにもないものでした。

御成敗式目は一定の体系性を備えていましたが、新しい法が規定されたわけではなく、既に存在すると認識されていた法についての最大公約数的理解をまとめたものといえます。

幕府の権力拡大にともない、御成敗式目の効力の範囲は広がっていきます。

北条泰時の政策は5代目の北条時頼に継承され、裁判の公正とともに迅速をはかるため、引付衆がおかれました。

この間、北条氏に敵対する勢力は滅ぼされれていきます。

将軍も藤原将軍から皇族将軍の宗尊親王が迎えられました。

日本史論述問題の過去問

北条時政・北条義時

  • 2019年京大:執権政治の確立過程における北条時政と北条義時が果たした役割が問われました。

承久の乱(武家政権の成立)

  • 2021阪大:承久の乱は、朝廷と鎌倉幕府の関係を大きく変化させる契機となりました。乱後、両者の関係はどのように変化したのかについて問われました。
  • 2019年東大:後鳥羽上皇が隠岐に流される原因となった事件について、その事件がその後の朝廷と幕府の関係に与えた影響にもふれつつ問われました。また、持明院統と大覚寺統の双方から鎌倉に使者が派遣されたのはなぜか。天皇家の系図を参考に、朝廷の側の事情、および事件以後の朝廷と幕府の関係に留意して問われました。
  • 2015年東大:御家人の所領が全国に分布することになったのはなぜか。鎌倉幕府の成立・発展期の具体的なできごとにふれながら問われました。また、こうした所領を御家人たちはどういった方法で経営したか。また、それがその後の御家人の所領にどのような影響を与えたかが問われました。
  • 2008年京大:鎌倉幕府における将軍のあり方の変化とその意味について問われました。
  • 1999年京大:承久の乱から鎌倉幕府の滅亡にいたるまでの間の公武両政権の関係について問われました。
  • 1999年阪大:承久の乱が勃発した原因とその歴史的影響について問われました。

参考文献

テーマ別日本史

  1. 縄文時代と弥生時代
  2. 古墳時代から大和王権の成立まで
  3. 飛鳥時代(大化の改新から壬申の乱)
  4. 飛鳥時代(律令国家の形成と白鳳文化)
  5. 奈良時代(平城京遷都から遣唐使、天平文化)
  6. 平安時代(平安遷都、弘仁・貞観文化)
  7. 平安時代(藤原氏の台頭、承平・天慶の乱、摂関政治、国風文化)
  8. 平安時代(荘園と武士団、院政と平氏政権)
  9. 平安時代末期から鎌倉時代初期(幕府成立前夜)
  10. 鎌倉時代(北条氏の台頭から承久の乱、執権政治確立まで) 本ページ
  11. 鎌倉時代(惣領制の成立)
  12. 鎌倉時代(鎌倉文化)
  13. 鎌倉時代(蒙古襲来)
  14. 鎌倉時代~南北朝時代(鎌倉幕府の滅亡)
  15. 室町時代(室町幕府と勘合貿易)
  16. 室町時代(下剋上の社会)
  17. 室町時代(東山文化)
  18. 室町時代(戦国時代)
  19. 安土桃山時代
  20. 江戸時代(幕府開設時期)
  21. 江戸時代(幕府の安定時代)
  22. 江戸時代(幕藩体制の動揺)
  23. 江戸時代(化政文化)
タイトルとURLをコピーしました