テーマ:平安時代(荘園と武士団、院政と平氏政権)

この記事は約11分で読めます。

荘園と武士団

醍醐天皇は藤原時平を重用し、延喜2(902)年に延喜の荘園令を出しました。

法に背く荘園の停止を命じ、班田の励行をはかり、律郎の再建を目指しましたが、もはや律令制度では財政を維持することが不可能な状態でした。延喜の荘園令は律令制復活最後の試みとなりました。

律令の土地制度が崩れ、地方の農村では豪族や有力農民の動きが活発になり、周辺農民を支配下に入れて墾田の開発を進めます。

富豪の輩と呼ばれるものたちですが、富豪の輩は郡司一族や土着国司などが墾田開発、田地経営などを通じて富を集積しました。

朝廷が方針を変え、国司に一定の税の納入を負わせる国司請負の方針をとります。これにより国司の果たす役割は大きくなり、国衙の役割も重要になりますが、郡家の役割は衰えていきます。

国司は一定の期間に限って田地の耕作を請け負わせて租税を徴収するようになります。

富豪の輩は経営者の側面から「田刀」「田堵」と呼ばれ、田地は名または名田と呼ばれました。国司と結びついて大規模な経営を行った田堵を大名田堵とよび、こうした大名田堵が多く現れます。

大名田堵は10から11世紀にかけて開発領主と呼ばれて一定地域を支配します。これにより国司は開発領主を郡司や郷司に任じて徴税を請け負わせます。

有力農民経営する名と呼ばれる土地を基礎に課税する支配体制を、律令国家と区別して王朝国家と呼ぶことがあります。

開発領主は国司や他の領主の干渉を退けるため、中央の有力な寺社や貴族に寄進して荘園とします。

寄進を受けた荘園の領主を領家呼びます。さらに上の大貴族たちに重ねて寄進された場合、上級領主を本家と呼びました。領家・本家のうち実質的な支配権を持つものを本所といいます。

寄進した開発領主は下司や公文などの荘官になり領地の支配権を強めます。

こうした荘園は寄進地系荘園と呼ばれ、11世紀半ば以降各地で生まれていき、12世紀には一般的にみられるようになります。

また、土地を守るにあたり富豪の輩は武力を利用するようになり、蓄財によって任地に土着した人々も武力を利用し「兵(つわもの)」が生まれてきます。

不輸の権と不入の権

  • 不輸の権:荘園領主の権威によって、租税を免除されること
  • 不入の権:田租税などの徴収のため耕地の面積を調査する検田使など国司の使者が立ち入らないこと

有力寺社や貴族の荘園は太政官符や民部省符によって租税の免除を認められる不輸の権を得て官省符荘と呼びました。

平安時代中期になると国司が不輸の権を認める荘園が生まれ、国免荘と呼びました。さらに不入の権を得る荘園が現れます。

国司は荘園整理令によって、荘園の停止や特権の審査を行います。しかし荘園の整理は容易でなく、国司と荘園領主が対立します。

国司の任期の初めは荘園の整理が行われ、任期の終わりには荘園の認可が下りるという現象が繰り返され、荘園にとっても不安定な状況が続きました。

荘園が定着してくると、国司の長である受領も荘園以外の土地を私領のように経営し始めます。公領(国衙領)と呼びます。

整備された荘園や公領えは、耕地の大部分は名田として有力農民に割り当てられ、有力農民は名主と呼ばれ村落の中心となります。

名主は名田の一部を下人などの隷属農民や作人などの農民に耕作させ、年貢・公事などを荘園領主や受領に納めました。

武士団の成長

荘園や公領を足場に各地の武士団は大きく成長します。

関東では桓武平氏が力を持ち、1028(長元元)年に平忠常の乱が起きます。

平忠常は清和源氏の源頼信に討たれます。清和源氏は摂津国で基礎を固めていましたが、これを機に関東に勢力を伸ばします。

桓武平氏は伊勢国に住み着いていた平氏が、伊勢・伊賀で基盤を築きます。平正盛、平忠盛は荘園寄進を通じて朝廷へ進出し、西国の受領に任じられて、西国で勢力を伸ばします。

