宮城谷昌光の「奇貨居くべし」(第四巻、第五巻)を読んだ感想とあらすじ(最高に面白い!)

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覚書/感想/コメント

★★★★★★★★★★
文庫版あとがきで、この本をつねに座右に置いて苦しさを凌いできたという読者を紹介している。宮城谷昌光氏もこれに感動したようであるが、私もこれを知ってとても感動した。その位、この本には訴える力があるのである。

後半の二冊では呂不韋が政治家の道を歩み始める所から始まる。

呂不韋の行った大きな事業の一つに「呂氏春秋」の編纂がある。八覧、六論、十二紀にわかれ、二十余万字の書である。呂不韋が個人で為した文化大事業だ。

これは決して傲りから為した事業ではない。

宮城谷氏は呂不韋を傲慢な人間とは決して捉えていない。

それは、

『運には盛衰がある。しかし徳には盛衰がない。徳はかたちのない財だ。その財を積むにしかず、だ』

と言わせているとおりである。

さらに、呂不韋の政治が性急な考えの基に行われたわけではないことも強調している。

次の言葉なんかは印象的であり、現在においても考えさせられることが多いだろう。

『 急進的な改革は、ほとんど失敗している。
歴史が教えていることとは、そういうことである。古昔、短期間に大改革を成功させたのは、鄭の子産がいるのみで、その事績は奇蹟の色あいをもつ。』

日本の場合に置き換えてみても、同じことがいえる。

時代小説や歴史小説を良く読む人ならば、江戸時代における改革の内で、寛政の改革、天保の改革が頓挫したことを知っているだろう。

急進的な改革を成功裡におさめれば、歴史に名を刻むことができるかも知れないが、それは上記に書かれたように奇蹟の色合いがなければなし得ないものではないかと思う。

政治家が奇蹟をあてにするようでは国民としては困るわけで、とすれば、奇蹟の色合いがなければなし得ないような急進的な改革を行おうとしない方が国民のためであると思う。

最後に。

「奇貨居くべし」の文庫本は春風篇、火雲篇、黄河篇、飛翔篇、天命編と五冊あり、この順なのだが、ハッキリ言って順番がわかんねぇし、わかるわけがねぇ!!

少なくとも番号を振って、その後に「なになに篇」とつけて欲しい。読者にとって不親切きわまりない。これは出版社の責任である。

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内容/あらすじ/ネタバレ

小環が疫病で死んだとの知らせを受けた。

藺相如が呂不韋を招いた。藺相如に会った栗は刎頸の交わりについて語った。藺相如は上卿となっている。

その藺相如が呂不韋に伴侶のことを問うた。実は僖福に子がいるからであり、それが呂不韋の子であることを知らせた。

呂不韋は本拠を衛の濮陽にすえることにした。

呂不韋が留守にしている間に、中間において秦が韓を大破し、魏を壊乱させた。指揮をとったのは魏冄だった。

この魏冄に黄金のある場所を教え、呂不韋は商売の資金を得た。商売を好まぬ魏冄だったが、呂不韋に乗ることにした。そして、呂不韋は鮮乙を迎えに行った。

途中、申欠と再会することとなる。また、慈光苑で生死不明だった高睟の消息を知ることにもなった。

濮陽での商売はすんなりとはいかなかった。最初において軽くつまずいてしまったのだ。このとき、かつて孟嘗君の食客であった段季と再会する。

呂不韋は鮮乙、雉、栗らを得て、ひたすらに商売に打ち込んだ。

呂不韋は申欠の情報収集能力の高さを買い、配下を養わせて情報の収集にあたらせた。

華陽の戦いとよばれる大戦がすぎて六年後。呂不韋は三十二歳となっていた。

陀方から知らされたのは、秦の太子が魏で亡くなったという。次代の秦王が客死したのだ。

魏冄にも勢威のかげりが見えてきている。最近では秦王にとりいっているものがいる。范雎(はんしょ)である。これが昭襄王に知恵をつけていた。

魏冄が宰相を辞めさせられ、穣侯の印を返納させられた。そして生母の宣太后をも追い出した。

呂不韋にとっては憂慮すべき事態であった。

秦の太子が決まった。安国君である。

呂不韋は邯鄲へ荷をとどけるために向かった。この邯鄲で呂不韋は大路に突然黄金の気が立ったのを見た。

趙には人質になっている秦の公子がいる。公子は安国君の子で異人(いじん)という名である。

呂不韋は公子異人をみて「奇貨居くべし」と思った。

呂不韋は一世一代の投機をすることにした。そのため、本拠を邯鄲に移した。

幸いなことに太子・安国君は嫡子を決定していない。正室の華陽夫人に子がいないためである。

呂不韋は異人に会い、とくとくと説明した。異人は愚人かもしれないが、悪人ではない。それに、愛すべき所がある。辛酸に満ちた過去をへらへらと冷笑するようなことはしないだろう。

