剣聖・塚原卜伝:生涯負けを知らなかった鹿島新当流の祖

塚原卜伝の墓入り口歴史上の人物
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略歴

塚原卜伝(1489-1571)は戦国時代の剣豪、兵法家。剣聖と呼ばれる。

応仁・文明の乱(1467~1477)から22年、延徳元年(1489)2月に鹿島神宮のある常陸国鹿島(現在の茨城県鹿嶋市)に生まれる。

元亀2年(1571)2月11日死去。83歳。なお、生没年については諸説ある。

鹿島新当流(新当流、卜伝流、墳原(つかはら)卜伝流など)の始祖。卜伝の伝記は巷説が多く、生没年に諸説あることからも明らかでない。

同時代に生きた剣聖・上泉伊勢守信綱とは接点があるが、具体的にどのような接点だったかが錯綜している。

説によっては上泉信綱が卜伝の弟子であったり、卜伝が上泉信綱の弟子であったりする。

不思議なことに、二人の剣聖の直接の接点に関する記述や、試合の様子などがない。

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家柄

鹿島神宮祠官・卜部 (うらべ) 覚賢(吉川左京覚賢(よしかわさきょうあきかた)ともいう)の次男。塚原安幹の養子。初め朝孝、のち高幹(たかもと)。通称、新右衛門。

父・覚賢から家伝の鹿島中古流、養父・塚原安幹(やすもと)から飯篠長威斎(いいざさちょういさい)の天真正伝香取神道流を学ぶ。

鹿島神宮に参じて「一の太刀(ひとつのたち、いちのたち)」を考案し、鹿島新当流(新当流、卜伝流、墳原(つかはら)卜伝流など)を開いた。

『関八州古戦録』『卜伝流伝書』によれば、「一の太刀」は当時の鹿島を代表する剣士で鹿島城の家老でもある松本備前守政信(まつもとびぜんのかみまさのぶ)の奥義とされ、養父・安幹から伝授されたという。松本備前守政信から直接学んだという説もある。

実家の卜部氏は鹿島神宮に仕える家柄であり、「鹿島の太刀(たち)」という古くからの剣法を継承する家柄であった。

また、常陸大掾氏・鹿島家の四宿老の一つで、鹿島城の家老もつとめる家柄でもあった。

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第1回目の廻国修行

卜伝は、初名を朝孝(ともたか)といい、時期は不明だが、塚原城の塚原土佐守安幹(とさのかみやすもと)(塚原新右衛門安幹、しんうえもんやすもと)の家に養子に行った。塚原氏の本姓は平氏で、鹿島氏の分家である。元服して塚原新右衛門高幹(しんうえもんたかもと)(新左衛門尉(しんざえもんのじょう)という説もあり)と名乗った。

永正2年(1505)に16歳で第1回目の廻国修行に出て行く。

卜伝の弟子である加藤信俊による『卜伝遺訓抄』の後書によると、17歳のときに京都の清水寺付近で最初の真剣勝負をして相手を打ち負かした。以来、五畿七道、つまりは全国を廻って修行をしたようだ。

第1回目の廻国修行は15年に及び「真剣の仕合十九ヶ度、軍の場を踏むこと三十七ヶ度、一度も不覚を取らず。木刀等の打合、惣じて数百度に及ぶといへども、切疵、突疵を一ヶ所も被らず。矢疵を被る事六ヶ所の外、一度も敵の兵具に中ることなし。凡そ仕合・軍場共に立会ふ所に敵を討つ事、一方の手に掛く弐百十二人と云り」とされる。有名な真剣勝負に川越城下での梶原長門との対決がある。

鹿島に戻る

永正15年(1518)頃、鹿島へと戻り、松本備前守政信に師事したようだ。

松本備前守政信は高幹に千日間の鹿島神宮への参籠をすすめ、修行に励んで鹿島の大神より「心を新しくして事に当れ」との神示を頂き悟りを開いた。

こののち、ト部の伝統の剣を伝えるという意味で卜伝(ぼくでん)を号したと考えられる。卜伝斎(ぼくでんさい)ともいい、土佐入道と称した。

永正9年(1512)ころから鹿島一族の内訌が激化し、大永3年(1523)高天原の合戦となり、卜伝も奮戦して高名の首21ほかの戦功をあげた。

第2回目の廻国修行

ト伝は松本備前守政信のすすめで同年・大永3年(1523)に第2回目の廻国修行に出る。

2回目の際には、西日本から九州の大宰府や、山陰地方へも訪れたのではないかと思われるが、道程が不明である。

再び鹿島に戻る

修業中に実父の死が伝えられ、10年程で修業を終え、天文元年(1532)頃に鹿島に戻る。

塚原城の城主となり、天文2年頃、妻・妙(たえ)を娶り、10年ほどは、治政と弟子の育成に力を注いだ。

第3回目の廻国修行

天文13年(1544)に妻が病で亡くなると、ト伝は養子・彦四郎幹重(みきしげ)(彦四郎幹秀(ひこしろうもとひで)とも)に城主の地位を譲り、弘治3年(1557)第3回の廻国修業に出る。

