安丸良夫「神々の明治維新―神仏分離と廃仏毀釈―」の読書備忘録(要約と紹介と感想と)

作家や・ら・わ行
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廃仏毀釈は1,000年以上の年月を経て日常にしみついた宗教観を、ごく一部の者がズタズタに引き裂いた。それゆえに混乱と恐怖を巻き起こしたのは当然だった。

廃仏毀釈を、仏教が伝来する前の古代への復古主義としての反動とみることもできるかもしれない。ヨーロッパにおけるルネサンスと同じ捉え方だが、ルネサンスは創造的で生産的な復古主義であったのに対して、廃仏毀釈は創造や生産性ははなく、破壊だけによる権力闘争だった。

要するに復古主義的な要素のない単なる蛮行で終わった。昨今の海外の例でいえば、タリバンによるバーミヤン遺跡の破壊と同種の風が日本に吹き荒れたのだった。蛮行はわずかな期間だけで終わったが、徹底的に全てが破壊された。

失われた価値観と歴史的遺産が戻ることはないが、一部の寺社では現在でも神仏習合の姿を残しているところがある。寺院なのに鳥居があったり、境内社があったりする。七福神なども神仏習合の影響が残っているものの一つである。

神仏習合については義江彰夫「神仏習合」に詳しい。それによると、神仏習合の流れとして、次の各段階を踏むという。

  • 第一段階:神宮寺の登場
  • 第二段階:大乗密教の登場、その発展形としての怨霊信仰の登場
  • 第三段階:ケガレ忌避と浄土信仰の発達
  • 第四段階:本地垂迹説と中世日本紀の登場

このように長い時間をかけて発展してきた日本の宗教感を、明治政府の権威づけのために否定し、そして、その動きに便乗する格好で、抑圧されてきた一部の神社の反旗と下剋上、扇動された民衆によって蛮行が行われる。

狂信的な一部の者を除き、廃仏毀釈は宗教的な側面よりも、権力闘争的な側面の方が強かったように思われる。

日本人の精神史の根本的な大転換

神仏分離と廃仏毀釈を通じて、日本人の精神史に根本的な大転換が生まれた。

この転換は、明治初期の数年間だけで成し遂げられたものではなく、それに至るまでの時間と、その後の時間がある。

神仏分離と廃仏毀釈にかかわる政策が、新政府の布告類の中で具体化してくるのは、慶応4年(1868年)3月13日の布告以降である。3月13日は五箇条の御誓文の発布の前日、江戸城無血開城の折衝が大詰めに近づいていた時期だった。布告では、祭政一致と神祇官再興と全国の神社・神職の神祇官附属を定めた。

江戸時代末期の幕末。神仏分離や神道国教化政策を支えた理念が、尊王攘夷運動や倒幕運動の中で共有されていたわけではなかった。

国体神学の信奉者はいたが、傍流でしかなかった。ところが新政府が成立すると、新政府のイデオローグとして登用され、国体神学は歴史の表舞台に立つことになる。

新政府の権威を確立するために、天皇の神権的絶対性が強調されねばならなかった。そうした中で、国体神学に割り当てられた役割は、理論的根拠づけだった。キリスト教に対する根強い不安と恐怖も、国体神学の権威づけを急がせる要因となった。

国家規模での神社祭祀の統一

国体神学のイデオロギーは、すべての信仰を皇国内宗門復古神道に改め、産土社で氏子改めを行う宗門改め制度へつながっていく。

制度の頂点には宮中祭祀と伊勢神宮を置き、中間に各地の官・国幣社を配し、底辺に村々の産土社をすえた。

こうして国家規模での神社祭祀を統一的し、日本人の宗教生活の全体を同じ宗教体系に帰属させるのが目的だった。

明治政府と国体神学と仏教

明治4年の布告でも、つづく神仏分離の布告でも、廃仏は明言されていなかった。

だが、神祇事務局や神祇官に集結した急進派にとって、神仏国教体制と仏教は相容れるものではなかっため、自然と廃仏を志向するものとして受け取られた。

とはいえ、長い歴史の中で根を下ろしてきた仏教は、布告や制度改革で除去しうるものではなかった。それどころか、新政府は政府樹立の初めから仏教勢力との提携が必要だった。

