慈覚大師円仁:天台宗山門派の祖で天台宗の密教化に貢献

歴史上の人物
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下野国(栃木県)都賀郡出身

慈覚大師円仁(じかくたいし・えんにん)

延暦13年(794)―貞観6年(864)寂。70才。

平安時代前期の天台宗の僧。

入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人。

下野国(栃木県)都賀郡出身。姓は壬生、円仁は名、諡号は慈覚大師。

生誕地については

  • 壬生寺(現・下都賀郡壬生町大師町)
  • 美加保ノ関(栃木市藤岡町三鴨の都賀字館・佐野市越名)
  • 安蘇山麓手洗窪(安蘇郡下津原、現・栃木市岩舟町下津原)

などの説がある。

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最澄の弟子となる

9才で都賀郡大慈寺の高僧広智の弟子となり、15才の時、天台宗の開祖・最澄の弟子となる。

弘仁4年(813)官試に及第、弘仁5年得度し、弘仁7年東大寺で具足戒を受けた。弘仁8年に最澄の東国巡錫に同行し、師から伝法灌頂と円頓菩薩大戒を受けた。

天長5年(828)以後、法隆寺、天王寺などで講説し、のち比叡山に帰って「法華経」を写して小塔に納め、四種三昧の行法を行った。根本如法堂の濫觴といわれる。

最澄没後、12年間の比叡山籠山を始めたが、山内僧侶からの布教要請を固辞しきれず、天長5年(828)に中途下山し、東北地方ほか各地に布教した。天長10年から身体の不調により横川に籠もった。

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唐へ渡る

承和2年(835) 42歳のとき、天台山に赴き教学の疑問を解決するため短期留学の入唐請益僧に選ばれた。

遣唐使の一員として2年連続で上陸に失敗し、承和5年(838)の3回目の挑戦で遣唐使と共に7月に揚州(江蘇省)海陵県に上陸し、開元寺に入った。遣唐使は藤原常嗣、同行者は円行、常暁らであった。

しかし唐から天台山旅行の許可が下りず帰国を命じられた。翌年、従僧2人、従者1人と共に禁を犯して残留し、新羅商人張宝高を頼って登州赤山法華院に入った。

唐の開成5年(840)五台山への巡礼を行い、蕭慶中から禅を学び、また念仏三昧の法を習い、大華厳寺で志遠や玄鑑から天台宗義を学び、その後長安の資聖寺に入った。

841年大興善寺の元政、青龍寺の義真、玄法寺の法全らから金剛、胎蔵の両界の秘奥、儀軌を学んだ。そのほかにも宝月三蔵から悉曇(梵語学)を、醴泉寺の宗穎から天台を学び、大安国寺の良侃や浄影寺の惟謹からも秘法を受けたといわれる。

入唐後9年余りにわたって天台教学・密教を学ぶ。

武宗(ぶそう)の会昌2年(842)から始まった大規模な仏教弾圧に直面し、道士の身に変えて長安を逃れた。

会昌5年には一時還俗を強いられながらも帰国の途につき、漸く新羅人らの援助をえて商船で承和14年(847)に大宰府に到着した。経典559巻、両部曼荼羅、舎利、法具などを持ち帰った。

帰国し延暦寺三世座主となる

嘉祥2(849)年延暦寺での灌頂を始修し、内供奉十禅師となる。

仁寿4年(854)、延暦寺三世座主に任じられ、天台宗山門派の祖となった。

比叡山に根本道場として総持院・常行三昧堂(じょうぎょうさんまいどう)を建立。

斉衡3年、文徳、清和天皇など1000人以上の人々に灌頂を授け、天皇、貴族に灌頂・授戒をおこなうなど天台密教の振興に尽力。念仏、戒律に新見解を示した。

最澄の業績を発展させ、「顕揚大戒論」の著述、法華懺法の完成、常行三昧堂や法華総持院の建立、金剛頂、蘇悉地両業の制定などを行い、天台宗の密教化に影響を与えた。

円仁は、唐から天台、真言、禅、念仏、悉曇を伝え、589部802巻の典籍を請来したが、帰国後は、舎利会、天台大師供、浄土院廟供、不断念仏会、法華懺法などの仏事をはじめ、また円頓戒を顕揚し、密教の充実を図った。

密教化の過程については次の本が参考になる。

「およそ仏法の東流することは、なかばこれ大師の力なり」といわれるように、円仁は、義真、円澄、光定らに次いで、名実ともに日本天台宗を大成した。

没後、貞観8(866)年に慈覚大師を追諡された。

「入唐求法巡礼行記」「顕楊大戒論」「金剛頂経疏」「蘇悉地羯羅経略疏」など100編を超える。

円仁の伝承のある寺社

全国に円仁の伝承がある。特に関東から東北に多い。

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