日本史論述問題の論点(江戸時代)

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※テキトーに振り分けておりますので、間違っているテーマ分類があります。おいおい整えますので、ご了承ください。

江戸時代

政治史

2011年東大:江戸幕府が藩に課した城普請役は、将軍と大名の関係、および大名と家臣の関係に結果としてどのような影響を与えたか、また、城普請は、17世紀の全国的な経済発展に、どのような効果をもたらしたかが問われました。

幕府と朝廷

  • 1994年東大:江戸時代の朝廷に関する研究は近年になって盛んとなり、江戸時代におけるその存在の意義や果たした機能が、さまざまな側面から解明されてきています。江戸時代初期の幕府と朝廷との関係の特徴が問われました。
  • 1992年一橋:1615年に制定された「禁中並公家諸法度」を読んで、ここには徳川幕府の対朝廷政策の特徴がよく表れているといわれますが、豊臣政権と対比して、徳川幕府の対朝廷政策の特徴を問われました。公家の官位制と武家の官位制を区別しましたが、幕府がこのような制度を定めたことの意味を問われました。江戸時代には、どのような場合に年号が改められたか、明治維新にさいして定められた制度と対比して説明が求められました。1629年におこった事件について説明が求められました。

参勤交代制度

  • 2015年阪大:江戸時代における参勤交代制度について、制度の歴史的変遷にも留意しつつ、その具体的内容およびそれが社会に与えた影響について問われました。
  • 1998年東大:幕府が上げ米を発令せざるをえなくなった理由について、問われました。また、参勤交代の緩和策がなぜ重大な変化をもたらすおそれがあると考えられたのかが問われました。
  • 1983年東大:参勤交代制度が設けられた理由を、戦国末期以来の政治や社会の動きを念頭において問われました。なお、参勤交代が、大名の財政に大きな負担となり、その軍事力を低下させる役割を果したこと、一方で、都市や交通が発展する一因となったことは、参勤交代の制度がもたらした結果であって、理由とは考えられない旨の説明がありました。

武家諸法度などの法度

  • 2018年北大:殉死の禁止は、間接的に、下剋上を否定する政策の一環でもありましたが、殉死の禁止が下剋上の否定となる理由が問われました。
  • 2013年東大:江戸幕府は、支配体制の中で大名と天皇にそれぞれどのような役割を求めたと考えられるか、また、1683年に幕府が武家諸法度を改めたのは、武士の置かれた社会状況のどのような変化によると考えられるかが問われました。
  • 2011年京大:江戸時代初期に幕府が出した主要な法度をあげ、その対象と内容について問われました。
  • 2005年東大:江戸時代の支配の仕組みにふれながら、統一基準をもった軍事動員を可能にした制度について問われました。
  • 2004年阪大:江戸時代における幕府の大名統制策について問われました。
  • 1976年東大:武家諸法度のうち、とくに厳しく取締まられた内容が問われました。