また祭政一致や神祇官制度が近代国家の国家体制の原理になりうるはずもなく、明治の国家体制は欧米のそれを模倣せざるをえない必然性を抱えていた。こうした事情により、国体神学は儀礼的側面に後退し、のちの国家神道に疑似的に引き継がれたに過ぎなかった。

だが、一部の狂信的な試みをもって失敗とみることはできず、日本人の宗教生活の全体がすっかりと転換してしまった。

神仏分離と廃仏毀釈の意味

神仏分離は、すでに存在していた神々を仏から分離することではない。分離されたのは、記紀神話や延喜式神名帳で権威付けられた特定の神々であって、神々一般ではなかった。

そして、廃仏毀釈は、廃滅の対象が仏と思われるかもしれないが、廃滅の対象となったのは、国家によって権威づけられていない神仏のすべてだった。

つまり、廃仏毀釈とは、神話的にも歴史的にも皇統と国家の功臣を神として祀り、それ以外の多様な神仏との間に国家の意思で分割線を引いてしまうことであった。

神と仏の分割の受け入れ

神仏の多様な信仰が存続し続けようとする限り、何らかの意味で分割を受け入れ、進んで内面化していかなければならなかった。

こうした中、真宗は宗教としての独自性を最も守った。真宗の存在こそが神道国教主義的な宗教政策を失敗させる根拠となる。その真宗ですら、国家のさしだす神々の体系に破廉恥に身をすり寄せていったこともあった。

新たに樹立された神々の体系は、水戸学や後期国学に由来する国体神学が生み出したものであり、明治以前の大部分の日本人にとって、思いがけない性格のものだった。

伊勢神宮でさえ、江戸時代は農業神としての外宮に重点があり、天照大御神信仰も、民主信仰の次元では、皇祖神崇拝のそれではなかった。

だが、明治維新の社会変革の中で、皇統と国家の功臣が神だと指定されたとき、公然と反対することができなかった。

民俗信仰の抑圧

仏教より厳しく抑圧されたのは、民俗信仰だった。仏教は明治3年末を境として、国家の教化政策に組み入れられる方向で進み、民俗信仰への抑圧は、明治3年末以後一層厳しくなっていった。

今日、日本人の大部分は宗教とあまりかかわりのない生活様式と生活意識を持っている。だが、正月の初詣に神社に参詣し、結婚式はたいがい神式でおこなっている。国体神学の影響がこうしたところに残っている。なんとなく古い由来をもつような初詣や神前結婚式は、大正天皇の婚儀に際して定められたものが、一般に普及したものであり、ごく最近のことである。歴史的伝統に基づいたものではない。

民衆の宗教意識

民衆のレベルでは、地域の氏神、自然神、祖霊崇拝、仏教、遊歴する宗教者の活動などが複雑なかかわりを持っていた。

そして、仏教は民心掌握力があることによって、かえって権力体系に組み込まれた。

権力による庇護だけでなく、民衆が仏教を受容するようになったのは、次の2点から理解できる

第一。仏教と祖霊祭祀の結びつきによる仏壇の成立。家ごとに仏壇が成立し、神棚の分立をもたらした。

第二。現世利益的祈祷と仏教の結びつき。観音、地蔵、薬師などが代表で、民衆の現世利益的な願望にこたえるようになった。

現世利益的祈願は仏教に限ったことではないが、神道系や修験系の仏教との習合がいちじるしく、区別することが困難で、仏教の様式を借りて表出されていた。

広い意味での仏教批判は18世紀末から盛んになり、仏教側からは護教的な論著も出されるようになった。

明治初年の宗教政策の直接的前史

明治初年の宗教政策の直接的前史は、水戸藩、長州藩、薩摩藩、津和野藩などにおける、寺院整理と廃仏毀釈である。水戸藩と長州藩のは天保改革の一環としてなされた。薩摩藩と津和野藩の場合は、明治維新直前になされた。神祇官などで明治初年の宗教政策を担当したのは、薩摩、長州、津和野の三藩出身者が多かった。