前九年の合戦と中世社会の端緒

源頼信の子・頼義と孫・義家は奥州に進出します。永承6(1051)年に前九年の合戦で安倍氏を滅ぼし、後三年の合戦で清原氏を滅ぼします。

その後、義家は関東・奥州の武士団とひろく主従関係を結び、源氏の東国での基盤を作ります。

この合戦を中世の端緒と考えるのは、安倍氏による陸奥の奥六郡の「管領の司」の支配が武家政権に繋がっているからです。

「司」は諸国の郡司とは異なり、辺境の支配のために豪族に管理権を与えたものでした。

奥六郡の「管領の司」を継承したのが平泉の藤原氏で、その地位は源頼朝に継承されました。

源頼朝は東海道惣官と語っていますが、寿永2(1183)年に宣旨によって東国一帯の支配権を朝廷から獲得したことから称したものでした。

この表現は平氏が畿内近国に置いた惣官を踏まえたものでした。

郡司と異なる軍事指揮官としての惣官は、安倍氏の「司」まで遡ることができます。

もう一つ、安倍氏方にあった藤原経清が白符を用いて官物の徴収にあたったことも、武家政権に繋がっています。

国府からは朱印の押された赤符が出されましたが、白符は印が押されていない文書です。

白符の発展形が花押の捺された下文です。

源頼朝は下文を幕府形成に際して用いて支配を広げているので、鎌倉幕府の支配の原型といえます。

奥州の状況

後三年の合戦を、朝廷は源義家の私戦とみなし陸奥守を解任しました。

しかし源義家は関東から出征してきた将士に私財から恩賞を与えたため、声望が高まりました。

その義家の家は順調には発展しませんでした。

一方で平氏は平正盛が順調に西国に勢力を広げ、院北面として院のそばで奉仕しました。

前九年と後三年の合戦に加わった兵はその存在を自覚し、子孫は家を形成していきます。

兵から武士へ展開する中で、氏から家への形成が進められていきます。

後三年の合戦後の奥州では義家に協力した奥州藤原氏が三代(藤原清衡、藤原基衡、藤原秀衡)にわたって平泉を中心に栄えました。

京で鳥羽院の宮廷が展開している時期に、奥州平泉では藤原清衡の跡をめぐって二子が合戦し、基衡が跡をつぎます。

基衡は毛越寺を建立しますが、京の王権へ接近が伺えました。京の王権から明らかに独自の動きをとった清衡とは異なり、列島をめぐる新たな情勢に深く関係した動きをするようになります。

毛越寺の呼称も奥州藤原氏勢力が陸奥・出羽を出て関東や北陸に及んでいたことを考えると、「毛」とは毛の国こと上野と下野を指し、「越」は越の国こと越後、越中、越前を意味していたと考えられます。

下野には秀郷流の同族の藤原氏が広がり、越後から北陸道は京と結ぶルートでした。

基衡の王権は清衡が東方の仏国土の支配者を示したのと異なり、京の王権を模して奥州の支配者を示したものでした。

院政と平氏政権

摂関家を外戚としない後三条天皇が即位します。後三条天皇は大江匡房ら学識に優れた人材を登用し、国政の改革に取り組みました。

後三条天皇は1069(延久元)年に荘園整理令を出し、記録荘園券契所(記録所)をおいて不法な荘園を禁止しようとしました。延久4年に宣旨枡や估価法を制定しました。

整理令が国司任せではなく、国司と荘園領主にそれぞれ書類を出させて、政府が直接審査しました。摂関家領まで審査の範囲を広げ、大きな影響力を与えました。これにより多くの荘園が撤廃されました。

しかし裏を返せば太政官符によって荘園が認められることを意味し、安定した支配が可能となるため、荘園制はむしろ定着しました。

国司(受領)も荘園以外の土地を公領としてしっかり把握する体制の構築に向かいます。

こうして荘園公領制が生まれます。

白河院政

次の白河天皇も自ら政治を行い、荘園整理も引き継ぎます。

1086(応徳3)年、幼い堀川天皇に位を譲ると、上皇として御所に院庁を開き、院政の道を開きます。

父権を行使して自分の系統に皇位を伝えようとはじめた政治形態です。家長権を掌握してゆくなかで成立した政治形態とも言えます。このもとで天皇家の荘園や公領が集積され、継承されていきます。

