信州善光寺の参拝録(長野県長野市)一生に一度は善光寺詣り

寺社
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牛にひかれて善光寺参り

一度は来てみたいと思っていた善光寺(ぜんこうじ)。

長野市は善光寺の門前町として発展した。城下町でないにも関わらず、長野市が発展できたのは、それだけ善光寺の経済規模が大きかった証左だろう。

善光寺の本尊は日本最古と伝わる一光三尊阿弥陀如来である。善光寺聖の勧進や出開帳などによって、江戸時代末には「一生に一度は善光寺詣り」と言われるようになった。御開帳が行われる丑年と未年に多くの参拝者が訪れる。山号は「定額山」(じょうがくさん)。

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境内案内

石畳の参道

善光寺は入り口から山門まで400メートルの石畳の参道になっている。参道は長く緩やかな上り坂となっており、寺号標から仁王門までの石畳は市の文化財となっている。

300年以上前の1714年に作られたものとされ、石畳の枚数は7777枚に上るとされる。石畳みは江戸中橋の大竹屋平兵衛から寄贈されたもの。綺麗に整備されており、これを見るだけでも十分な価値がある。

仁王門

仁王門も見事で、左側に阿形、右側に吽形の仁王像が出迎える。高村光雲と米原雲海の合作である。高村光雲は日本彫刻を代表する仏師で、高村光太郎の父。

仲見世通り

仁王門から山門まではお土産物屋、蕎麦屋、おやきを食べられる店などが並んでいる。

山門(三門)

仁王門を過ぎて出迎えてくれるのが山門である。見事な山門で、上へ登ることができる。国の重要文化財に指定されている栩葺(とちぶき)屋根が特徴的。2階から善光寺の本堂を見渡すことができ、本堂の写真撮影が許されている。

そして、目の前に現れる本堂。

本堂内陣

本堂の中は写真撮影禁止。内々陣の奥に安置されているご本尊を直接拝むことはできない。手前にある不滅の常燈明に詣でれば極楽往生できると言われている。

お戒壇巡り

本堂の内陣にあるお戒壇巡りはおススメ。内々陣の右手にお戒壇巡りの入口がある。

ご本尊が置かれた瑠璃壇の床下を歩くことになるが、まさに漆黒の闇。

漆黒の闇の中を右手の壁を触りながら、ソロリソロリと歩いていくと「極楽のお錠前」に触れることができる。この錠前は本尊の真下にあるとされ、錠前に触ることができれば極楽浄土が保証されるという。

回廊は45mあり、不思議な形状の回廊となっている。この回廊で体験する絶対的な闇に怖さを感じる人もいるようだが、私が行ったときは、賑やかな団体のおかげで怖さを感じることはなかった。

経蔵(輪廻塔)

仏教の経典が網羅された一切経が収められている建物。手前の輪廻塔を回すと経典をすべて読むのと同じ功徳を積めると言われる。

日本忠霊殿

全国的にも珍しい英霊を祀る仏式の霊廟。建物の1階には善光寺ゆかりの品々が閲覧できる史料館がある。

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善光寺は無宗派の単立寺院

特定の宗派に属していない無宗派の単立寺院。無宗派でここまで大規模なのは珍しいに違いない。

仏教が諸宗派に分かれる以前からある寺院のため、宗派の別なく宿願が可能な霊場になったようだ。また旧来の仏教の中では珍しく女性の救済が挙げられる寺院である。

住職も特徴的

住職は「大勧進貫主」と「大本願上人」の両名が務める。

護持・運営は山内にある天台宗の「大勧進」と25院、浄土宗の「大本願」と14坊による。参道から一本を隔てて左右両方に御坊が並んでいる。

「大勧進」の住職は「貫主」(かんす)と呼ばれ、天台宗の僧侶が務めている。

「大本願」は、大寺院に珍しい尼寺で、住職は「善光寺上人」(しょうにん)と呼ばれる。門跡寺院ではないが現在に至るまで住職は公家出身者から代々迎えている(浄土宗では大本山善光寺大本願の法主)。

かつては門が4つあった。

今は門が1つしかないが、昔は四方が囲まれ、4つの門があったようだ。4つ門にはそれぞれ額があり、「四門四額(しもんしがく)」と呼ばれた。

東門には「定額山善光寺」。

南門には「南命山無量寿寺(なんみょうさんむりょうじゅじ)」。

北門には「北空山雲上寺(ほくくうさんうんじょうじ)」。

西門には「不捨山浄土寺(ふしゃさんじょうどじ)」。

…この意味が良く分からないのだが、くぐる門によって異なる寺にお参りができるとみなしていたのだろうか?

絶対秘仏の本尊

三国渡来の絶対秘仏の霊像と伝承される丈一尺五寸の本尊・一光三尊阿弥陀如来像が本堂「瑠璃壇」厨子内に安置されている。その姿は寺の住職ですら目にすることはできないとされる。

朝の勤行や正午に行なわれる法要などの限られた時間に金色に彩られた瑠璃壇の戸張が上がり、瑠璃壇と厨子までを拝することが通例とされる。

数えで七年に一度の御開帳には、金銅阿弥陀如来及両脇侍立像(前立本尊)が絶対秘仏の本尊の分身として公開される。

札所

日本百観音(西国三十三所、坂東三十三箇所、秩父三十四箇所)の番外札所。結願寺の秩父三十四箇所の三十四番水潜寺で、「結願したら、長野の善光寺に参る」といわれている。

