東寺の参拝録(京都府京都市)空海ゆかりの真言宗全体の総本山

国指定史跡
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平重衡受戒碑

京都駅から歩いて東寺に向かう途中の交差点で見かけた。地理に不案内だが油小路八条の交差点にある。すぐ近くを鉄道の高架がある。碑は法然の八百年遠忌を記念し、法然ゆかりの地に建てられたものの一つ。

平重衡(1157年~85年)は平清盛の子。五男で三位中将と呼ばれた。一の谷の合戦で源氏の捕虜となり、鎌倉へ送られた。源頼朝は平重衡の器量に感心して厚遇した。

だが、南都焼討で東大寺大仏や興福寺を焼失させた罪を問われ奈良へ連行され木津川畔で処刑された。悪名がとどろいているが、教養が高かった。

奈良へ連行されるときには、源頼兼が護送した。平重衡の妻・輔子が住んでいる日野の近くを通った時に、平重衡が一目妻と会いたいと願って許され、別れの対面をする。処刑の後、輔子は平重衡の遺骸を引き取り、荼毘に付して日野に墓を建てた。

「平家物語」によると、平重衡は一の谷から京都へ護送され、堀川八条にあった藤原家成の御堂に幽閉された。

御堂で平重衡は死後のことを相談したいと、浄土宗の開祖・法然との面会を守護にあたる土肥次郎実平に願い出て、法然から戒をさずけられたとされる。これが浄土宗の宗教教誨のはじまりとされる。

この時は、東寺を参拝し、羅城門跡を見て、六孫王神社を参拝して京都駅へ戻った。

所在地 南区西九条池之内町

東寺

真言宗の根本道場

東寺(とうじ)は、東寺真言宗の仏教寺院。 東寺は真言宗の根本道場であり、真言宗全体の総本山。 正しくは金光明(こんこうみょう)四天王教王護国寺秘密伝法院(略して教王護国寺)という。 「教王護国寺」(きょうおうごこくじ)とも呼ばれる。 山号は八幡山。本尊は薬師如来。寺紋は雲形紋(東寺雲)。

昭和9年(1934年)に国の史跡に指定、平成6年(1994年)12月には「古都京都の文化財」として世界遺産に登録された。

日本の密教は大きく2つに分かれる。東寺の東密と延暦寺の天密である。空海が日本にもたらした密教は、当時の宗教界に多大な影響を与えた。それは仏教界にとどまるだけでなく、神仏習合へも大きな影響を与え、神仏習合を推し進めることとなる。義江彰夫「神仏習合」に詳しい。

東寺は平安京鎮護のための官寺として建立された。嵯峨天皇により空海(弘法大師)に下賜された。弘法大師に対する信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として信仰を集めるようになった。

羅城門を挟んで、東側に建立されたのが東寺で、西側に建立されたのが西寺だった。東寺が空海という日本宗教史に残る巨人を迎え入れたことによりパワーバランスが崩れ、西寺は衰退していく。現在は残っていない。

東寺には「東寺」と「教王護国寺」という2つの名称がある。さらに正式名として「金光明四天王教王護国寺秘密伝法院」と「弥勒八幡山総持普賢院」の2つの名称がある。宗教法人としての登録名は「教王護国寺」。教王とは王を教化するという意味で、教王護国寺の名称には、国家鎮護の密教寺院という意味合いが込められている。宗教法人の名称が教王護国寺のため、寺内の建造物の国宝・重要文化財指定官報告示の名称は教王護国寺五重塔などになる。

東寺は創建当時から使用されてきた歴史的名称である。近世まで公式の文書・記録等には東寺が用いられた。教王護国寺の呼称は特殊な場合以外には用いられなかった。

歴史

794年(延暦13)の平安遷都に伴い、王城鎮護のために羅城門の東西に東寺と西寺という2つの寺院の建立された。2つの寺院は、平安京の左京と右京を守る王城鎮護の寺、東国と西国とを守る国家鎮護の寺という意味合いを持った官立寺院だった。東寺の記録書「東宝記」によれば延暦15年(796年)、大納言・藤原伊勢人が造寺長官(建設工事責任者)となって建立したとされる。