慶応4年(1868年)3月13日の布告に関連した事件として知られるものに、比叡山麓坂本の日枝山王社の廃仏毀釈がある。この事例は、江戸時代以来、鬱屈した不平を抱いていた社家側が強引な実力行使にでたものであった。だが、新政府にとっては実力行使は容認しがたいものであったことと、民衆が廃仏毀釈に対抗する姿勢を示したことで、それ以上の廃仏毀釈の進展を妨げた点で特徴的だった。

一方で、この段階で神仏分離があっさりと実施されたところもあった。興福寺、石清水八幡宮、北野神社などの大寺社である。

興福寺では、明治4年の寺領上知の翌年には伽藍仏具など一切が処分された。五重塔も売られたが、附近の町家が類焼を恐れて焼くことに反対して五重塔は残った。神社として独立した春日社を残し、興福寺自体はほとんど廃滅した。

こうした事例の他、神仏分離がトラブルなしに実施されたのは、神職身分が圧倒的に優位を占めていたような場合であった。慶応4年7月。武蔵国惣社六所宮(大国魂神社)における神仏分離は、この地域では最も早い事例の一つであった。同年8月に武蔵御岳社、江嶋社などで神仏分離や社僧の復飾などがなされている。

この慶応4年の布告と日枝山王社の廃仏毀釈などが、仏教に与えた衝撃は大きかった。一方で、新政府側も仏教側の協力を必要としていた。

最も重要なのは、両本願寺だった。両本願寺が朝廷に忠誠を誓い、厖大な献金を行ったことは、権力基盤の弱い維新政府にとって重要だった。

新政府が期待していたことがもう一つあった。新政府が廃仏の意思がないことを公的に明言し、真宗各派へ伝わるようにすることだった。

各地での廃仏毀釈の展開

津和野藩では慶応3年6月に社寺改正が行われたが、寺社整理が目的で、廃仏を目的としていなかった。この地方で最も有力だった宗派は真宗で、ついで禅宗だった。真宗の勢力圏にあったことから、藩制度が廃止された後、民衆の多くが帰仏した。

一部の地方では、明治元年末以降に強力な廃仏毀釈が行われた。隠岐、佐渡、薩摩藩、土佐藩、苗木藩、富山藩、松本藩などが代表的事例である。水戸藩の寺社改正の影響と、維新政府の宗教政策先取りの性格があった。

隠岐

隠岐は幕領で、僻遠の地だったが、近世後期に京都に出て国学や神道思想を学ぶものが多かった。

正義党と称した者たちが慶応4年6月に地域権力を掌握し、全島で廃仏排撃を実行した。島後には寺が46あったが、すべて廃滅した。

隠岐の廃仏毀釈が激しかったのは、地域社会を支配していた庄屋・神官僧が運動を担ったからだった。時代の転換の中で、島の権力の空白状態が生まれたことも、激しさを増した理由であった。

佐渡

佐渡も幕領だった。孤島であることと、早い時期に廃合寺が行われたなど、隠岐と似た状況ではあった。

佐渡では判事の奥平謙甫が占領者のように乗り込んで一方的に廃合寺を命じただけで、隠岐のような地域での有力な担い手を持たなかった。

しかも真宗門徒の強靭な信仰があり、廃合寺を失敗に終わらせた。

苗木藩

苗木藩は美濃にある1万石の小藩だったが、厳しい廃仏毀釈を行った藩として知られる。

全寺院(15の寺院)を廃毀し、石像石碑にいたるまで、仏教的なものを一掃して、全領民を神葬祭に改宗させた。この影響は現在でも残っている。

富山藩

富山藩の廃仏毀釈は明治3年後半に行われた。ここでは朝廷の権威と意思が前面に押し出された。朝廷では廃仏や一派一寺という命令を出していないのに、朝廷の意思であるかのように印象付ける狡猾なすり替えがなされた。

