北方謙三の「楠木正成(下)」を読んだ感想とあらすじ

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覚書/感想/コメント

★★★★★★☆☆☆☆

北方太平記の中で一貫しているのは、後醍醐天皇の評価の低さである。この小説の中でもたびたび言及している。一方で、評価の極めて高いのが大塔宮護良親王である。

大塔宮護良親王は、鎌倉に幽閉され、北条家の残党の蜂起によって鎌倉が襲われた際、足利尊氏の弟・直義によって殺された。

殺された地には今は鎌倉宮が建っている。明治期になってから建立されたので歴史のあるものではない。鎌倉宮の別名が大塔宮である。

だが、この宮には護良親王が幽閉された洞窟や殺された場所は残されているものの、護良親王の墓所は別ある。

鎌倉宮から10分ほど歩いた山の中に、手摺のない急な長い階段を上った先に、ひっそりとある。宮内庁管轄の墓所だが、朽ちる寸前の状態となっている。

小説の中で、護良親王が死んだ知らせを受けた後、楠木正成が河内に寺社の建立に没頭する姿が描かれている。楠木正成がその命のすべてをささげた護良親王の墓がこのような扱いを受けているのを知ったら、あの世で悲しんでいるにちがいない。

北方太平記(北方南北朝)

  1. 武王の門…懐良親王と菊池武光
  2. 破軍の星…北畠顕家
  3. 悪党の裔…赤松円心
  4. 道誉なり…佐々木道誉
  5. 楠木正成

内容/あらすじ/ネタバレ

帝が動いた。同時に護良も動いた。

初陣は負けなかった。帝ははじめから南都付近のどこかに拠ることになっていた。帝は笠置山におり、緒戦で六波羅を破った護良と合流した。だが、笠置に集まっている兵はわずかだ。

幕府が関東から大軍を発した。足利高氏や新田義貞といった源氏の流れをくむ武士もいる。

正成は帝に拝謁を許された。幕府はまだ強い。戦は長いものになる。正成は帝に、「正成の命があると聞かれるかぎり、決して負けてはおりませぬ」と告げた。

正成は金剛山麓の小高い丘に簡便的な城を築いて幕府の攻撃を受けることにした。石を大量に運び込ませている。

正成挙兵の知らせは畿内を駆け巡っている。播磨の赤松円心はじっと動かない。

六波羅が動き出した。和田助康が討伐の命を受けたが、正成と近い関係にある。密かに使者を往復させ、犠牲を出さずに、それでいて激しく戦ったように見せることにしていた。六波羅の動きは和田家からある程度は分かる。

帝と正成の挙兵は器に僅かな水を足したが、溢れるほどには至っていない。時が必要である。

正成は早く幕府本隊とぶつかりたかった。それで幻に抱いている不安は消えるはずだった。

赤坂城に唖然とする大軍が来た。赤坂を踏みつぶせば、畿内の混乱は収束するとみているのだ。囲んでいるのは七万の幕府軍だった。

大軍だが、まとまりには欠けている。士気が旺盛というわけでもない。

かねて決めていた通りに動いた。正成が死んだという噂を流した。帝は隠岐へ配流となった。

悪党の活路は幕府を倒した後に開ける。でなければ、決起の意味がない。朝廷直属の軍に悪党が組み込まれ、武士と替わっていくのだ。

全土を朝廷の領とし、そこからの税で軍を養っていくのだ。

問題は朝廷の政事だ。幕府を倒す中で、廷臣の質が変わっていくのか。

坂東から大軍を引き出す。それは幕府の負担を増やすことでもある。畿内で何か起きるたびに大軍を出さざるを得ないのが幕府の弱点だった。

正成は伯耆の名和湊へ向かった。名和長高に会うためだ。

一方、護良は吉野に入っていた。同時に、吉野に倒幕の旗を掲げ、令旨を全国に飛ばした。

護良は考えていた。帝の国というのは、民の国ということでなければならない。帝は、民の上に立つのではない。民そのものなのだ。それを帝はどこまで理解してくれているのか。

