テーマ:飛鳥時代(大化の改新から壬申の乱)

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蘇我氏の台頭

6世紀ころになると、勢力を伸ばしたのが蘇我氏でした。飛鳥の地に進出し、漢氏(あやうじ)などの帰化人の知識・技術を用いて、財政・生産を担い、仏教を広めました。

二人の娘を欽明天皇の后とし、皇子・皇女を即位させて外戚としての地位を築きますが、二人の系統の間で皇位継承の争いが起きます。

大王の地位は父子の直系とは限らず、兄弟間で継承されることがありました。

587年:大臣の蘇我馬子は物部守屋を滅ぼします。

592年:崇峻天皇を暗殺します。

推古天皇

こうした政情不安定な中、推古天皇が初めて女帝として即位します。皇位継承に難しい問題があるときに、先帝の皇后が天皇としてたてられる、その後の例を開きました。

甥の聖徳太子(厩戸皇子)が摂政となり、蘇我馬子とともに政治にあたります。

飛鳥に宮をかまえましたので、飛鳥時代と呼ばれます。

聖徳太子の政治

603年:冠位十二階の制が定められます。徳・仁・礼・信・義・智の6つをそれぞれ大小にわけて12階にしたものです。

これまでの氏姓制度とはことなり、個人の功労に応じて与えられる制度でした。

豪族を官吏に編成してゆく第1歩となります。しかし、皇族や蘇我氏には適用されず、豪族も畿内に限られたようです。

604年:憲法十七条が制定されました。君・臣・民の関係を示したものです。政治の基本秩序は儒教に求め、心構えとして仏教精神を強調しました。

「天皇記」「国記」などの歴史書が編集され、天皇の称号が用いられるようになります。

遣隋使

隋が589年に中国を統一し、朝鮮半島の百済と新羅が朝貢し始めます。高句麗は従わず、隋は遠征しますが、失敗します。

朝廷は607年に、小野妹子を隋に遣わし、翌年に隋が裴世清(はいせいせい)を来日させます。

裴世清の帰国時に再び小野妹子を遣わし、高向玄理、僧旻、南淵請安ら多くの留学生・学問僧を遣わします。

朝廷は隋と対等の外交形式をとりましたが、562年に加羅をほろぼした新羅に対して優位な立場に立とうとしたことにありました。

大化の改新

618年、唐が誕生します。

律令制度による中央集権体制を完成させ、勢力を朝鮮半島におよぼします。

高句麗、百済、新羅は国内の権力を集中させて改革を進めますが、相互の緊張が高まり、645年、唐が高句麗を攻めると、半島情勢は緊迫します。

この情勢は国内の緊張を高め、蘇我氏は権力を伸ばして、蘇我馬子のあとには蘇我蝦夷が大臣となります。

皇極天皇の時代には蘇我入鹿が、対立していた聖徳太子の子・山背大兄王を攻め、政権の独占を図ります。

これが皇族や他の豪族の強い反発をまねきました。

この頃、留学生が帰国し、唐との律令制度に関する知識を持ち帰ります。

政変

中臣鎌足(藤原鎌足)は律令に基づく統一国家を考え、蘇我入鹿に反発していた中大兄皇子とはかり、645年武力による政変を起こし、蘇我蝦夷・蘇我入鹿を倒します。

すぐに孝謙天皇をたて、中大兄皇子は皇太子、中臣鎌足は内臣(うちつおみ)として実権を握ります。

政策立案のため、帰国していた僧旻、高向玄理を国博士に任じます。

そして、はじめての元号・大化を定めます。ここに大化の改新と呼ばれる一連の改革が始まります。

646年4か条からなる改新の詔が出されます。

  1. 公地公民制:皇族や豪族が個別に土地・人民を支配する体制をやめて公地・公民とし、豪族には食封を与える
  2. 中央(京・畿内)と地方(郡)の行政区画を定め、軍事・交通の制度を定める。
  3. 戸籍・計帳をつくり、人民を登録、班田収授を行う
  4. 新しい調などの税制をさだめる

