磯田道史の「殿様の通信簿」を読んだ感想(面白い!)

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学者としては珍しいが、とても読みやすい文章を書く。だから、扱っている題材は地味なはずなのに、とても楽しく読める。これは幾度となく推敲を重ねた結果だろうと思う。こうした学者が増えることを期待したい。

さて、本書は戦国末期から元禄期の人物を取り上げている。

戦国末期が前田利家、前田利常、内藤家長、本多作左衛門である。他の人物が元禄期までとなる。

また、題名の通信簿であるが、本当に殿様の通信簿というべきものがあるのだという。「土芥寇讎記(どかいこうしゅうき)」。元禄期に書かれた書物で、一般には知られていないそうだ。

「土芥寇讎」とは「孟子」に書かれている「君の臣をみること、土芥のごとければ、すなわち、臣の君を見ること寇讎のごとし」から来ている。

最初に取り上げられている徳川光圀であるが、一般的には水戸黄門で知られる。この黄門とは中納言の別称である。つまり、中納言であれば黄門さまなのであり、他にも多くの黄門さまがいた。

光圀は形而上の観念世界に没入する性質をもっていたらしく、次男である(本当は三男らしい)自分が家を継ぐのではなく、兄が正統を継ぐべきだとして兄の子に継がせようと実行している。

だが、「悪所に通って」いたという。この場合の悪所とは遊郭に通って、遊女を買って、酒宴に興じているというわけである。

江戸時代の倫理感覚では、能を除くあらゆる芸能は「悪」であった。だから、芝居小屋とかも「悪所」である。

好奇心の強かった光圀は学問・芸能はもとより名高い人物に会わないと気のすまない性質であった。

とはいえ、身分がある。会う場所が難しのだ。会うとしたら茶室か、遊郭くらいしかなかった。ちなみに、江戸初期の遊郭は文化サロンの一つであった。

「忠臣蔵」で有名となった浅野内匠頭。生きている間は全くの無名であった。これも「通信簿」には載っている。

そこには「利発」であるが、異常な女好きと書かれている。政治問題になるくらいのものだったそうだ。昼間も「奥」に引きこもって出てこず、女といちゃついてる。

これを諌めない大石内蔵助などは不忠の臣と名指しで批判されている。

「通信簿」に近いものがもう一冊あるという。「諌懲後正」という。

先ほどのは二十四歳のころの浅野内匠頭であったが、ここでは三十路に入った浅野内匠頭が描かれている。

そこでは視野の狭い短慮な人物として登場する。厳格にすぎ、律儀一途な男になっている。政治には仁愛の気味がなく、民衆に厳しく、武道と軍学に凝っているという。

曹源公こと池田綱政は筆者の郷里・岡山の二代藩主である。

「生まれつき馬鹿」と書かれた珍しい殿さまであるそうな。「土芥寇讎」が描かれた当時、「日本一の馬鹿殿様」だったようだ。

だが、これは父・池田光政が名君とされているため、その対比が誇張された部分があるのだろう。

だが、「馬鹿殿様」と書かれている割には、相当の量の著作を残しているそうだ。同じく馬鹿と言われている第九十二代内閣総理大臣に比べると、雲泥の差があるのは言うまでもない。

前田利家と利常親子。利家は省略して、利常。

利常の母は身分が低すぎて、利家の胤とはいえ、前田家に迎え入れられなかった。

前田の家は利家が死に、兄の利長が家を継いだ。利長は凡庸な男であったが、ずば抜けて優れていたのが、その「目鑑」であった。人物眼が優れていたといのだ。

日本人はこの「査定」が苦手である。これに優れていたことが前田家を生きながらえさせることができた要因である。

この利長が利常を高く評価したのである。

徳川家とのパワーバランスの中で利長が隠居させられ、十三歳の利常が家督を継ぐ。

この利常は秀忠、家光、家綱と「世襲将軍政権」の中できわどい外交ゲームを展開していくことになる。

この前田家には、一つの有名な怪談が伝わっているそうだ。

利常の孫で天下の名君と言われた五代藩主の前田綱紀は、便所であやかしをみたらしい。「かわ姥」という。しかも死霊の正体を知っていた。それは利常の正室・珠姫(天徳院)の乳母の局だという。

延岡に内藤という譜代大名がいた。延岡城は捨て城である。大乱が起きればまず死ぬということである。だからこそ、ここは絶対に幕府を裏切らない大名である必要があった。そして内藤家はそうした家だった。

それは初代の内藤家長にさかのぼる。弓の名人で、伏見城の戦いで有名となった。

伏見城は関ヶ原の戦いの前哨戦で、見殺しにされた城である。そしてここに配置されたのはそれを承知で居残った者たちであった。鳥居元忠、松平家忠、内藤近正、内藤家長である。

伏見城に課せられたのは、時間稼ぎと家長は考えたが、元忠は三河武士の意気を示す伝説作りの場と考えていた。その考えの違いは死に方にも表れている。家長は自分の死が分からないようにして死んでいったのである。

本多作左衛門。筆者は中世と近世の矛盾が詰まっている人物としてとらえている。

「鬼作左」で知られる。作左衛門がいきなり刀を抜いて人を斬り殺したなどという話はいくらでもある。また、三河一国の仕置を天野三郎兵衛、高力清長と三人で行っていた時、「なになにすると、さくざが、きるぞ」という高札を出したりした。

だが、この作左衛門の忠義は群を抜いている。それを皆は知っている。

この作左衛門が徳川家康の命に反して煎人釜を壊した。作左衛門は、釜で煎り殺すような罪人が出るようでは、天下国家がおさめられないと捨て台詞を吐いた。

この当時の家康は三河、遠江、駿河、甲斐、信濃を得て、ようやく海道一の弓取りになったところである。

本書について

磯田道史
殿様の通信簿
新潮文庫 約二八〇頁
解説書

目次

はじめに
徳川光圀―ひそかに悪所に通い、酒宴遊興甚だし
浅野内匠頭と大石内蔵助―長矩、女色を好むこと切なり
池田綱政―曹源公の子、七十人おわせし
前田利家―信長、利家をお犬と申候
前田利常其之壱―家康曰く、其方、何としても殺さん
前田利常其之弐―百万石に毒を飼うべきや
前田利常其之参―小便こらえ難く候
内藤家長―猛火のうちに飛び入りて焚死す
本多作左衛門―作左衛門砕き候と申されよ

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