2021京大:徳川家綱の時代はどのような時代であったか、政治を中心に他分野の動向もふまえて問われました。

三大改革

享保の改革
  • 2011年阪大:江戸時代、幕政改革の主要課題は財政危機の克服でした。享保改革期から田沼政権期にかけ幕府がとった財政危機打開策のうち、収入増加策について問われました。
  • 1999年一橋:徳川吉宗による享保の改革は経済政策の中核的課題は、米価を中心とする物価対策でしたが、その内容を、当時の物価動向の特徴と関連させて問われました。江戸の都市政策について具体的な内容を問われました。足高の制の内容を説明し、幕府官僚制のあり方に与えた変化について問われました。
  • 1997年京大:享保改革期に江戸幕府が行なった農民政策の転換とその結果について問われました。
田沼時代・寛政の改革
  • 2021阪大:天明の飢饉をうけ、都市と農村は危機に陥ります。寛政の改革において幕府がとった農村復興政策について、寛政の改革における都市政策に留意しながら述べるよう問われました。
  • 2020年京大:田沼意次の財政政策について、享保の改革との違いに着目しながら、基本方針と具体的政策について問われました。
  • 2008年東大:松平定信は当時の農業や食糧について、どのような問題があると認識していたか、その問題に対処するため、定信が主導した幕政改革では、具体的にどのような政策がとられたかが問われました。
  • 2003年阪大:一八世紀後半における都市および農村の変化に留意しつつ、寛政改革の都市・農村政策について問われました。
  • 2000年一橋:本居宣長の学問・思想の特質が問われました。一揆は中世にはより広いかたちで存在していました。中世の一揆と近世のそれとはどう関連しているのか、中世と近世の一揆の異同と両者の関連を説明が求められました。松平定信が行った農政について、その内容を問われました。
  • 1997年東大:米沢藩のある医師は、1768(明和5)年に、早くも「そろりそろりと天下のゆるゝ兆し」と警告していましたが、1787(天明7)年に、松平定信は「政務の取り計らい違いといいながら、上を見透かしぬいたること前代未聞なり、世の衰えこの上あるべからず、誠に戦国より危うき時節と世は覚えたり」と語ったといわれています。さらに杉田玄白は、1807(文化4)年ころに、「この時節、世まさに乱の萌し見えたる様なり」と書いています。松平定信や杉田玄白は、なぜそのように考えたのかを、当時の国内および対外情勢から、その理由を問われました。
  • 1997年一橋:石川島の人足寄場について問われました。関東取締出役は、どのような人びとをどのようにして取り締まろうとする制度だったか問われました。間信仰・民俗信仰について、講、開帳、巡礼の3語を用いながら、その宗教活動の具体的な様相を問われました。
  • 1991年京大:18世紀の幕藩体制にはさまざまな矛盾が生じたため、幕府政治はそれらへの対応を迫られましたが、田沼意次の政治と松平定信の政治について、それぞれの政治が課題とした点に留意しつつ、その政治の特徴を問われました。
天保の改革
  • 2020年阪大:天保改革の背景の一つに対外的危機がありました。当時の幕府が抱いていた対外的危機の内容と天保の改革の中で打ち出された危機打開策について問われました。

藩政改革

  • 1991年東大:近世中期、18世紀半ばから19世紀初めにかけての藩政改革の特色は、藩が木綿・塩・紙などの特産物の生産を奨励し、独占的に購入して他ヘ販売する専売制度の実施でした。藩は専売制度によって領内の生産や流通に対する統制を徹底し、窮乏した財政を建て直して藩権力を強化しましたが、これを藩経済の自立ということは困難です。それはなぜかを、幕藩体制の下での都市や商品流通のあり方を視野に入れて、問われました。

末期養子

  • 2019年阪大:慶安4(1651)年、幕府は末期養子の禁を緩めました。末期養子の禁の内容と、この緩和措置がなされた政治的・社会的背景について問われました。
  • 1976年東大:末期養子が許されていなかった理由が問われました。

鎖国

  • 2016年東大:徳川家康が大船禁止令を出した理由と、幕末には、大船禁止令の理解のしかたが当初と比べ、どのように変化しているかが問われました。
  • 2010年阪大:一八世紀後半以降、ロシアの南下もその一つですが、欧米列強が日本に接近をはかるようになります。寛政期から異国船打払令(一八二五年)までの時期におけるロシアの日本接近と、それに対する幕府の政策について問われました。
  • 2001年京大:近世の琉球について日本との関係に留意しつつ知るところを問われました。
  • 1990年東大:鎖国下の対外関係を、1804(文化元)年にロシアの使節レザノフは長崎に来航して通商を求めて幕府がこれを拒絶した際の申し渡しを参考に問われました。