実現には数十年の年月を要しました。

小説の紹介

この時期をテーマにした小説です

井上靖「額田女王」

近江の朝廷

改新のあと、朝廷内部の不和や分裂がつづきます。

都は難波へ移りますが、中大兄皇子と孝徳天皇が不和となり、中大兄皇子は飛鳥へ帰ります。孝徳天皇は難波で病死し、子・有間皇子が謀叛をくわだてたとして処刑される事件が起きます。

継いだ斉明天皇は、宮廷造営の土木工事、阿部比羅夫による蝦夷遠征をおこないますが、政情は安定しませんでした。

白村江の戦い

朝鮮半島では新羅が統一を進め、660年に唐と結んで百済を滅ぼします。

百済では、豪族が兵を集めて新羅と唐に抵抗し、朝廷にも救援を求めてきたため、朝廷は百済に兵を送ります。

しかし663年、白村江の戦い(はくそんこう/はくすきのえ)で唐・新羅軍に敗れ、朝鮮半島での地位が失われます。

668年には高句麗も滅ぼされ、新羅によって朝鮮半島は統一されます。

国内の対応

中大兄皇子は新羅と唐の攻撃に備え、太宰府に水城と山城をきずき、対馬と筑紫に防人をおきました。

667年には都を近江の大津宮へ移し、西日本各地に城を築きます。

都と大宰府をむすぶ山陽道には16kmごとに駅家がおかれ、20頭の軍馬がいざというときのために備えられていました。

当時の高い危機意識を伝える遺跡とみることができる巨大道路ですが、対外的な危機がやわらぎ、律令国家が変容するにつれ、道路は荒廃していきます。

本郷和人氏によると、663年の白村江の戦で、ヤマト政権はいつ唐に侵略されるかわからない危機に直面し、都を飛鳥から近江へ遷し、内政改革・国防強化に着手します。

白村江の戦の敗戦により、ヤマト政権はアイデンティティ・クライシスに陥ったと考えられ、政権は独自のヴィジョンを打ち出していくことになります。大和朝廷は氏族集団の連合体から、単一国家建設への機運が高まります。

この時期に「天皇」の呼称が生まれ、「古事記」「日本書紀」の編纂が始まり、法隆寺や伊勢神宮が作られるのは偶然ではなく、敗戦により、敵国である唐の先進性を採り入れ、自国の強化を図っていったためと考えています。

天智天皇と天武天皇

中大兄皇子は668年に即位し、天智天皇となります。

最初の令(りょう)である近江令を定めました。

670年には戸籍である庚午年籍をつくりました。

しかし、天智天皇が亡くなると、672年に子・大友皇子と弟・大海人皇子とで皇位をめぐる争いが生じ、畿内、美濃、伊賀、尾張の地方官や豪族を巻き込む内乱(壬申の乱)が起きます。

天智天皇の政治に不満を持つ豪族が大海人皇子に味方し、大海人皇子側の勝利となり、673年飛鳥浄御原宮で即位して天武天皇となります。

日本史論述問題の過去問

飛鳥時代

  • 2010年京大:推古朝の政策とその特徴が問われました。
  • 2005年阪大:飛鳥時代には、日本史上の画期となる政治制度が始められ、新たな文化現象も起こりました。それらを関連づけて歴史上の意義について問われました。
  • 1989年一橋:近代以前の日本は、東アジア社会の一員として、他の地域と相互に影響を及ぼしあいながら、歴史を展開させてきました。次に掲げた年には、日本の対外関係史上重要な出来事が起きています。そのそれぞれについて、内外の歴史的背景と日本社会への影響を含めて説明が求められました。(1)607年、(2)894年、(3)1401年、(4)1543年

白村江の戦い

  • 2011年東大:白村江の戦いに倭から派遣された軍勢の構成と、白村江での敗戦は、日本古代の律令国家の形成にどのような影響をもたらしたのかが問われました。
  • 1992年東大:660年百済が唐・新羅の連合軍の進攻によって滅亡し、663年に白村江の決戦で大敗するまで、日本の朝廷はなぜこれほど積極的に百済を支援したのかを、国際的環境と国内的事情とに留意して問われました。

壬申の乱

  • 2001年阪大:六七二年に起こった壬申の乱の原因と、その影響について問われました。
  • 2000年京大:天武天皇の時代はどのような時代であったかを問われました。

参考文献

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