天龍寺の参拝録(京都府京都市)足利将軍家と後醍醐天皇ゆかりの禅寺

国指定史跡
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天龍寺(てんりゅうじ)

足利将軍家と後醍醐天皇ゆかりの禅寺。

南北朝時代の暦応二年(一三三九)足利尊氏・直義が後醍醐天皇の冥福を祈るため仙洞御所亀山殿の跡に建立。開山は夢窓国師。はじめ暦応寺と称したが、同四年現在名に改められた。夢窓国師作の庭園は国指定の史跡・特別名勝

臨済宗天龍寺派大本山。山号は霊亀山(れいぎざん)。寺号は霊亀山天龍資聖禅寺(れいぎざんてんりゅうしせいぜんじ)。本尊は釈迦如来。開基(創立者)は足利尊氏、開山(初代住職)は夢窓疎石。「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。

京都五山

京都五山の第一位。五山制度は臨済宗における制度で、鎌倉時代に始まり、鎌倉の寺院を中心に成立した。京都でも同様に取り入れられた。京都五山は次の通り。

  • 別格 南禅寺
  • 第一位 天龍寺
  • 第二位 相国寺
  • 第三位 建仁寺
  • 第四位 東福寺
  • 第五位 万寿寺

特別名勝の庭園

この日は、うだるような暑さだった。 あまりにも暑かったので、アイスエクレアを食べてから天龍寺に向かった。

嵐山駅方面から歩いて境内に入った。入り口付近は、コンクリートで覆われた趣のない造りだったが、建物に入って国の特別名勝の庭園をみると、さすがに「凄い」と思った。

「これだよ、まさに見たかったのは!」

借景式庭園の素晴らしさが体験できた。

この風景を前に、座ってボーッと眺めている人が多かったが、気持ちが良く分かる。とはいえ、半分くらいの人は暑さにやられて休んでいる感じだったが…。

新緑まぶしい時期に来るのがベストだと思った。クソ暑い時期に来るものではない。風景を堪能することよりも、熱中症にならないように意識を集中してしまうからだ。美しいものを堪能するには、それなりに気持ちの余裕やゆとりがないとムリ。

天龍寺を参拝した後、竹林の小径へ抜け、野宮神社を参拝し、嵐山方面へ向かって渡月橋を渡って、式内社の櫟谷宗像神社を参拝した。

天龍寺の歴史

平安時代初期、現在の天龍寺の地に嵯峨天皇の皇后・橘嘉智子が檀林寺開いた。約4世紀を経て檀林寺の地に後嵯峨天皇とその皇子である亀山天皇が離宮を建てた。離宮は「亀山殿」呼ばれた。「亀山」とは、天龍寺の西方にあり紅葉の名所として知られた小倉山を指す。小倉山の姿が亀の甲に似ていることから名が付いた。天龍寺の山号「霊亀山」もこれにちなむ。

足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うため、大覚寺統(亀山天皇の系統)の離宮であった亀山殿を寺に改めたのが天龍寺。足利尊氏が征夷大将軍となった暦応元年/延元3年(1338年)の翌年、後醍醐天皇が吉野で崩御した。禅僧・夢窓疎石が後醍醐天皇を弔う寺院の建立を足利尊氏に強く勧めた。

寺号は、年号をとって「暦応資聖禅寺」と称する予定だったが、足利尊氏の弟・足利直義が、寺の南の大堰川(保津川)に金龍の舞う夢を見たことから「天龍資聖禅寺」と改めた。

天龍寺造営の資金を得るため、足利直義が夢窓国師の勧めによって、元に商船をさしむけた。天龍寺船(てんりゅうじぶね)や天龍船と呼ばれる。

天龍寺は京都五山の第一として栄え、最盛期は子院150か寺を数えたという。寺域は約950万平方メートル、現在の嵐電帷子ノ辻駅あたりにまで及んだ。

しかし、たびたびの火災により、創建当時の建物はことごとく失われた。現存伽藍の大部分は明治時代後半以降のものである。方丈の西側にある夢窓疎石作の庭園(特別名勝・史跡)にわずかに当初の面影がうかがえる。