東寺は、唯一残る平安京の遺構です。
創建からおよそ、1200年。
平成6年、1994年に世界遺産として登録されました。
平安遷都とともに建立された東寺は官寺かんじ、つまり国立の寺院。
その寺院を桓武天皇のあとに即位した嵯峨天皇は、唐で新しい仏教、密教を学んで帰国した弘法大師空海に託しました。
ここに、日本ではじめての密教寺院が誕生します。
東寺を託された弘法大師空海は、密教の主尊しゅそんである大日如来を境内の中心にすえ、広大な寺域に曼荼羅まんだらを表現しようとしたのかもしれません。
造営にあたって、弘法大師空海は、御影堂みえいどうの場所に住房を構えました。
御影堂では、いまも毎日、弘法大師空海がいらしたときと同じように、一の膳、二の膳、お茶をお出ししています。
東寺に来られたら、まず御影堂にお参りください。
お堂に上がり、ひととき弘法大師空海とお話しください。

https://toji.or.jp/about/

弘仁14年(823年)、嵯峨天皇が真言宗の宗祖である空海(弘法大師)に勅賜した。東寺は国家鎮護の寺院であるとともに、真言密教の根本道場となった。東寺は官立護国寺、密教道場に加えて大師霊場でもある。

空海は大同1年(806年)唐より帰国後、真言密教の布教に努め、819年から高野山に伽藍を建立、金剛峯寺を開いていた。比叡山の延暦寺の最澄と対立していた。嵯峨天皇はその調停として両者の教学を公認し、空海に東寺を与えた。東寺は真言宗僧だけとなり、一宗による官寺の独占は画期的だった。

空海により五重塔や講堂が建立されて寺観を整えたが、承和2年(835年)空海が没すると、真言宗の中心は高野山に移り、東寺は衰えをみせる。平安時代末ごろ勧進僧・文覚(俗名・遠藤盛遠)は、空海ゆかりの京都高雄山神護寺の再興を果たし、東寺の再興を志した。

後白河院は文治5年(1189年)に播磨国を修造料国にあてた。特に空海に深く帰依したのは後白河法皇の皇女・宣陽門院だった。宣陽門院は霊夢のお告げに従い、東寺に莫大な荘園を寄進した。

鎌倉時代からは弘法大師信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として、皇族・貴族から庶民に至る広い信仰を集めるようになった。

鎌倉時代には将軍・源頼朝も、文覚の諸国での勧進活動を大いに支援した。建久8年(1197年)ごろまでに寺堂の再興事業はほぼ完成した。正治1年(1199年)の源頼朝の死により文覚は失脚し、復興事業は中断する。

13世紀中ごろ以降、行遍らの活躍で、全国の寺領荘園の支配が好転した。弘安8年(1285年)に五重塔の再興を果たした大勧進願行上人憲静なども登場して、東寺は経済的にも安定した。

南北朝・室町時代は、戦乱に巻き込まれて寺堂を焼亡することもあった。公家・武家・民衆の尽力でつど再興された。

文明18年(1486年)の京都徳政一揆のとき、土一揆勢が当寺に立てこもって放火したため、金堂以下ほとんどの建物が焼失する。

豊臣秀吉は天正19年(1591年)に山城国内の2000石余を寺領として安堵した。徳川幕府も朱印寺領として認め、五重塔をはじめとする諸堂を再興した。

明治期には、神仏分離、廃仏棄釈によって多くの塔頭が廃された。明治初年に真言宗の総本山となったが、諸派と分離し、昭和49年(1974年)東寺真言宗が結成され総本山となる。

空海の住房であった西院にはもと不動明王が祀られていた。鎌倉時代に前堂に空海の像が安置されると、大師堂、御影堂とよばれるようになった。現在の建物は天授6年/康暦2年(1380年)の再建。大師堂に空海の徳を慕う多くの人々が参詣するようになった。生身供(しょうじんく、空海が今も生きているがごとく、毎朝食事を捧げる儀式)や御影供(みえく、毎月21日の空海の命日に供養を行う)などの儀式を創始したのも宣陽門院だった。生身供は、今日も毎日早朝6時から東寺の西院御影堂で行われている。毎月21日の御影供の日には東寺境内に骨董市が立ち「弘法市」「弘法さん」として親しまれている。

中世以後の東寺は後宇多天皇・後醍醐天皇・足利尊氏など、多くの貴顕や為政者の援助を受けて栄えた。

文明18年(1486年)の火災で主要堂塔のほとんどを失うが、豊臣家・徳川家などの援助により、金堂・五重塔などが再建されている。何度かの火災のため、東寺には創建当時の建物は残っていない。南大門・金堂・講堂・食堂(じきどう)が南から北へ一直線に整然と並ぶ伽藍配置は奈良の諸大寺の伝統を受け継いでいる。各建物の規模は平安時代のまま。