70歳近いト伝は、自分が完成した「一の太刀」を伝えるべく、足利13代将軍・足利義輝(よしてる)や15代将軍・足利義昭、北畠具教(とものり)、細川藤孝(ふじたか)らに剣を教えたといわれる。

足利義輝と北畠具教には「一の太刀」を伝授したとされる。「一の太刀」は現在の鹿嶋には伝わっていない。

北畠具教はト伝を敬愛し、屋敷跡、塚原という広大な土地、塚原公園、塚原橋、塚原観音など、ト伝の名を伝えるものが現在でも残っている。

伊勢を離れたト伝は甲斐国で武田信玄に剣技を披露し、信玄を始め武将たちに指導したらしい。山本勘助、原美濃守、海野能登守などが弟子となっている。

この時の逸話として、『甲陽軍鑑』には、行列は80人の門人を引き連れたもので、大鷹3羽を据えさせ、馬三頭を引かせて豪壮なものであったと伝えられる。

甲斐を辞したト伝は下野の唐沢城主・佐野修理太夫昌綱(しゅりだゆうまさつな)の館に滞在し、5人の子のうち上3人に剣を教えた。二男・天徳寺了伯、三男・祐願寺は武芸者として世に知られるようになる。

鹿島へ戻る途中、ト伝は江戸崎の弟子・諸岡一羽(もろおかいっぱ)の家にも立ち寄った。諸岡一羽の他の弟子には唯一相伝が確認される雲林院松軒(弥四郎光秀)、真壁氏幹(道無)、斎藤伝鬼房(勝秀)らがいる。

こうして第3回目の廻国修行が永禄9年(1566)頃に終わる。

晩年

それから5年程、『鹿島史』によれば元亀2年(1571)2月11日に83歳で生涯を終えた。

『天真正伝新当流兵法伝脉』によれば、高弟・松岡兵庫助則方(まつおかひょうごのすけのりかた)の屋敷でだったという。

法号は宝剣高珍居士(ほうけんこうちんこじ)。墓は旧塚原城に近い梅香寺(ばいこうじ)跡にある。位牌は墓地近くの真言宗長吉寺にある。

松岡兵庫助は、慶長8年(1603)ころ、徳川家康の招きで江戸に出府し、秘伝の一の太刀を伝授して感賞を受けた。そして、新当流の正統を保持すべきの黒印状を与えられた。

松岡兵庫助の高弟として、甲頭刑部少輔(かぶとぎょうぶしょうゆう)と多田右馬助(うまのすけ)が有名。

お墓の場所

車で行くしかないが、すれ違うことができないほど道が狭いので、覚悟していくしかない。駐車場はある。

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塚原卜伝の墓
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塚原卜伝の墓
塚原卜伝の墓

所在地: 〒314-0047 茨城県鹿嶋市須賀

逸話

無手勝流

有名な逸話に「無手勝流」がある。『甲陽軍鑑』に書かれているもので、卜伝が琵琶湖の船中で若い剣士と乗り合いになり、相手が卜伝だと知った剣士が決闘を挑んでくるときの話。

卜伝はのらりくらりとかわそうとするが、若い剣士は卜伝が臆病風に吹かれて決闘から逃れようとしていると思いこみ、調子に乗って罵倒した。

周囲への迷惑を気にした卜伝は、若い剣士に船を降りて決闘を受けることを告げ、二人で小舟に乗り移った。

小舟が小島に近づくと、若い剣士は船を飛び降りて、島ヘ上がってしまう。だが、それを見た卜伝はなにくわぬ様子で、櫂を漕いで島から離れてしまった。

若い剣士は取り残されたことに気づき、わめくが、卜伝は「戦わずして勝つ、これが無手勝流だ」と言ったという。勝負事にまつわる訓話としてもよく引き合いに出される。

宮本武蔵

若い頃の宮本武蔵が、食事中の卜伝に勝負を挑んで斬り込んだ。

卜伝がとっさに囲炉裏の鍋の蓋を盾にして武蔵の刀を受け止めたとする逸話がある。

これは、フィクションである。二人は同時代人ではない。

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