2500点余りの天龍寺文書と呼ばれる文書群を所蔵している。中世のものは度々の火災で原本を失ったものが多い。副本の形で残されている。関係の深い臨川寺の文書が天龍寺に多数移されたこともあって、一般に天龍寺文書といわれるが、川寺文書が多数を占める。近世のものは寺の日記である「年中記録」などの貴重な文書が伝えられている。

方丈の北側には、宮内庁管理の亀山天皇陵と後嵯峨天皇陵がある。

天龍寺の沿革
天龍寺は京都屈指の観光地嵯峨嵐山、に建つ臨済宗の禅刹。
名勝嵐山や渡月橋、天龍寺の西側に広がる亀山公園などもかつては境内地であった。
この地はその昔、檀林皇后と称された嵯峨天皇の皇后橘嘉智子が開創した禅寺・檀林寺の跡地で、檀林寺が廃絶した後、後嵯峨上皇が仙洞御所を造営し、さらに亀山上皇が仮の御所を営んだ。
天龍寺の歴史
創建と興隆
その地に足利尊氏を開基とし、夢窓疎石を開山として開かれたのが天龍寺で、その目的は後醍醐天皇の菩提を弔うため暦応2年(1339)に創建された。
造営に際して尊氏や光厳上皇が荘園を寄進したが、なお造営費用には足りず、直義は夢窓と相談の上、元冦以来途絶えていた元との貿易を再開することとし、その利益を造営費用に充てることを計画した。これが「天龍寺船」の始まり。
造営費の捻出に成功した天龍寺は康永4年(1345)に落慶した。南禅寺を五山の上として天龍寺を五山の第一位に、この位置づけは以後長く続いた。
火災と兵火
かつて広大な寺域と壮麗な伽藍を誇った天龍寺は度重なる火災に見舞われた。大きなものだけで延文3年(1358)、貞治6年(1367)、応安6年(1373)、康暦2年(1380)、文安4年(1447)、応仁2年(1468)、文化12年(1815)、元治元年(1864)の8回となる。
この文安の火災と応仁の乱による被害は大きく、天正13年(1585)に豊臣秀吉の寄進を受けるまで復興できなかった。その後秀吉の朱印を受けて順調に復興するが、文化年間に被災、この再建途中の元治元年、蛤御門の変に際して長州軍の陣営となり、兵火のために再び伽藍は焼失した。
以後は歴代の住持の尽力により順次旧に復し、明治9年には臨済宗天龍寺派大本山となった。しかし翌明治10年(1877)には上地令により嵐山53町歩を始め(このうち蔵王堂境内175坪をのぞく)亀山全山、嵯峨の平坦部4キロ四方の境内はほとんど上地することとなった。その結果現在の境内地はかつての10分の1、3万坪を残すこととなっている。
復興と再建
こうした逆境の中、天龍寺は復興を続け、明治32年には法堂、大方丈、庫裏が完成、大正13年には小方丈(書院)が再建されている。
昭和9年には多宝殿が再建、同時に茶席祥雲閣が表千家の残月亭写しとし、小間席の甘雨亭とともに建築された。翌10年(1935)には元冦600年記念として多宝殿の奥殿、廊下などが建立されほぼ現在の寺観となった。
なお塔頭の松巌寺、慈済院、弘源寺の3か寺は元治の兵火を逃れたため、室町様式あるいは徳川期のものが残る。後嵯峨、亀山両帝の御陵も元治の兵火に全焼したが、東西本願寺がいち早く再建し、方形造の廟堂は周囲の陵地とともに宮内省管轄となっている。

http://www.tenryuji.com/about/index.html

天龍寺の概略

概要
項目内容
山号霊亀山(れいぎざん)
院号
正式名霊亀山天龍資聖禅寺
開基康永4年(1345年)足利尊氏、夢窓疎石(開山)
宗派臨済宗天龍寺派
本尊釈迦如来
別称
備考

寺格:大本山、京都五山一位
札所等:神仏霊場巡拝の道 第88番
世界遺産

境内の案内

総門

別院塔頭

総門をくぐって方丈までの左右に塔頭がある。

三秀院

中門

右側に塔頭が並ぶ。左には蓮の池。蓮の池を挟んだ左側にも塔頭が並ぶ。

弘源寺

慈済院

松厳寺(松岩寺)

