網野善彦の「日本社会の歴史」を読んだ感想(最高に面白い!)

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覚書/感想/コメント

本書で述べようとしているのは「はじめに」にあるように、「日本国」の歴史でもないし、「日本人」の歴史でもない。日本列島における人間社会の歴史である。

いわゆる「社会史」「生活史」から見た日本列島の姿を描いていると考えればいいのではないかと思う。もちろん、政治史の流れもふまえているが、従来の概説的なものと決定的に異なるのは、やはり、その時代に生きていた「民」のすがたを現そうとしている姿勢だろう。

学校教育で学んできたものとは違う、「日本列島」にすんでいる人々の歴史が眼前に出現する。私などは目から鱗が落ちる記述ばかりであった。

具体的には、古くから日本は海上交通が発達していたということである。考えてみれば四方が海に囲まれているので、当然なのだが、陸上交通の方が発達していたような錯覚を覚えていた。この錯覚は教育によるものなので、ある種の空恐ろしさを感じたものだ。

12章の「展望」で書かれていることだが、明治政府は江戸時代を「士農工商」の身分制度にもとづく「封建制度」の時代として全面的に否定した。近代的学問の主流も、江戸時代に蓄積された学問を切り落とすところから出発した。

そもそも、「士農工商」の認識自体が事実に反しているという。本書を読めばこのことは分かる。そして、国家的な教育のなかで指導層は偏ったそして誤りに満ちた「日本国」「日本人」像を徹底的に刷り込んでいった。

一例としては「百姓」を「農民」としたため、農業国家のイメージができあがり、閉鎖的な島国のイメージなどもそうであろう。

本書はこうした先入観を解放する本であるともいえる。

著者を代表とする学者の活躍により、ようやく「社会史」「生活史」の研究が軌道に乗り始めた。

これは、いままで斬り捨てられてきていた「歴史」に焦点をあてる仕事でもあり、明治政府によって否定された江戸時代に蓄積された学問の系譜を復活させるものであったと思う。いわば、断絶された「歴史」を再びつなぎ合わせ始めたところから、新しい学問が生まれてきた、ということだろう。

「社会史」「生活史」というのは、今までの「政治史」を中心とした「歴史」からみれば、マイナーな取るに足らないものだったのだろう。もしくは、主流にいる人々にとっては「歴史観」への叛逆として写っていたのかもしれない。今でも、そう思う人々は少なくないはずである。

本書は上中巻が発行された時点で、きびしい批判を受けたようである。見解の相違や、歴史観との違いというのは、あってしかるべきであるが、学者などの専門知識を持った人々からの批判であったと願いたい。

批判を行うには、少なくとも、相手と同レベルの知識や見解を持ち、その批判をするための証拠となる一次資料や理由、分析結果などを持つべきである。そうでなければ、単なる難癖である。

だから、私は学者などの専門知識をもった人々からの批判だけであったと願いたいのだ。

批判というのが、私のように歴史の素人が、自分の習った歴史や知識とは違うなどという、あまりにも情けなく愚かしく恥ずかしいものでなかったことを願うばかりだ。

さて、本書は著者が自ら断っているように、十七世紀前半までを叙述し、その後に関しては展望を示す程度になっている。

なぜそうしたのかは本書に書かれているので割愛するが、自分の強くない分野に手を出さないというのは、学者の基本的な姿勢である。

また定説となっているもの以外、新たに発見された事実や、議論の余地のあるもの、学会で意見の割れているもの、著者の見解などは、明確に言葉を使い分けている。これも学者としての基本的な姿勢だが、この姿勢を貫くことによって、様々な見解というのもが明確に区別されて、読みやすくなっている。