幕末

  • 2018年京大:一橋慶喜が1862(文久2)年に将軍後見職に就任し政治の中心に登場したのは薩摩藩の推挙によるものでした。しかし1866(慶応2)年に徳川家を相続し、将軍となった慶喜を薩摩藩は敵視します。これは薩摩藩の政治方針のどのような変化によるものか、1863(文久3)年から慶喜将軍就任までの薩摩藩の動きについて問われました。
  • 2014年東大:長州征討に際し、どのような人々が、どのように動員されたのか、また、再度の長州征討に際し、多くの藩が出兵に消極的となった理由としてどのようなことが考えられるかが問われました。
  • 2008年阪大:実際に起こった事件にも触れながら、幕藩制成立期における幕府と朝廷との関係について問われました。
  • 1992年一橋:井伊掃部頭が殺され、老中の安藤対馬守が浪人に疵を付けられた事件名をあげ、幕府と朝廷の関係がどう変化していったかが問われました。福沢は「文久三年発亥の歳は一番喧しい歳」であったと記していますが、このように攘夷が激しくなったのは、何故かが問われました。開港後、洋学を摂取するため、幕府はどのような組織をつくったか、また、その組織に関係した代表的な洋学者二人の名をあげ、明治初年の活動と関連させて、その学問・思想の特徴が問われました。全体として、幕末における尊王攘夷運動は、明治維新にとって、どのような意義を持ったかが問われました。

幕末対外政策

  • 2018年東大:異国船打払いを命じる法令を出したにもかかわらず、沿岸防備を強化しなかった幕府の姿勢は、異国船に対するどのような認識にもとづいたものか。また、異国船打払令と別のの法令も出されたことから、幕府の政策にはどのような意図があったと考えられるかが問われました。
  • 2013年阪大:幕末の開港は日本の政治・経済・社会・文化などに多大な影響をもたらしました。幕府の政策にもふれながら、流通構造や物価に対する影響について問われました。
  • 2009年東大:1639年にポルトガル船の来航を禁止した時期、1685年に長崎での毎年の貿易総額を定め、1715年には、銅の輸出量にも上限を設けた時期とでは、中国との貿易品にどのような変化があったかが問われました。江戸時代の中国からの文化の流入には、どのような特徴があるか問われました。
  • 2000年東大:幕末の開港後、国内の情勢は急速に不穏さを増していきました。文久3年(1863)末、幕府は使節団をヨーロッパに派遣して、これに対応しようとました。幕府使節のフランスへの要求は何か、幕府がこのような使節を派遣するにいたった背景は何か、幕府使節はなぜ交渉を断念したのかが問われました。
  • 1991年一橋:1858(安政5)年に徳川幕府が諸外国と通商条約を締結して以来、一連の通商条約が不平等条約といわれる理由を3点問われました。また、1866(慶応2)年に幕府が再度、イギリス、フランス、アメリカ、オランダと締結した条約の名称と内容を問われました。井上馨が条約改正交渉を行っていた最中に起こった対外的事件の名称と内容、また、当時、自由民権派は井上条約案の屈辱的内容と極端な欧化政策に反対して、民権派最後の運動を盛り上げましたが、「民権派最後の運動」とは何か、具体例2つ問われ、またそれに対する政府の対応が問われました。青木周蔵外相も、対外的事件が原因で辞職を余儀なくされ、改正交渉は挫折しましたが、その対外的事件とは何かが問われました。日清戦争直前と日露戦争後の二つの条約改正の内容を具体的に問われました。
  • 1989年一橋:文政・天保期(1818~1844)の幕府の対外方針を示す法令を2つあげて幕府の対外政策は、情勢に左右されて、強硬になったり柔軟になったりした理由が問われました。「2つの勢力」について説明し、それとの関連で井伊直弼がどのような方針をとったかが問われました。「攘夷」と、それを直接の原因として生じた事件について説明し、これらの事実が対外観に与えた影響も問われました。第2次の長州藩征討が行われた年は、民衆運動がもっとも激化した年にあたりますが、その原因にも言及しながら、「民衆運動」について問われました。
  • 1988年東大:1853(嘉永6)年から1899(明治32)年に至る日米関係の変遷(日米和親条約(1854年)、日米修好通商条約(1858年)、改税約書(1866年)、日米通商航海条約(1894年))が問われました。
  • 1981年一橋:修好通商条約が不平等条約だといわれるのはなぜか。1866(慶応2)年の条約もふくめて、具体的に問われました。物価騰貴は人々の生活を圧迫し、1866(慶応2)年には各地で大規模な民衆運動が発生しました。この運動の直接の原因となった政治情勢とあわせて、どのような民衆運動が発生したかが問われました。明治初年に政府がとりわけ力を注いだ官営工業についても問われました。政商としてもっとも著名な事例を一つ選び、その発展を明治政府との関係に留意して問われました。