廃合寺は313の寺院を各宗派1寺、合計8寺に合併するというすさまじい内容だった。

真宗は東西両派で1寺、禅宗は臨済・曹洞両派で1寺に合併されることになった。富山藩は真宗が最も盛んな地域に属していた。248の寺院が該当していた。

廃合寺の命令は、僧侶と民衆をふかい恐怖に突き落とし、様々な混乱を引き起こしたが、実施された。

その後、両本願寺の政府への働きかけにより廃合寺政策そのものの撤回を命じられ、富山藩の廃合寺政策は失敗に終わる。

松本藩

松本藩では明治2年7月に神仏分離が行われた。松本藩では完全は廃寺を行って、神葬祭が目指された。1か月のなかで大部分の寺院が廃寺帰農したらしい。

松本市内に25の寺院があったが、残ったの4つで、いずれも真宗だった。ここでも抵抗したのは真宗系の僧侶だった。

廃仏毀釈の諸条件

他の地域での廃寺の様子は次のようになる。群馬県で約6%、埼玉県で約19%、長野県で約15%、宮崎県で約78%。

廃仏毀釈を条件づけた諸要因は次である。

第一に、朝廷という新しい権力の権威と威力を振りかざしてなされたものであった。

第二に、比較的僻遠の地で、地域に国学者や神道家などの担い手がいる場合に、成功しやすかった。

第三に、明治4年までに廃仏政策を失敗に追い込んだのは、仏教、とくに真宗の抵抗だった。

第四に、廃仏毀釈は民衆の宗教生活を葬儀と祖霊祭祀に一元化し、産土社と国家的諸大社の信仰を上に置き、それ以外の宗教的諸次元を圧殺しようとするものだった。

明治政府の狙い

明治政府が確保したかったのは、天皇を中心とする新しい民族国家への国民的忠誠だったので、国民的忠誠を確保できるのであれば、どんなイデオロギーでも結び付く可能性があった。

明治2年に制度改革が行われると、神祇官の宣教の中心は大教院に祀られた四神(造化三神と天照大神)に受け継がれ、祭祀の中心は宮中三殿にひきつがれた。宮中三殿は、賢所、皇霊殿、神殿のこと。

体系的整備の一環で、伊勢神宮の改革もあり、国家の祭祀体系の頂点に、宮中三殿と伊勢神宮が至高の祭祀対象とされるようになる。

そして、明治2年、明治天皇が歴代天皇の中で初めて伊勢神宮を参拝することになる。

近代社格制度

明治4年の布告「官社以下定額及神官職員規則等」で官・国幣社を具体的に定め、その下に府藩県社、郷社、産土社を置いた。同時に出された布告で、伊勢神宮以下すべての神社の神職の世襲を禁じた。

氏子調規則で宗門改め制度にかわって神社が戸口把握と結びつき、村ごとに一村一社と原則とする村氏神=村社が置かれ、区ごとに郷社を置いて、村社は郷社の附属とし、郷村社が地域の宗教体系の中核をなすことになる。こうして近代社格制度が整う。

伊勢神宮を頂点とする国家的祭祀の体系を地域の宗教生活の中核にもちこむことは、土俗的な神仏の抑圧と没落を意味していた。土俗的な神仏は、迷信や呪術として抑圧された。

民衆の精神生活の実態からみれば、あらたな祭祀体系は復古でも伝統的なものでなく、尊大な無理解のうえに強行された、あらたな宗教体系の強制だった。

修験の受けた影響

修験は神仏分離生活の影響を最も強く受けたものの一つであった。

江戸時代、修験は本山派と当山派に分かれ、それぞれ京都聖護院と醍醐三宝院に属していた。各地の修験組織は僧侶出身のものに支配されていることが多く、その限りでは仏教色が強い。

宗教としての実態は、神道とも仏教とも区別しがたい独自の行法や呪術などからなりたっていた。こうした性格の修験に神仏分離が強行されると、信仰の内実そのものが失われた。

吉野山

吉野は一山そのものが金峰山寺と呼ばれていたが、地主神金精明神を金峰神社と改め本社とした。現在においても、吉水神社のような由緒のあるところですら、神社らしいのは鳥居くらいで、全体が寺院の様式である。こうしたことが明治7年に神仏分離の名を借りて一山の神道化が強行された。

出羽三山

出羽三山に神仏分離令が伝えられたのは明治2年だった。旧来の信仰を守ろうとする勢力が圧倒的に多かった。だが、羽黒山は羽黒神社と改められた。この神道式への改変は、地方官への表面をつくろうという性格が強かった。