ピックアップ

著者の専門が日本中世史および日本海民史であることから、海について書かれているところを中心にピックアップしていきたい。

紀元前

八千年ほど前に瀬戸内海が形成された頃、漁が盛んに行われていたが、北方のシベリアや沿海州などの地域との関係を考える必要がある。

列島の東部において安定した発展がなされ、人口も列島西部に比べて東部の方が圧倒的に多かったといわれている。

大陸に秦という強大な統一帝国が成立し、朝鮮半島の社会の新しい前進に伴って、その影響は海を舞台にする海民の交流によって日本に伝わってきた。

人的・文化的な交流、列島への人口の集団移動が活発となり、稲作にとどまらない多様な新しい文化要素が西方から流入する。余波は北からも列島に及んできた。

弥生文化は数十年といわれるくらいの非常に速いスピードで列島の西部に拡大した。その一部は東北の北部まで現われ、海を通じて伝播したことをよく物語っている。

縄文時代には人口の多さにおいて西部を圧倒していた東部の社会は穀物生産の点で西部に立ち遅れ、西部は朝鮮半島からの流入を含め人口が急速に増加し始めた。

以上をふまえると、弥生文化は単に稲作文化というだけでなく、強烈な海洋的特色を持っていたと考えることができるそうだ。

古代

首長たちの時代になると、その連合・統合のあり方も、三世紀末から四世紀初めに大きな変化が起こってくる。近畿から瀬戸内海にかけて出現する計画的に築造された古墳にそれが表現されている。

色濃く海民的な性格を有していた北九州や壱岐、対馬などの首長たちは朝鮮半島南部と密接な関係を持っていた。また、近畿の首長たちは瀬戸内海を通じて、関係を持っていた。こうしたなかで、朝鮮半島からはさまざまな職能民集団を含む人々が列島に移住してきて、半島と列島社会の交流は一層活発になった。

五世紀末から六世紀初頭にかけ、列島と半島の情勢は激動し始める。列島では近畿の大王ワカタケル(雄略天皇:雄略天皇が活躍した時代を「古墳時代から大和王権の成立まで」でまとめています)があらわれた。

大王の地位は動揺しており、こうした中でオホド王(継体)が現われる。議論のあるところらしいが、オホド王が少なくとも男系に即しては、これまでのワカタケル以来の大王とは別の流れから出てきた人物であることは間違いないそうだ。

当時の社会は水田だけによって維持されていたのではなく、様々な穀物が生産され、養蚕などの生産は女性の仕事として広く行われていた。東部では水田の比率が低く、畑や漁が生活の中で重要な意味を持っていた。

大化のクーデターで新政権ははじめて元号を定めて大化としたといわれている。これ自体を疑う見方もあるそうだ。ヤマト政権は重大な一歩を踏み出したのである。

ここでの中心的な役割を果たした中大兄は長いこと大王にならず、執政として楫取りをした。反対派への配慮と対外関係の緊張の影響があったと考えられる。

白村江の敗戦後、大王の地位の空位状態が続き、ついに中大兄は即位して大王天智となった。近江令という国家の統治法が制定されたともいわれるが、存在を否定する説が強いそうだ。

この後、壬申の乱がおき、東国を巻き込み、はじめて東国は自主的に大王の支配下に入った。畿内政権の東国に対する支配はようやく安定的になった。

六八九年「倭」にかわる国号「日本」、大王に変わる王の称号「天皇」などが初めて制度的に定められ、ここに列島に「日本国」は姿を現わした。

遣唐使として則天武后に使いが出て、「日本国」の使いと名乗り、「日本国」は東アジアに公式にその姿をあらわした。以後、この国号が主として対外的に用いられるようになる。

水田を基本とする租税制度がとられたが、形を変えながら、後々まで列島の国家に受け継がれていくようになる。

すでに社会的な分業もかなりの程度まで発展しており、市での交易も活発であった。高度な技術などについては国家が意識的に育成・組織する必要があった。職能民を組織し、世襲、技術の教習にあたらせた。

八世紀。東北北部に勢威をひろげようとした。この影響は北海道までおよんだ。北海道では長く続縄文文化が続いていたが、やがて擦文文化に移行し始める。

北アジアには渤海が成立しており、渤海は交易を求めて三十回以上使いを日本国に派遣している。日本海を横断する交流は大変活発だった。

逆に朝鮮半島の新羅との関係は疎遠であったため、遣唐使は南シナ海を横断する航路を選択せざるを得なかった。そのためしばしば難破した。

九世紀後半、海賊が横行し始める。海賊は一面では商人の性格も持っていたと考えられている。

考古学の発掘により、伊勢湾から東国、東北への海上交通もかなり安定していたようだ。一方で陸上の交通体系は崩れており、海上、湖上、河川交通、または陸上の古くからの道が、新しく体系化されてくる条件が整い始める。