上皇は摂関家に抑えられていた中・下級貴族や上皇に乳母の近親者などを院近臣や院司にして政治的基盤を整えます。

白河院は源氏や平氏の武士を北面の武士や検非違使に任じて軍事的基盤にします。武力によって対抗勢力を押さえつけました。

行政の面でも特定の家が官司を実質的に経営するようになります。そうして子弟をいくつもの国の守に任じ、経済的に院に奉仕する院近臣が現れるようになります。

天仁2(1109)年の白河院側近の知行国を見ると、主要な国々は院の関係者の知行国になっています。

受領や知行国主は諸国を経営するために目代を派遣しました。

受領が任国に下る必要がなくなると、始めと終わりだけに国内の神社への参拝のためだけに下るようになります。

国内の有力な神社を一宮、二宮以下の格式を与えて組織し、国府近くに国内諸社の神を勧請した惣社を参拝して京へ帰りました。

これにより律令国家によって保護されてきた式内社や国分寺・国分尼寺が衰退します。

受領が下らなくなったことにより、在庁官人は国衙の機構を利用して勢力を広げます。

上皇の地位は天皇の任命によるものではないため、法と慣例にとらわれない専制的政治が行われました。

上皇の意思を示す院宣や、院庁から出される院庁下文が強い力を持つようになります。

この院政時代は白河上皇、鳥羽上皇、後白河上皇をふくめ、ほぼ1世紀続きました。

3上皇に共通するのは仏教を厚く信仰したことです。出家して法皇となり、紀伊の熊野詣、高野詣を行い、法勝寺を含む六勝寺などの寺院を建立します。

寺院や院の御所・離宮の建築費用のため、一国を皇族や特定の貴族に委ねる知行国制が広まります。

一国の支配権を与えられた知行国主は、子弟や近親者を国守にして経済的収益を握ります。こうして多くの知行国をもつ貴族や皇族が現れるようになります。

荘園も専制的な権力を握る上皇のもとに集まりました。

院の権力をおびやかしたのは上皇の仏教の厚い信仰を得て勢力を築いた大寺院です。

下級の僧侶や荘園の武士を僧兵として組織し、国司と争い、神木や神輿を押したてて強訴を繰り返します。南都・北嶺と呼ばれた興福寺と延暦寺の僧兵です。

小説の紹介

後白河法皇を扱った小説。

日本史論述問題の過去問

荘園制

  • 2021一橋:荘園公領制の成立の前提として、公領における開発領主の地位の変化が問われました。
  • 2019年阪大:平安時代になると、日本古代国家の地方支配は受領に大きく委ねられるようになります。10世紀において受領はどのように地方支配をおこなったのか、またその後、受領の地方支配はいかなる変化の過程をたどったのか問われました。
  • 2016年一橋:10世紀に各地方の実情に応じた支配を行う体制へ移行しましたが、体制の変化に伴う、地方支配における郡司の役割や地位の変化について問われました。
  • 2014年京大:9世紀から10世紀には税収入の維持がむずかしくなり、財源確保に様々な方法がとられましたが、10世紀初めの変化に留意しながら9世紀から10世紀の財源確保や有力農民に対する課税の方法の変遷が問われました。
  • 2010年東大:平安末〜鎌倉時代における荘園・公領の年貢がどのような物品で納められていたかを示した表をもとに、畿内・関東・九州の年貢品目には、それぞれどのような地域的特色が認められるか、年貢品目は、鎌倉時代後期に大きく変化しましたが、その変化とはどのようなものであったか、室町時代に大量の商品が発生した理由が問われました。
  • 2010年阪大:平安時代になると律令体制の再編成に向けてさまざまな政策が打ち出されました。嵯峨天皇の時代の官制改革・法的整備について問われました。
  • 2003年阪大:一〇世紀になると、民衆支配や地方行政のあり方が、律令体制の原則から大きく変化しました。「延喜の荘園整理令」「田堵」「国司」の語を使いながら、変化の様相について問われました。
  • 2001年東大:東国と西国では、地頭がもっている荘園支配の権限にどのような違いがあったか、西国では荘園領主と地頭の間にどのような問題が生じたか、荘園ではどのような産業が展開していたかが問われました。
  • 1992年京大:11世紀、13世紀、15世紀の3つの時期における荘園制のありかたが問われました。
  • 1976年東大:8世紀中ごろから11世紀の中ごろにかけて、貴族の経済的な基盤がどのように変化したが問われました。

院政

  • 2012年筑波:鎌倉幕府の成立過程について、「後白河法皇」「藤原泰衡」「壇の浦」「地頭」の語句を用いて回答することが求められました。
  • 2007年阪大:後三条天皇・白河天皇の政治について院政段階も含め、その歴史的意義について問われました。
  • 2007年筑波:平安時代後期における院政のあり方について、「南都・北嶺」「院宣」「平清盛」「熊野参詣」の語句を用いて回答することが求められました。

参考文献

テーマ別日本史

  1. 縄文時代と弥生時代
  2. 古墳時代から大和王権の成立まで
  3. 飛鳥時代(大化の改新から壬申の乱)
  4. 飛鳥時代(律令国家の形成と白鳳文化)
  5. 奈良時代(平城京遷都から遣唐使、天平文化)
  6. 平安時代(平安遷都、弘仁・貞観文化)
  7. 平安時代(藤原氏の台頭、承平・天慶の乱、摂関政治、国風文化)
  8. 平安時代(荘園と武士団、院政と平氏政権) 本ページ
  9. 平安時代末期から鎌倉時代初期(幕府成立前夜)
  10. 鎌倉時代(北条氏の台頭から承久の乱、執権政治確立まで)
  11. 鎌倉時代(惣領制の成立)
  12. 鎌倉時代(鎌倉文化)
  13. 鎌倉時代(蒙古襲来)
  14. 鎌倉時代~南北朝時代(鎌倉幕府の滅亡)
  15. 室町時代(室町幕府と勘合貿易)
  16. 室町時代(下剋上の社会)
  17. 室町時代(東山文化)
  18. 室町時代(戦国時代)
  19. 安土桃山時代
  20. 江戸時代(幕府開設時期)
  21. 江戸時代(幕府の安定時代)
  22. 江戸時代(幕藩体制の動揺)
  23. 江戸時代(化政文化)
タイトルとURLをコピーしました