平安時代・一
平安京に左右対称に配置された東寺と西寺
平安京復元模型 京都市歴史資料館所蔵
延暦13年、794年。桓武天皇により築かれた平安京は、時代の最先端をゆく都市でした。
都の正門、羅城門から北へまっすぐに朱雀大路が伸び、その先に壮麗な大内裏だいだいりがありました。その羅城門を挟んで、両翼を広げたように建立されたのが、東寺と西寺です。
東寺は国の東の王城鎮護、西寺は国の西の王城鎮護を担う、官寺でした。緑色をした緑釉瓦りょくゆうがわらに朱の柱、白壁の大伽藍だいがらんは、新しい首都を象徴するものでした。
東寺/平安京復元模型部分 京都市歴史資料館所蔵

平安時代・二
弘法大師空海と東寺の出会い 密教寺院の誕生
曼荼羅から抜け出した密教の仏さま 左・金剛界の大日如来 右・胎蔵界の大日如来
平安遷都より29年目の冬、桓武天皇のあとに即位した嵯峨天皇は、唐で密教を学んで帰国した弘法大師空海に、東寺を託します。ここに真言密教の根本道場こんぽんどうじょう東寺が誕生します。
弘法大師空海は、まず、密教の中心伽藍となる講堂の建立に着手しました。講堂建立の翌年には、塔建立の材木を東山から運搬して欲しいと、朝廷に願い出た記録が残っています。このことから五重塔の工事は、この頃、はじまったといわれます。
こうして、弘法大師空海は大伽藍建立の大事業をはじめました。いまの東寺は、弘法大師空海がこのとき計画した通りの姿といえるでしょう。
重要文化財 弘法大師行状絵詞 第8巻(東寺勅給)南北朝時代
鎌倉時代
天福元年、1233年のできごと
国宝 兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん)立像 唐時代 木造
源氏と平家の合戦が起こり、平安時代も終わりに近づきます。羅城門は崩れ落ち、東寺、西寺ともに衰退の一途をたどります。やがて、時代が鎌倉へと移り、東寺に復興の兆しが見えてきます。
文覚上人もんがくしょうにんの依頼を受け、運慶うんけいが諸像の修復に着手。天福元年、1233年には、運慶の子、仏師康勝こうしょうにより弘法大師空海の坐像が完成。御影堂みえいどうで法要がはじまりました。さらに、後白河法皇の皇女、宣陽門院せんようもんいんが財政の基盤をつくり、東寺は息を吹き返していきました。
一方、西寺は、天福元年、1233年に境内に唯一残っていた五重塔が焼失。以後、西寺が復興することはありませんでした。
室町時代・戦国時代
戦乱の痕跡 そして炎上
重要文化財 東大門 鎌倉時代
東大門は、別名、不開門あかずのもんと呼ばれています。なぜ、そう呼ばれることになったのか。答えは、その門に残る矢の痕跡と無関係ではありません。
南北朝時代、足利尊氏は東寺に陣を置き、新田義貞にったよしさだと戦火を交えました。戦場は都から、東寺の近くへと移っていきました。そのとき、足利軍は、東大門の扉を固く閉ざし危機を脱したといわれます。このことから、東大門は不開門といわれるようになりました。東大門には、いまも戦乱の傷痕が残っています。
その後、東寺は、幾多の戦火をかいくぐり、応仁の乱の戦禍も免れることができました。しかし、文明18年、1486年に起こった文明の土一揆で金堂、講堂、廻廊かいろうや南大門なんだいもんなどを焼失。東寺創建以来、もっとも大きな痛手を被った事件でした。
江戸時代
よみがえった東寺
金堂の重要文化財 薬師如来坐像と日光菩薩立像
文明の土一揆のあと、復興できるだろうか、と思われた東寺でしたが、桃山時代になると、焼失した金堂が約100年ぶりに再建。新しい金堂に新しい薬師如来、日光菩薩、月光菩薩も誕生しました。続いて南大門も完成し、焼失後、すぐに再建した講堂も含めて、東寺は、ほぼ元の姿になりました。
その後、落雷によって五重塔が焼失しますが、それも寛永21年、1644年に再建。また、徳川家康は、東寺の子院しいんである観智院かんちいんを、真言一宗の勧学院に定めました。
現代
はじめて開かれた東寺の扉
平成21年の後七日御修法(ごしちにちみしほ) 結願(けちがん)の風景
その時代、時代を生きた人々によって復興を遂げてきた東寺でしたが困窮が続いた時代もありました。しかし、そのなかにあっても法要は続けられ、僧をはじめとして、多くの人々によって東寺は守られてきました。
そして、昭和40年、1965年、秘仏公開。固く閉ざしていた金堂、講堂の扉が開きました。それは、平安時代へと続くタイムカプセルが開けられた瞬間でもありました。

https://toji.or.jp/history/

境内散策

北大門(重要文化財)