善光寺の概要

善光寺縁起

信州善光寺は、一光三尊阿弥陀如来様を御本尊として、創建以来約千四百年の長きに亘り、阿弥陀如来様との結縁の場として、民衆の心の拠り所として深く広い信仰を得ております。
『善光寺縁起』によれば、御本尊の一光三尊阿弥陀如来様は、インドから朝鮮半島百済国へとお渡りになり、欽明天皇十三年(552年)、仏教伝来の折りに百済から日本へ伝えられた日本最古の仏像といわれております。この仏像は、仏教の受容を巡っての崇仏・廃仏論争の最中、廃仏派の物部氏によって難波の堀江へと打ち捨てられました。後に、信濃国司の従者として都に上った本田善光が信濃の国へとお連れし、はじめは今の長野県飯田市でお祀りされ、後に皇極天皇元年(642年)現在の地に遷座いたしました。皇極天皇三年(644年)には勅願により伽藍が造営され、本田善光の名を取って「善光寺」と名付けられました。創建以来十数回の火災に遭いましたが、その度ごとに、民衆の如来様をお慕いする心によって復興され、護持されてまいりました。

草創期を語る史料は残念ながら善光寺には残っていません。しかし、発掘史料や史書などから、いにしえの善光寺の姿をうかがい知ることはできます。大正十三年と昭和二十七年には境内地から白鳳時代の川原寺様式を持つ瓦が発見され、7世紀後半頃にはかなりの規模を持つ寺院がこの地に建立されていたことがわかってきました。平安後期・12世紀後半に編集された『伊呂波字類抄』は、8世紀中頃に善光寺の御本尊が日本最古の霊仏として中央にも知られていたことを示す記事を伝えています。また、11世紀前半は、京の貴族を中心に浄土信仰が盛んになった時期でもありました。こうした浄土教の隆盛とともに、善光寺聖と呼ばれる民間僧が本尊のご分身仏を背負い、縁起を唱導して、全国各地を遍歴しながら民衆の間に善光寺信仰を広めました。また、信仰の拡大に伴い、ご分身仏が作られるようになりました。

鎌倉時代になると、源頼朝や北条一族は厚く善光寺を信仰し、諸堂の造営や田地の寄進を行いました。善光寺信仰が広まるにつれ、全国各地には新善光寺が建立され、御本尊の模刻像が多く造られました。現在の前立御本尊はこの鎌倉時代の作です。鎌倉時代には多くの高僧の帰依も受けました。東大寺再建の勧進聖として有名な俊乗坊重源をはじめ、浄土真宗の宗祖・親鸞聖人、時宗の宗祖・一遍上人なども善光寺に参拝し、ご仏徳を深く心底に感得されました。

戦国時代に入ると、善光寺平では武田信玄と上杉謙信が信濃の覇権を巡り、川中島の合戦を繰り広げました。弘治元年(1555年)、武田信玄は御本尊様や多くの什宝、寺僧に至るまで、善光寺を組織ごと甲府に移しました。その武田家が織田・徳川連合軍に敗れると、御本尊様は織田家、徳川家の祀るところとなり、最後は豊臣秀吉が京都・方広寺の御本尊としてお奉りいたしました。そして、秀吉の死の直前、如来様がその枕元に立たれ、信濃の地に戻りたい旨をお告げになり、それによって慶長三年(1598年)、四十数年ぶりに善光寺にお帰りになられました。

戦乱の時代に巻き込まれ、荒廃を余儀なくされましたが、江戸幕府開府に伴い、徳川家康より寺領千石の寄進を受け、次第に復興を遂げて参りました。泰平の世が続き、一生に一度は善光寺詣りをと、多くの人々が参詣されました。念仏を唱えて一心に祈る者を皆極楽浄土に導いて下さると、一貫して男女平等の救済を説く寺院として知られていました。そのため、女性の参拝者が多いことが善光寺詣りの特徴でした。当時の参拝の様子を描いた絵馬にも、女性の信者の姿が数多く描かれています。江戸時代に入ってからも火災に遭いましたが、御本尊様の分身仏である前立御本尊を奉じて全国各地を巡る「出開帳」によって集められました浄財をもって、宝永四年(1707年)には現在の本堂を落成し、続いて山門、経蔵などの伽藍が整えられました。

https://www.zenkoji.jp/about/

案内図

その他の施設など

高尾燈籠

聖徳太子碑

回向柱

爪彫如来像

石造宝篋印塔

旧如来堂跡地蔵尊

大勧進

世尊院 釈迦堂

しおり

善光寺の概要

項目内容
山号定額山
院号
正式名信州善光寺、信濃善光寺
開基伝皇極天皇(勅願)
伝皇極天皇3年(644年)
宗派無宗派
本尊一光三尊阿弥陀如来(絶対秘仏)
別称 信州善光寺、信濃善光寺
札所西国三十三所(番外)
坂東三十三箇所(番外)
秩父三十四箇所(番外)
西山国師遺跡霊場(客番)

公式ページ

信州善光寺公式ホームページ
信州善光寺公式ホームページです。

住所&地図

住所:長野元善町491
電話:026-234-3591

善光寺の近隣

善光寺から高速方面へ走ると、左手に川中島古戦場史跡公園を通る。武田信玄と上杉謙信が幾度となく戦った川中島の合戦の舞台である。善光寺の目先で戦が度々行われたのは因果なものである。2017年7月1日から名称が変わったようで、それまでは八幡原史跡公園という名だった。隣接する八幡社には武田信玄と上杉謙信の一騎討ちの像がある。

上杉謙信側から書かれた小説では海音寺潮五郎の「天と地と」がおススメ。武田信玄側から書かれた小説では新田次郎の武田信玄がおススメだろうか。

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