八九四年、遣唐使が停止されたが、これは航海上の危険や財政上の困難だけでなく、大陸や半島から頻繁に商船が来航しており、そうした商人を通じて品物が自由に入手できるようになったことなど、または東アジア国家の衰えを認識した上での決定だった。

十世紀前半、唐が滅び、その波は列島にも及んだ。新羅の海賊や、北方でも蝦夷との対立があり、東西で不穏な状況に突入していた。この時期、政権は孤立主義の姿勢を維持した。

こうした中で天慶の乱がおき、京都の王朝政府にとっては短期間ではあるが支配が分断され、東国においては独自の国家が誕生するという自体を招いた。

天慶の乱は日本社会に新たな問題をはじめて提起した画期的な意義を持っている。一方で西日本で海賊として活動した人々は、海を通じて大陸や半島と深く関わっていくようになり、海上交通を担う豪族、商人となる。

平氏は大陸との交流に深く関わっていた。奥州藤原氏は日本海交通を通じて摂関家と結びつきを強めていた。

若狭と越前には南宋の船も来着し、琵琶湖を通じて京都へいたる交通路をつかってものが運ばれた。船は南九州の坊津や西北九州の博多にも多く来着していた。

これらの支配を巡って勢力の競合がくりひろげられた。大寺社の中では上賀茂・下賀茂が強力な力を持ち、石清水八幡宮も影響力を持っていた。

院と摂関家も海上交通の掌握には全力をあげていた。それを実質的に支えていたのが平氏であった。

鎌倉に幕府が成立した時代、山野河海を主な生業とする平民百姓は少数ではなく、漁や狩猟、多様な手工業などに携わる人々の比重はかなり高かった。

十三世紀前半には、宋から流入した金属貨幣がさかんに流通するようになった。鎌倉にも数多くの大陸からの船の姿が見られるようになった。

大陸からの物資の流入は、博多、瀬戸内海などを経由して畿内にもたらされた。影響の大きかったのは膨大な銅銭だった。社会に広く深く流通するようになり、商業や金融の質を変化させていった。東国では十三世紀前半には銭貨が流通していたが、西国ではなおもしばらく銭とともに米が流通し続けた。

十三世紀後半から十四世紀前半にかけ、列島内の海上交通と、大陸、半島などを結ぶ海の道とを結ぶ貿易に深く関わっていたのは、律僧・禅僧であった。律僧や禅僧などの勧進上人は、一面では冒険的な貿易大商人という性格を持っていた。

このころの記録にはあらわれない貿易船が非常に数多く往復していたのは確実である。列島の至る所で発掘される莫大な量の青磁・白磁、宋元銭によっても明かである。

やがて活発になっていく貨幣流通、商工業、廻船人などと積極的に結びつこうとする重商主義的な政治路線と、農本主義を基調とした政治路線とが対立していくことになる。

建武の新政では宋銭を排除し、紙幣の発行を行おうとした。また、専制体制の樹立を目指していたが頓挫する。

この時期、倭寇が活発であり、懐良はこれと結びつき、大陸や半島との交流を推進していた形跡がある。

室町の幕府が成立した頃には、信用貨幣ともいえる割符、手形が日本国全体に自在に流通するまでになってきた。この発展は、海上交通を中心とした交通網の発達を背景とするネットワークに支えられているのはいうまでもない。

十六世紀にもなると、廻船人、海運業者、商人なども、地域のネットワーク、「縄張り」を管理するようになる。瀬戸内海や日本海、東シナ海、太平洋の海域でも同じ動きが見られる。

こうしたネットワークを通じて、石見、佐渡、生野、院内などの鉱山から採掘された大量の銀が世界中に流れるようになる。

「高」を表現する基準が、西国と東国とでは異なっていた。大陸での銭の価値が下落するにつれ、その影響が西国中心に広がり、再び米が貨幣としての機能を果たすようになる。

対して、西国よりも銭貨が流通していた東国では、明の永楽銭を基準通貨とする方向が採用されていた。そのため、東国では家臣の所領を貫高、もしくは永楽銭で表示する永高が行われた。また、東国では金が交換手段として流通し始める。西国では石高を基本にする傾向が強かった。