北大門を入ってすぐの風景

太元堂

北大門を出た右側にある。鎮護国家を司るという大元帥明王と四天王を祀る。大元帥明王は憤怒の形相であるといわれている。

弁天堂

北大門を出た右側にある。音楽・技芸・財産を司るという弁才天を祀る。

金堂(国宝)

東寺の中心堂宇で、諸堂塔のうちもっとも早く建設が始められた。東寺が空海に下賜された弘仁14年(823年)までには完成していた。当初の堂は文明18年(1486年)の土一揆で焼失し、1世紀近く再建されなかった。現存の建物は慶長8年(1603年)、豊臣秀頼の寄進によって再建したもの。
奉行として片桐且元が任に当たった。入母屋造本瓦葺き。外観からは二重に見えるが一重裳階(もこし)付きである。本尊の薬師如来坐像と日光菩薩、月光菩薩の両脇侍像が安置されている。

木造薬師如来および両脇侍像(重要文化財)。金堂本尊。中尊の像高2.88メートル、台座と光背を含めた総高は10メートルに達する巨像。中尊の光背には七仏薬師像を配している。台座の懸裳の下には薬師如来の眷属である十二神将像が配されている。仏師康正の作で、日本の仏教彫刻衰退期である桃山時代における佳作である。

講堂(重要文化財)

金堂の背後(北)に建つ。東寺が空海に下賜された弘仁14年(823年)にはまだ建立されていなかった。天長2年(825年)空海により着工、承和2年(835年)頃完成した。当初の堂は文明18年(1486年)の土一揆による火災で焼失し、室町時代の延徳3年(1491年)に再建された。単層入母屋造で純和様。金堂の本尊は顕教系の薬師如来だが、講堂には大日如来を中心とした密教尊を安置する。

食堂

講堂の後方、境内の北寄りに建つ。初代の食堂は空海没後の9世紀末から10世紀初め頃にかけて完成したと推定される。文禄5年(1596年)の地震で倒壊。寛政12年(1800年)にようやく再建工事が始められた。江戸時代再建の食堂は昭和5年(1930年)に火災で焼失し、現在の建物はその後の再建で、昭和9年(1934年)に完成した。旧本尊の千手観音立像はこの時の火災で焼損し、昭和40年(1965年)から修理が実施され、現在は寺内の宝物館に安置されている。現在の食堂には明珍恒男作の十一面観音像が本尊として安置されている。

五重塔(国宝)

高さ54.8メートルは木造塔としては日本一の高さを誇る。天長3年(826年)空海により、創建着手に始まるが、実際の創建は空海没後の9世紀末であった。雷火や不審火で4回焼失しており、現在の塔は5代目で、寛永21年(1644年)、徳川家光の寄進で建てられた。初層内部の板壁には真言八祖像、天井には花文が極彩色で描かれている。心柱を大日如来とみなしている。

小子房

昭和9年(1934年)に再建された。内部は6個の部屋(鷲の間、雛鶏の間、勅使の間、牡丹の間、瓜の間、枇杷の間)からなる。

御影堂(国宝)

空海が住房としていた、境内西北部の「西院」(さいいん)と呼ばれる一画に建つ住宅風の仏堂である。前堂、後堂、中門の3部分からなる複合仏堂で、全体を檜皮葺きとする。国宝指定時の名称は「大師堂」だが、御影堂で知られる。当初の堂は康暦元年(1379年)の火災による焼失後、翌年に後堂部分が再建された。10年後の明徳元年(1390年)、弘法大師像を安置するために北側に前堂、その西側に中門が増築された。後堂(南側)には空海の念持仏とされる不動明王坐像(国宝、9世紀)を安置する。厳重な秘仏で非公開であるが、日本の不動明王像としては最古の作例の一つ。北側の前堂には弘法大師坐像(国宝)を安置する。この像は東寺の親厳の依頼により、天福元年(1233年)運慶の4男康勝が制作したもの。空海の弟子の真如が描いた空海の肖像とほぼ同じといわれている。像は庶民の信仰を広く集め、像の前では、毎朝6時に「お大師様」に朝食を捧げる「生身供」(しょうじんく)が執り行われる。