妙智院
永明院
金剛院

法堂(はっとう)

法堂は説法堂のことで、住持が仏に代って説法する場所。元治元年(1864)の戦火で焼失する。明治になり江戸後期建立の雲居庵禅堂(選佛場)を移築し、禅宗七堂伽藍のひとつとした。

天井には鈴木松年により明治32年(1899)に描かれた雲に乗る龍の絵があったが、平成9年(1997)に加山又造により新しく雲龍図が制作された。

正面須弥壇には釈迦三尊像を安置し、後の壇には光厳上皇の位牌と歴代住持の位牌および開山夢窓疎石と開基足利尊氏の木像が祀られている。

法堂そばの売店

八幡宮

庫裏(くり)

明治32年(1899)の建立。庫裏は七堂伽藍の一つで台所兼寺務所の機能を持つ。装飾性を出した建物で天龍寺景観の象徴ともなっている。

玄関に入った正面に置かれる大衝立の達磨図は前管長である平田精耕老師の筆によるもの。

方丈(ほうじょう)

大方丈と小方丈(書院)からなる。

天龍寺最大の建物である大方丈は明治32年(1899)、小方丈は大正13年(1924)の建築。正面の「方丈」の扁額は関牧翁老師(天龍寺第8代管長)の筆。

大方丈の本尊は釈迦如来坐像で平安時代後期の作。天龍寺の造営よりも古い。天龍寺が受けた都合8度の火災のいずれにも罹災せず助けられた仏像で、天龍寺の仏像の中で最も古い像。

東西を仕切る襖の雲龍の絵は昭和32年に物外道人によって描かれたもの。天龍寺第8代管長である関牧翁老師の友人で、昭和32年(1957)に方丈襖絵を描き上げた。

龍門亭(りゅうもんてい)

曹源池の南側に位置する建物。夢窓国師が選んだ「天龍寺十境」の一つ龍門亭を再現した。「天龍寺十境」とは貞和2年(1346)夢窓国師が天龍寺境内の十ヵ所を名勝に定めたもの。普明閣、絶唱谿、霊庇廟、曹源池、拈華嶺、渡月橋、三級巖、万松洞、龍門亭、亀頂塔

友雲庵(ゆううんあん)

龍門亭の東側に天龍寺の研究棟である精耕館(天龍寺史編纂所)をはさんで建つ建物。

曹源池庭園(そうげんちていえん)

約700年前の夢窓国師作庭当時の面影をとどめている。日本最初の史跡・特別名勝指定。

特別名勝及び史跡の指定範囲は、前庭と方丈裏庭。前庭は、勅使門から放生池を経て法堂に至る境内中心部。方丈裏庭は曹源池(そうげんち)を中心とした池泉回遊式庭園。

中央の曹源池を巡る池泉回遊式庭園。大堰川を隔てた嵐山や庭園西に位置する亀山を取り込んだ借景式庭園。

曹源池の名称は国師が池の泥をあげたとき池中から「曹源一滴」と記した石碑が現れたところから名付けられた。

小方丈から祥雲閣・甘雨亭への風景

祥雲閣・甘雨亭(しょううんかく・かんうてい)

多宝殿へ上る廊下の右手にある茶室。祥雲閣はわび茶を大成した千利休の血脈を今に伝える表千家にある茶室「残月亭」を写したもの。残月亭はもと利休が聚楽屋敷に作ったもの。

渡り廊下

多宝殿(たほうでん)

後醍醐天皇の尊像を祀る祠堂。昭和9年(1934)に建築されたもの。亀山上皇が離宮を営んだ際、後醍醐天皇が学問所とした地。中央に後醍醐天皇の像、両側に歴代天皇の尊牌が祀られている。

硯石

百花苑(ひゃっかえん)

多宝殿から北門への苑路で、北門開設と同時に昭和58年整備された庭園。北門を抜けると嵯峨野の名所である竹林の小径、大河内山荘、常寂光寺、落柿舎などへ通じる。

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