なにはともあれ、呂不韋は異人の名を高め、本国に聞こえるようにしなければならなかった。

呂不韋は秦都へゆくことにした。これで全てが決まる。

呂不韋は嫡子決定のため華陽夫人周辺から攻めることにしたが、驚いたのはこの華陽夫人は南芷であったことである。

そして呂不韋の説得が功を奏し、異人が安国君の嫡子となった。成人した異人は名を子楚(しそ)と改めた。

鮮芳が小環の遺児・小梠を呂不韋に引き合わせた。

この小梠を子楚が見定めた。余りにも強く執心するので、呂不韋は子楚に愛想を尽かしつつあり、いったん側を離れてしまう。こうした時期に藺相如が亡くなったことを知った。

藺氏を弔問で訪れ、そしてそのまま楚へ向かい、黄歇の世話になった。その頃、邯鄲では小梠が子を産んだ。政(せい)と名付けられた男の子こそが後の始皇帝である。

黄歇のところで呂不韋に付いてきている申欠が高睟の姿を見た。その高睟の手のものが呂不韋を襲ってきた。

どうやら、秦の公子である子楚か、その傅である呂不韋を殺したいものがいるようだ。

邯鄲に戻った呂不韋をみて、子楚は涙を流して喜んだ。

秦軍が邯鄲に攻め寄せてきた。

子楚への風当たりが強くなり、呂不韋は子楚を脱出させることにした。ついに人質生活から抜け出せた子楚であるが、邯鄲には妻子を残すこととなってしまう。

西周が滅んだ。翌年、紀元前二五五年から秦の時代となる。

魏冄が死に、陶が魏に攻められ滅んだ。この時期、呂不韋に関係の深かった人物達の死が相次いだ。

呂不韋は魏冄が白起を見つけたように、未知の将器を探し出さねばならないと考えていた。

申欠は一人いるという。蒙驁(もうごう)という。

昭襄王が死んだ。太子が秦王となり、子楚が太子となる時が来たが、驚くべき事態が待ち受けていた。就いたばかりの秦王が死んだのだ。在位わずか三日であった。

すぐさま子楚が即位した。荘襄王である。

小梠と政が呼び戻された。

十歳の政は呂不韋に対していい感情を持っていない。それを感じ取り、呂不韋は軽い失意を覚えた。

呂不韋は丞相となった。すぐさま蒙驁のもとにいき、軍を率いてもらう旨を伝えた。不遇な老臣は感激した。

韓と東周が秦の邑を攻撃したとの知らせを受け、呂不韋は見くびられたものだと思った。韓王は荘襄王が静座していた意味合いを取り違えていたのだ。

すぐさま蒙驁に兵を率いさせた。そしてこの出陣で、韓の最大の軍事都市二つを攻め落とした。それはかつて秦の武将でなし得たものがいない偉業だった。

秦の軍は捕虜と住人を無下に扱うことがなくなっていた。こうした噂はすぐさま各地へと駆け抜けてゆく。

蒙驁が攻め落とした邑は十を超えている。恐ろしいくらいの進撃のはやさは、秦軍が乱暴をはたらかないということが大きかった。邑が頑強な抵抗を示さなくなったのである。

だが、ここに信陵君が立ちはだかることになる。

荘襄王が亡くなった。秦王政が立ったのは紀元前二四七年である。

この頃に一人の論客が呂不韋を訪ねてきた。李斯(りし)である。

李斯は政に上手く取り入った。陰謀家である政と李斯は信陵君を策で排除した。

政は陵墓を造営し始めた。呂不韋は無益なことをすると批判的であった。

やがて政が呂不韋から実権をはぎ取ろうとしていることを知り、身をひこうかと考えた。

そうしたときに、鄭国がやってきて灌漑のための大規模な用水路を造ってはどうかと提案してきた。後世に語り継がれる「鄭国渠」のことである。

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本書について

宮城谷昌光
奇貨居くべし(四、五)
中公文庫 5冊計約一七八〇頁
戦国時代 紀元前3世紀

目次

刎頸の交わり
空中の舟
最初の関門
時代の魂
濮陽の難
路傍の花
衛の帰趨
時勢の人
太子の死
魏冄(ぎぜん)の失脚
車中の貴人
新しい道
祥風起つ
天啓の時
招引の舞
崖下の賊
脱出
秦の時代
陶の滅亡
昭襄王の死
ひとつの金貨
文信侯
成皋の陥落
夢幻泡影
鄭国渠
善戦の人
無声の声

登場人物

呂不韋
維…妻
鮮乙



小琦…畛の姉
鮮芳…鮮乙の妹
段季
申欠
飛柳…申欠の妻
向夷
羊番

魏冄(穣侯)…秦の宰相
陀方
随邦…陀方の子
白起…将軍

西袿…旬の姉
黄外
田焦

宣太后…魏冄の異腹姉、昭襄王の母
昭襄王…秦の王
范雎
安国君…太子
華陽夫人(南芷)…安国君の正室
子楚(異人、荘襄王)…安国君の嫡子、太子
小梠…小環の子
政…後の始皇帝
申陸(申六)
蒙驁…将軍
李斯
恵文王…趙王
藺相如…上卿
廉頗…将軍
僖福
碧…僖福の子
黄歇(後の春申君)…楚人
孫(荀子)…戦国期の思想家
唐挙…人相見
倓慶…剣術の達人
叔佐
高睟…高告の子
蔡沢
鄭国

戚芝…衛の商人
甘単…衛の商人
竿

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