大日堂

平成12年(2000年)に大改修を終えた。大日如来像を安置する。

大黒堂

三面大黒天を祀る。御影堂の西側にある。

毘沙門堂

御影堂の南側にある。大風で天元元年(978年)倒壊した羅城門の上層から食堂に移されていた国宝・兜跋毘沙門天像(現在宝物館に収蔵)を安置するために文政5年(1822年)建立された。平成6年修復された。京都の都七福神(毘沙門天)である。

灌頂院(重要文化財)

境内南西隅に位置する。伝法灌頂(密教の奥義を師匠から弟子へ伝える儀式)、 後七日御修法(ごしちにちのみしほ:正月の8日から14日までの間に、天皇の安泰を祈願する儀式)などの儀式を執り行うための堂。内部には仏像は安置されていない。

鎮守八幡宮

南大門を入った左側にある。明治元年(1868年)に焼失後、1世紀以上を経た平成4年(1992年)に再建。東寺の鎮守神である僧形八幡神像と女神(じょしん)像2体を安置する。薬子の変の際、空海はここで嵯峨天皇勝利の祈祷を行っている。

八島社殿

南大門を入った右側にある。東寺以前より鎮座され祭神は地主神とも大己貴神とも言われる。

宝蔵(重要文化財)

拝観入口の慶賀門の南側、掘割で囲まれた中に建つ。平安後期建立の校倉(あぜくら)造倉庫で、東寺最古の建造物である。

夜叉神堂(やしゃがみどう)

講堂と食堂の中間に建つ東西2棟の小堂。東が雄夜叉(本地文殊菩薩)が西が雌夜叉(本地虚空蔵菩薩)。

蓮花門(国宝)

鎌倉時代再建の八脚門。本坊西側で、小子房の西の門である。空海が高野山に向かうとき使っていた門で、最後の旅立ちのとき空海の足元に蓮の花が咲き足跡にも蓮の花が咲いていたという伝説がある。

南大門(重要文化財)

慶長6年(1601年)に三十三間堂の西門として建てられた八脚門。以前の門が明治元年(1868年)に焼失したため明治28年(1895年)移築された。東寺で最大の門。

南大門そばのお堀

東大門(重要文化財)

建久9年(1198年)再建、慶長10年大改修。建武3年(1336年)6月、新田義貞に攻められた足利尊氏がこの門を閉めて難を逃れたという故事により不開門(あかずのもん)と呼ばれる。

観智院

後宇多天皇により創立された。桃山建築の客殿は国宝。北大門を出て櫛笥(くしげ)小路を進んだ右側に位置する。塔頭寺院であるが、別格本山となっている。学僧であった杲宝を1世として延文4年(1359年)に子院として創建された。杲宝は国宝となっている「東宝記」という東寺の創建から室町時代に至る寺史をまとめた。これは弟子の賢宝により補足完成された。観智院は東寺のみならず真言宗全体の勧学院と位置づけられ、多くの学僧を輩出している。経蔵である金剛蔵には膨大な文書・典籍・聖教類が所蔵されていたが、現在は東寺宝物館に移されている。

客殿(国宝)

慶長10年(1605年)の建立。桃山時代の典型的な書院造りの建造物として国宝に指定されている。上の間には宮本武蔵筆といわれる「鷲の図」などの襖絵がある。客殿南の庭園は「五大の庭」と称される。

本堂

本尊の五大虚空蔵菩薩像は唐からの請来像で、長安の青龍寺の本尊であったとの伝承がある。

宝菩提院

弘安2年(1279年)創建と伝えられる。櫛笥小路沿いの、観智院の北側にある塔頭である。別格本山となっている。元は観智院と櫛笥小路をはさんで東西対称に建てられていたが、明治14年(1881年)「総黌」(そうこう)開学に伴い現在地に移転した。総黌は、現在の種智院大学ならびに洛南高等学校の母体であった。観智院の道をはさんで向かい側には、宝菩提院の正門であった古い本瓦葺きの門がある。

東寺の概要

概要
項目内容
山号八幡山
院号
正式名金光明四天王教王護国寺秘密伝法院
開基延暦15年(796年)桓武天皇
宗派東寺真言宗
本尊薬師如来(重要文化財)
別称正式名別称:弥勒八幡山総持普賢院
別称 左大寺
備考

札所等

真言宗十八本山第9番
西国愛染十七霊場第8番
洛陽三十三所観音霊場第23番
京都十三仏霊場第12番
都七福神(毘沙門天)
神仏霊場巡拝の道 第84番
京都十二薬師霊場第2番

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