経済史

2004年東大:18世紀中ごろまでには、蝦夷地は幕藩体制にとってなくてはならない地域になっていました。生産や流通、および長崎貿易との関係を中心に、どのような意味においてだったかが問われました。

貨幣政策

  • 2021年東大:徳川綱吉期における富士山噴火の復興事業に関して、幕府が採った対応の背景となった17世紀後半以降の幕府財政上の問題について、また、被災地の救済にあたって幕府はどのような方針をとり、それにはどのような問題があったかが問われました。
  • 2013年京大:18世紀半ば以降の江戸幕府が直面した財政難の構造的要因と、財源確保のために採用した政策について問われました。
  • 2006年京大:徳川綱吉のいわゆる元禄時代から、田沼意次が失脚した天明年間にいたるまでの江戸幕府の貨幣政策について問われました。
  • 1997年阪大:幕末に金貨が大量に国外に流出した原因が問われました。

三都の意義

  • 2017年京大:17世紀後半ごろから三都の商工業者は仲間を結成しましたが、地方市場や物価の問題に留意しながら、田沼時代から幕末までの三都における幕府の仲間政策について問われました。
  • 1999年阪大:江戸・大坂・京都は近世において特別の地位を与えられましたが、この三都が幕藩体制全体のなかでもった政治的経済的位置について問われました。
  • 1980年東大:江戸時代から明治前期にかけて、大坂(大阪)への米と綿花の年間入荷量の変化が、どのような原因によって生じたと考えられるかが問われました。
  • 1977年東大:江戸時代の後期に、産業が発達し商品流通が活発になったにもかかわらず、大坂の商業機能が衰えた事情が問われました。

印旛沼の干拓

  • 1981年東大:天保年間の印旛沼の干拓事業に水運路開発が目的に加えられた理由を国際的・国内的条件から問われました。

流通・商品経済

  • 2019年東大:江戸幕府が17世紀後半〜18世紀における輸入代替化政策をとった背景や意図として、貿易との関連では、どのようなことが考えられるか、また、そうした政策をとった背景として、国内の消費生活において、どのような動きがあったと考えられるかを、それぞれの産物の用途に留意して問われました。
  • 2015年東大:江戸幕府は、1724年以降、主要な商品について、大坂の町人が江戸へ送った量を調査しました。大量に送られた商品とそうでない商品との差が明瞭です。繰綿・木綿・油・醤油・酒の5品目が大量に送られているのは、どのような事情によるかが問われました。炭・薪・魚油・味噌の4品目は、とるに足らない量で、米も江戸の人口に見あった量は送られていませんが、それはなぜか。炭など4品目と米とを区別して問われました。
  • 2010年東大:17世紀前半の出羽国の院内銀山について、鉱山町の住民のうち、山師と精錬を行う職人の出身地にそれぞれ上記のような特徴がみられたのはなぜか、秋田藩にとって、鉱山町のような人口の多い都市を領内にもつことはどのような利点があったかが問われました。
  • 1995年東大:近世の大坂は、全国最大の米の集散地でした。とりわけ17世紀の間には、諸国からの廻米量が急速に増加しました。17世紀末、堂島に設けられた米市場は、18世紀前半になると幕府によって公認され、蔵米を中心とする数千石、数万石単位の米が日常的に取引きされて、連日大変な活況を呈しました。幕藩体制のしくみや生産面・流通面で生じた変化について触れながら、近世前期から中期にかけてのこの時期、米の商品化がこのように進展したのはなぜかが問われました。
  • 1995年京大:時期と地域に留意しつつ、江戸時代の農村における手工業の発達について問われました。
  • 1984年東大:18世紀以降,西陣や桐生での絹織物生産が飛躍的に発展した理由と、1860年頃から西陣や桐生での絹織物の生産額が急激に減少した理由が問われました。

