幕末の分かりづらさ

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津本陽氏の「龍馬」を読み終えた。

恐らく2010年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」が放映される直前には新装版で登場するであろう作品だ。

他には司馬遼太郎氏の「竜馬がゆく」を筆頭に山岡荘八氏の「坂本龍馬」などが並ぶはずである。

読み終えて思うのは、「相変わらず幕末というのは分かりづらい」ということである。

理由は単純である。

視点を一点に絞れないからである。

視点を一点に絞るというのは、例えば戦国時代の終焉を描くならば、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康のいずれかを主人公にすればよいということで、その主人公の視点から時代を眺めればかなり分かりやすい。

それ以前の戦国時代は、地域ごとの争いでしかなく、その場合はその地域で勢力を誇った人物を主人公にすればよい。

だが、幕末は誰か一人が時代を変革したというわけではないために、視点を定めることができない。

革命期の特徴といってもいいかもしれず、これは日本の幕末・明治維新だけでなく、フランスやイギリスなどの諸外国の革命期を考えてみればいい。

つまり、ある時期を代表する人物はいるが、その時代の主人公がいないのである。

大まかには時代の主導を握り続けたのは薩摩藩、長州藩、徳川幕府、京の朝廷であるが、それぞれの勢力の顔となる人物が時期とともに変わるし、考え方も変わる。

社長が替わると会社の方針が変わるのと同じで、これに類することが四つの勢力の中でしょっちゅう起きたから厄介なのである。

この他に外的要因としての諸外国がいる。

では、この軸となる勢力の外側にいて、第三者的に時代を眺めていた人物がいるかというと、それがいないのもこの時代の特徴である。

もちろん第三者的な人物は常にいた。だが、幕末期を通じてとなると誰もいない。その時々にしかいなかったのが幕末という時代である。

結局、時代の証人というのが不在であり、それでいて、多くの時代の証人がいるように見えるというのが幕末の不思議さとなり、理解のしづらさとなっている。

最後に。

津本陽氏の「龍馬」は読みづらい部分があるので、苦戦を覚悟して挑まれることを忠告しておく。

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