出羽三山で廃仏毀釈が推進されたのは明治6年、西川須加雄が宮司として着任してからだった。神道国教主義的理念をかかげる最急進グループの一人である。

冨士講と竹生島

富士講は富士山が信仰対象であるが、これにも神仏分離の原則が適用された。宍野半によって御師と富士講の巨大組織を、復古神道的な教説を信奉する新組織へ変えようとしたのだった。

琵琶湖に浮かぶ竹生島には弁財天が祀られていた。妙覚院の僧侶が奉仕していたが、弁財天をもって都久夫須麻神社と改称せよと命令が出て、新しい神社が生まれた。

秋葉山

遠江国の秋葉山の本尊は聖観音であったが、信仰の中心は火防ぎの三尺坊だった。

神仏分離の布告の後、秋葉山では寺院であることを主張し、復飾を免れようとしたが、時勢に便乗した一部の修験が、一山を手中にしようとして、秋葉山は神社だとした。教部省と地方庁の権力をよりどころとした一山横奪に他ならなかったので、不穏な状況となった。

明治13年には秋葉寺が再興され、寺院と神社が併立したが、両者の反目は長く続いた。

神道化の強要

蔵王権現や仙元大菩薩、弁財天、秋葉山三尺坊などは、民衆にとって神仏のいずれかに区別して信奉されていたのではなかった。稲荷信仰や相模大山の石尊権現信仰、愛宕権現信仰などでも同様であった。

だが、神道国教主義的な政策下では、習合的な神格は神道に組み込まれなければならなかった。こうした神道化の強要は、神仏分離でも廃仏毀釈でもなかった。

神社信仰の系統でさえ、国体神学に合致しないことが多かった。東京の神田明神もそうである。

神田明神の祭神は大己貴命と平将門で、庶民の信仰は後者にあった。神田明神はもともと平将門の御霊信仰として発展してきた。御霊信仰については義江彰夫「神仏習合」で触れられている。

だが、明治天皇が神田明神に立ち寄る際に、教部省では祭神を改めるように指示した。逆臣平将門を祀るなど容認できるものではなかった。ましてや天皇が参拝してよいものではなかった。

全国的にみれば国体神学と関係ない神社は圧倒的に多く、地域の神社信仰の抜本的な転換が不可避であった。

現在の神社像の成立

明治3年ころより神社改めが行われ、氏神の神体が仏像である場合や、氏神と言うよりも氏寺というほうがふさわしいことが少なくなかった。村々で祀られていた、多様な神仏の中から、産土神だけが浮かび上がって他を抑え、現在、村や町で見られる氏神が成立した。

今、神社の様式として思い浮かべる鳥居、社殿、神体(鏡)や礼拝の様式なども、大部分は国家の政策を背景にして成立したものだった。

民俗信仰、行事・習俗の廃絶

氏神の合併と小祠の廃併合だけが重要なのではなかった。

民俗信仰と民俗信仰的な行事・習俗の全体が対象だったので、迷信・猥雑・浪費とみなして廃絶の対象とされた。露骨な廃仏毀釈が撤回された後でも一貫しており、むしろ強化された。

抑圧が一般化するのは明治5年以降である。梓巫・市子・憑祈祷・狐下げ・玉占・口寄の禁止、博奕、吹矢、芝居・狂言の劇場建設の禁止、盂蘭盆会の廃止、ごぜの禁止など。こうした民俗信仰や民俗行事・習俗こそが、民衆の注意を家業からそらし、地域を疲弊させ、秩序を紊乱させる元凶とみなされたのだった。

本書について

神々の明治維新 ―神仏分離と廃仏毀釈―
安丸良夫
1979年
岩波新書

目次

はじめに
Ⅰ 幕藩制と宗教
 1 権力と宗教の対峙
 2 近世後期の廃仏論
Ⅱ 発端
 1 国体神学の登場
 2 神道主義の昂揚
Ⅲ 廃仏毀釈の展開
Ⅳ 神道国教主義の展開
 1 祭祀体系の成立
 2 国家神の地方的展開
Ⅴ 宗教生活の改編
 1 〝分割〟の強制
 2 民俗信仰の抑圧
Ⅵ 大教院体制から「信教の自由」へ
 1 大・中教院と神仏合同布教
 2 「信教の自由」論の特徴
参考文献

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