盛岡城の訪問録(岩手県盛岡市)南部氏の居城は威風堂々としたたたずまいの城[国の史跡]

盛岡城石垣史跡・遺跡
この記事は約3分で読めます。
盛岡城石垣

この日は天気も良くお散歩日和だった。「白龍(パイロン)」でのじゃじゃ麺を食べて、いい感じでの食後の散歩となった。

スポンサーリンク

城郭

盛岡城は南部氏の居城。本丸、二の丸、三の丸、本丸を囲むように腰曲輪、淡路丸、榊山曲輪がある。本丸には天守台だけがあり、天守は築かれなかったそうだ。幕府への遠慮からだといわれている。

街のど真ん中にあるにもかかわらず、喧騒からはなれた静かな公園。散歩した日は暑かったこともあり、人はほとんどいなかった。春先や秋口などの気持ちいい日には、とてもよい散歩道。国の史跡に指定されている

日本100名城
日本100名城とは財団法人日本城郭協会が2006年に定めた名城の一覧2017年に続日本100名城が発表された日本100名城一覧根室半島チャシ跡群 【北海道根室市】 国の史跡五稜郭 【北海道函館市...

2006年(平成18年)に日本100名城の6番に選定された。

スポンサーリンク

歴史

別名を不来方城(こずかたじょう)という。

天正18年(1590年)南部信直は豊臣秀吉より閉伊郡、岩手郡、鹿角郡、紫波郡、糠部郡の5ヶ郡を安堵された。

天正19年(1591年)南部信直は九戸政実を倒し、三戸城から九戸城(のち「福岡城」。)に本拠を移した。

失っていた平賀郡、鼻和郡、田舎郡の津軽3ヶ郡の代替地として和賀郡、稗貫郡の2ヶ郡が加増された。

これで7ヶ郡10万石の所領となる。

文禄元年(1592年)蒲生氏郷や浅野長政の助言により、不来方の地に本拠を移すことにした。九戸では北辺に過ぎるという助言だった。

慶長3年(1598年)南部信直は嫡男の南部利直に築城を命じ、兵学者の内堀伊豆を普請奉行として築城に着手した。

慶長4年(1599年)南部信直が病没。

慶長5年(1600年)南部利直は関ヶ原の戦いで東軍に属したため徳川家康より所領を安堵された。

慶長年間(~1615年)に総石垣の城としてほぼ完成する。

南部利直が地名を変える。「不来方」から「盛り上がり栄える岡」の意味となる「盛岡」に改めた。

南部利直が三の丸を整地した際に見つかった烏帽子岩(宝大石)は現在も三の丸跡に鎮座し、櫻山神社(旧・淡路丸大明神)の社宝になっている。

歴代藩主

  • 初代 南部信濃守利直(としなお)
  • 2代 南部山城守重直(しげなお)
  • 3代 南部大膳大夫重信(しげのぶ)
  • 4代 南部信濃守行信(ゆきのぶ)
  • 5代 南部備後守信恩(のぶおき)
  • 6代 南部大膳亮利幹(としとも)
  • 7代 南部大膳大夫利視(としみ)
  • 8代 南部大膳大夫利雄(としかつ)
  • 9代 南部大膳大夫利正(としまさ)
  • 10代 南部大膳大夫利敬(としたか)
  • 11代 (1)南部吉次郎利用(としもち)
  • 11代 (2)南部大膳大夫利用(としもち、吉次郎利用が将軍家初見前に死んだため身代わりで襲封した)
  • 12代 南部信濃守利済(としただ)
  • 13代 南部甲斐守利義(としとも)
  • 14代 南部美濃守利剛(としひさ)
  • 15代 南部甲斐守利恭(としゆき)
スポンサーリンク

城内案内

看板

盛岡城標識

腰曲輪の遺跡変遷(案内図)

盛岡城案内図

南部利祥 銅像台座

盛岡城の風景

本丸北東部の発掘調査(案内図)

盛岡城案内図

高台からの風景

盛岡城からの展望
盛岡城の風景

石垣

盛岡城の風景
盛岡城の風景

お堀

盛岡城のお堀

地図

Do NOT follow this link or you will be banned from the site!
タイトルとURLをコピーしました