社会史

石高制

  • 2019年京大:近世の石高制の成立過程、および石高制に基づく大名統制と百姓支配について問われました。
  • 2014年阪大:豊臣政権期およびそのあとに続く徳川政権期の社会は石高制に基礎をおきました。石高制の成立を決定づけた全国事業の具体的内容、および石高制が領主の農民支配や将軍の大名・旗本支配において果たした機能について問われました。
  • 1996年一橋:律令制的租税・労役制度の特徴を、賦課の対象と内容に留意して問われました。荘園制下の収取の特徴を、律令制的租税・労役制度の変質過程を踏まえて問われました。収取制度としての貫高制・石高制の新しさは何か。そこでの大名・家臣・農民の三者の関係に留意して問われました。

身分制度

  • 1999年東大:江戸時代の有力な商人の家における相続は、武士の家とくらべてどのような特徴をもったかが問われました。
  • 1997年阪大:近世の身分制がどのようにして形成され崩壊したか、またその特徴がどのようなものだったかが問われました。
  • 1993年東大:小西来山は職業的な俳人であったが、知らないはずのない奉行の名を「おぼえず」とする俳句「お奉行の名さへおぼえずとし暮れぬ」は、幕府の権威に対してどのような姿勢を表明していると考えられるかが問われました。

村役人

  • 1985年東大:近世の豪農の農村内における役割に留意しながら、豪農が学問を必要とした理由を問われました。

農村・農業政策

  • 2018年阪大:寛永20(1643)年、幕府は田畑永代売買禁止令を発しました。この禁止令の内容が問われました。また、この禁止令下における農村の土地移動の実態について、農村社会の変化も視野に入れて問われました。
  • 2017年東大:17世紀後半頃には、農村においても夫婦とその親・子世代を中心とする「家」が広く成立し、家業と財産を代々継承することが重視されるようになります。当主は家を代表して年貢や諸役をつとめ、村の運営に参加しました。村では家の相続者はどのように決められていたか、村と家において女性はどのように位置づけられていたかが問われました。
  • 2012年東大:江戸時代半ば以降、村ごとに休日を定めたのはなぜかを、村の性格や百姓・若者組のあり方に即して問われました。また、幕府や藩は、18世紀末になると、村人の「遊び」をより厳しく規制しようとしました。それは、なにを危惧したのかを。農村社会の変化を念頭において問われました。
  • 2007年阪大:村の役割に留意しながら、幕藩制下における領主の百姓支配について問われました。
  • 2004年京大:18世紀以降、江戸幕府における農村・農民政策の展開について問われました。
  • 1994年一橋:江戸時代の農民統制のための基本法令として、1643(寛永20)年の田畑永代売買の禁令と、1673(延宝元)年の分地制限令があげられます。分地制限令は、なぜ1673年という時期に出されたのかが問われました。また、田畑永代売買の禁令以降の近世における土地移動について、享保の改革時に出された幕府の法令と、それに対する農民の対応を問われました。近世には農業技術の面でも、その時代の農民経営にふさわしい技術発展がみられましたた。このことを、田畑を耕す農具(耕作具)を例に、中世の技術発展と比較して問われました。
  • 1989年東大:農書の流布・普及(宮崎安貞「農業全書」(1697年)大蔵永常「農具便利論」(1822年)「広益国産考」(1844年))により、江戸時代の農村社会では、どのようなことが起きていたが問われました。
  • 1989年京大:18世紀半ばから19世紀半ばまでの日本農村における停滞と発展について、それぞれ2つずつ事実をあげ、社会経済的な視角からの解説が問われました。
  • 1987年東大:江戸幕府法令(寛永20年3月の代官に対する法令と慶安の御蝕書)を読み、その農民政策の基調と農民観について問われました。
  • 1987年一橋:大平与平衛が天保10年(1839)に書いた、越後国長岡藩の農家の年中行事の記録「農家年中行事記」の一部を読んで、「名」の起源について、「袴」はどのような服装であったか、年貢の取り立て制度について問われました。
  • 1986年一橋:証文は、17世紀半ばには、全国各地でひろく見られました。「かな混り候文」の文体の基礎となっている「かな文字」の成立とその歴史的意義について述べ、さらにそのような文化現象は、東アジアにおいても、わが国だけのものではなかったことが問われました。証文を書いた農民の多くは小百姓(小経営農民、小農民)です。小百姓は、荘園制の時代を通じて、その社会的地位をたかめてきたと言われます。その成長を基礎づけた生産力の発展のあり方について問われました。証文は、幕府がとった重要な土地政策に違反しています。その政策とは何かを記し、またその政策がとられるに至った直接の契機について問われました。
  • 1984年一橋:江戸時代において、「西域物語」の著者名とその主張が問われました。年貢徴収の制度上の転換について、また、その転換を可能にした農業生産の発展について問われました。上げ米制とは何か、また、それが「幕府財政のあり方を変更する」ものであるのはなぜかが問われました。
  • 1980年一橋:問屋制家内工業が発達し、その中から、一部にマニュファクチュア経営も現われましたが、綿織物業および製糸・絹織物業について、また、綿織物業および製糸・絹織物業について独自のしかたでの発展を遂げますが、それぞれ史実をあげながら、具体的に問われました。