西国と東国の差違は貨幣・価値基準のみにとどまらず、暦にも違いがあった。距離を現わす里にも違いが見られた。

豊臣秀吉が統一を果たした頃、海を越え、東南アジアの各地に日本町が形成されていた。一六一三年のペルーのリマには二〇人の日本人がおり、南アメリカまで行く人々もいた。

江戸時代に入り、アイヌ、琉球、対馬、長崎の四つの窓口を通じて交易・交流が行われ、また「抜荷」や「漂流」などにより密貿易も活発に行われていたと予想されている。時期は不明だが、清の銭が大量に日本列島に流入しており、周囲から完全に孤立してしまったわけではない。

商人らも、海禁によって列島外との交流については制約を受けたが、内部ではむしろ活発の度を加えていた。

本書について

日本社会の歴史
網野善彦
岩波新書 計約五八〇頁
入門書

目次

第一章 原始の列島と人類社会
 第一節 日本列島の形成と人類の登場
 第二節 漁撈の開始と狩猟・採集生活の発展
 第三節 縄文時代の終末と農耕の開始

第二章 首長たちの時代
 第一節 弥生文化の形成と首長たちの登場
 第二節 首長制の展開と古墳の発生
 第三節 統合に向かう近畿と九州
 第四節 近畿の巨大古墳と各地域の首長制の発展

第三章 国家形成への道
 第一節 近畿の大王と首長間の抗争
 第二節 部民政と国造制
 第三節 古墳の変質と六世紀の社会
 第四節 東アジアの激動とヤマト政権の動向

第四章 「日本国」の成立と列島社会
 第一節 大化のクーデターから壬申の乱へ
 第二節 日本国の出現-藤原京と大宝律令
 第三節 列島社会と律令制度

第五章 古代小帝国日本国の矛盾と発展
 第一節 古代日本国の矛盾と八世紀の政治
 第二節 八世紀の列島社会
 第三節 新王朝の創始と平安京
 第四節 都市貴族の世界-弘仁・貞観期の政治と文化
 第五節 九世紀の列島社会とアジア

第六章 古代日本国の変質と地域勢力の胎動
 第一節 寛平・延喜の国制改革
 第二節 東国国家の樹立と「海賊」の瀬戸内海支配-天慶の乱-
 第三節 十世紀の社会と政治
 第四節 地域社会の活発化と十一世紀中葉の国制改革
 第五節 十一世紀後半-十二世紀前半の社会と政治

第七章 東国王権の出現と王朝文化の変貌
 第一節 十二世紀後半の社会と政治
 第二節 東国の王権-鎌倉幕府の樹立
 第三節 東国・西国戦争-東国王権の確立
 第四節 十三世紀の社会と文化

第八章 東西の王権の併存と葛藤
 第一節 協調する東西の王権
 第二節 モンゴル襲来と十三世紀後半の社会
 第三節 十三世紀後半-十四世紀前半の社会
 第四節 東国「国家」の崩壊

第九章 動乱の時代と列島社会の転換
 第一節 天皇による国家統一とその崩壊
 第二節 動乱と四分五裂する王権
 第三節 日本国王室町将軍と地域諸勢力
 第四節 列島社会の文明史的・民俗史的転換-十四世紀後半-十五世紀前半の社会

第十章 地域小国家の分立と抗争
 第一節 社会の激動と動乱の全地域への拡大-一揆と応仁の乱-
 第二節 分立する地域小国家
 第三節 十六世紀の社会

第十一章 再統一された日本国と琉球王国、アイヌ社会
 第一節 日本国再統一の達成と朝鮮への侵略
 第二節 統一国家の確立
 第三節 十七世紀前半の社会と国家

第十二章 展望-十七世紀後半から現代へ
 第一節 十七世紀後半
 第二節 十八世紀から十九世紀前半
 第三節 十九世紀から二十世紀後半

参考・参照文献
むすびにかえて

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