正成は千早城の構築を急いでいた。

そして、赤松円心の挙兵が伝えられた。円心の決起は大軍の京への発向と同時だった。下手をすれば軍の一部は播磨に向かうであろう。その覚悟もしているらしい。

吉野に七万、千早赤坂に七万。それだけの軍勢が動き始めていた。

三千規模の軍勢が赤坂城に攻め、九度撃退した。吉野でも同じような攻撃を受けている。

悪党の活路。それが正成の求めたものだった。

正成を潰させない。今が正念場だった。正成を潰させないために戦を起こす。それが円心の時だった。

すべてが動き始めた。赤坂城が落ちた。時を同じくして吉野が落ちた。

千早城にこもるのは楠木一党の五百である。攻撃は連日続いた。敵は十数万いる。兵が余っている。

兵糧が十分あっても、間断なく攻められ、兵たちの頬が削げている。城内は地獄の様相を呈し始めている。

大塔宮の兵が敵の兵站を狙い始めていた。

籠城して半年。千早城は疲労の極みに達している。有力な武士で綸旨を奉じたものはいなかったが、武士だけには動いてもらいたくなかった。有力な武士が動いた時点で、武士と悪党の対決というかたちが崩れる。

だが、足利高氏が丹波で反幕兵を掲げた。この瞬間、正成が、大塔宮が、円心が思い描いた倒幕の形が崩れ去った。

あとは倒幕という行為があるだけだった。

六波羅が潰れるのはあっという間だった。

京の治安は保たれた。足利軍が機能的に動いたのだ。六波羅の代わりに足利が現れただけだった。

北条の支配が一掃された分、内部の複雑さが消え、いっそう純粋な武士として以前より強く存在しているようだった。

不意に、正成は両眼から涙があふれ出してくるのを感じた。

帝は暗愚だった。恩賞のやり方がそれをはっきりと尊氏に認識させた。

尊氏は大塔宮から戦をする力だけを奪うことに心を砕いてきた。まずは赤松円心を離した。大塔宮をさせる大きな力の一つが京から消えた。あとは楠木正成だった。正成さえ排除すれば大塔宮、いや、朝廷が力を失う。

大塔宮が正成とともに作ろうとしたのは、まぎれもなく朝廷の軍だと、尊氏は読んでいた。それを理解する器量を帝が持っていないというのが、皮肉なことに尊氏の救いとなっていた。

大塔宮が捕縛された。これで終わりかと正成は思った。帝は自らの首を絞めた。

処分も早かった。鎌倉に流罪。そして鎌倉で北条高時の遺児を擁した反乱がおき、その最中、大塔宮が死んだ。

その知らせを受けた正成の中には、どうしようもない、荒涼としたものだけがあった。そして憑かれたように、河内に寺社を建立し始めた。

大塔宮(護良親王)ゆかりの地

鎌倉宮(大塔宮)南北朝時代の護良親王ゆかりの場所
鎌倉宮(大塔宮)の紹介と写真の掲載。北方謙三氏の南北朝ものを読み終えて、訪ねたくなった場所。護良親王(もりながしんのう)を祭神とする。別名 大塔宮(おおとうのみや)。
鎌倉の護良親王墓所 南北朝時代の悲劇の皇太子
鎌倉の護良親王墓所の紹介と写真の掲載。北方謙三氏の南北朝ものを読み終えたばかりで、ゆかりの地を訪ねようという目的があった。その一つが「大塔宮」こと護良親王の墓所。

本書について

北方謙三
楠木正成(下)
中公文庫 約三〇五頁

目次

第四章 遠き曙光
第五章 雷鳴
第六章 陰翳
第七章 光の匂い
第八章 茫漠
第九章 人の死すべき時

登場人物

楠木正成
楠木正季…正成の弟
寺田祐清(鳥丸)
加布
尾布
和田助康
護良親王(大塔宮)
北畠具行
赤松円心
赤松則祐
金王盛俊
服部元成
五辻宮
名和長高
足利高氏

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