一揆

  • 2005年阪大:天草・島原の乱(島原の乱、島原・天草一揆)の歴史的意義について問われました。
  • 2001年一橋:19世紀の農村社会は大きく変貌しており、それにともなって農民の多様な運動が展開しました。畿内では、1000か村を越す村々が結集して、幕府に対して要求の実現を求めましたが、その運動の名称と、この運動の中心的な要求内容、この運動に1000か村以上に及ぶ多数の村々が結集しえた理由が問われました。世直し一揆と従来の百姓一揆との相違点を二つ問われました。二宮尊徳が行った仕法の具体的内容を二つ問われました。
  • 1982年東大:中世の一揆と近世の一揆の変化の理由が問われました。中世では各階層にそれぞれ目的に応じて国人一揆、土一揆、徳政一揆、一向一揆などが存在しましたが、近世ではいわゆる百姓一揆のみが唯一の一揆だったことの理由が問われました。
参考文献

教科書の範囲を逸脱しますが、天草・島原の乱については、下記の本が参考になります。

五常の道

  • 1986年東大:式亭三馬が「浮世風呂」で銭湯(公衆浴場)こそ、五常の道が守られる場であると書きましたが、これは厳しい身分制度のもとにあったもので、当時の社会的状況のなかで、どのような意味を持つと考えられるかが問われました。

文化史

  • 2020年東大:江戸時代に暦を改めるに際して、幕府と朝廷はそれぞれどのような役割を果たしたか。また、江戸時代に暦を改める際に依拠した知識は、どのように推移したかを、幕府の学問に対する政策とその影響に留意して問われました。
  • 2003年東大:17世紀後半になると、なぜ歴史書の編纂がさかんになったのか、また、山鹿素行が1669年の序文がある「中朝事実」で、日本こそが「中華」であると主張しましたが、このような主張がうまれてくる背景は何かを、幕府が作り上げた対外関係の動向を中心に、この時期の東アジア情勢にもふれながら問われました。
  • 1990年一橋:13世紀の慈円「愚管抄」、14世紀の北畠親房「神皇正統記」、18世紀の新井白石「読史余論」のそれぞれの歴史のとらえ方の特徴について、その時代の思潮や政治動向と関わらせて問われました。

教育

  • 2001年東大:1770年代に生まれたある村の知識人が1840年代に村の変化を書き留めた記録から、昔は無筆(読み書きのできない)の者が多かったのが、学ぶことは流行しました。このような変化が生まれた背景を、化政文化の特徴にもふれながら問われました。
  • 1995年一橋:江戸時代における寺子屋の教育について、藩校と対比させて、その内容を問われました。江戸時代の村の生活において識字・計算能力が重要な意味をもっていた理由を、農村支配のあり方との関係で問われました。「民衆用教科書」の実例をあげ、その内容を問われました。中世における農民の識字能力の発達について、具体例をあげて問われました。

蘭学と洋学

  • 2009年京大:江戸幕府の蘭学政策とその政策が蘭学に与えた影響について、享保期以降、開国以前の時期を対象に問われました。
  • 2009年阪大:江戸時代の日本では蘭学が発展し幕府政治にもさまざまな影響を与えました。開国以前において江戸幕府は蘭学に対してどのような態度で臨み、どのような政策をとったのか問われました。
  • 1979年東大:鎖国によりきわめて困難になったヨーロッパの学問・文化の受容が、18世紀にはいってから再開の気運がおこり蘭学が興隆し、幕末には洋学として発展しましたが、両者に見られるほぼ一貫した特色を問われました。

思想・国学

  • 2016年阪大:近世日本の儒学界では17世紀後半より18世紀初期にかけて朱子学に対する根本的な批判がなされるようになりましたが、この儒学刷新の動向について問われました。
  • 2007年東大:研究の方法に共通する特徴にふれながら、18世紀後半に学問はどのような発展をとげたかが問われました。
  • 2006年阪大:近世における国学思想の展開およびその明治維新への影響について問われました。
  • 1985年一橋:室町時代には禅宗の寺院で学ぼれていた儒学は16世紀末に寺院から独立し、林家のように幕府に登用される者や、17世紀の藩政に大きな影響力をもつた者も現われました。また、朱子学に批判的な学派や、幕府政治の改革に発言したり従事したりする学者も出現しました。こうした儒学の展開を、17世紀初頭から1720年代までを念頭において問われました。それぞれの学派・学者の学風の特色、幕政および藩政とのかかわりに留意して、学問と思想の発展の流れが理解しやすいように回答することが求められました。
  • 1984年東大:新井白石の「読史余論」における時代区分の特色が問われました。

出版

  • 1992年東大:幕末・明治前期において、民衆が情報を得るメディアがどのように展開してきたかが問われました。参照語句は、瓦版、新聞紙条例、電信、別段風説書、横浜毎日新聞でした。
  • 1992年東大:文化・文政期(1804年~1829年)に出版物は、蔦屋のような板元から、小売や貸本屋の手を経て無数の人々の手に届けられ、数多くの作家や絵師が人気を博しました。出版が盛んになった原因は何かが問われました。

御蔭参り

  • 1996年東大:1830年3月ごろ阿波地方から始まった御蔭参りは、御札が降ったという噂とともにまたたく間に各地にひろがりました。参加した人々の階層や行動様式の特徴にふれながら、このような熱狂的な御蔭参りはなぜ発生したのかが問われました。

宗教史

  • 2015年京大:1610年代から1640年代にかけての幕府のキリシタン政策は、対外政策と連動していたことに特色がありますが、その変遷を問われました。
  • 2012年阪大:江戸時代、幕府はキリスト教に対してどのような姿勢で臨んだのか、17世紀におけるキリスト教政策の展開について問われました。
  • 2002年阪大:中世の寺社勢力は政治・軍事・経済・文化の多方面にわたって大きな力を持ちましたが、織豊政権の軍事力のもとに屈伏させられました。こうした状況をうけて、江戸幕府はどのような寺社政策を実施したのかが問われました。
  • 1994年京大:江戸幕府がとった宗教統制策の目的と施策について問われました。

教科書の内容の理解を深める本

高校の日本史教科書を書き改めた一冊です。

山川出版社「詳説日本史」に準拠した最も詳しい一冊です。

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