塩野七生の「ローマ人の物語 第2巻 ハンニバル戦記」を読んだ感想とあらすじ(最高に面白い!)

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覚書/感想/コメント

★★★★★★★★★★

時代の申し子であるハンニバルとスキピオ・アフリカヌス(大スキピオ)という二人の天才が登場する。

ハンニバルはそれまでの戦闘の常識を覆す戦の革命児であった。このハンニバルにとっての悲劇は、最も優秀な弟子が敵方の将スキピオとして現われたことであった。

そのスキピオはガチガチに確立された政治体制の中から生まれた共和制の異端児であった。スキピオは本来なら就くことができないはずの役職にも異例の扱いを受けて就いている。時代のなせるわざである。

そのいずれを好むかは人それぞれだろうが、カエサル登場前のローマにおいて最も輝きを放った人物達である。

本書「ハンニバル戦記」では紀元前二六四年から前一三三年までの百三十年間が対象となる。カルタゴとのポエニ戦役を中心に、ギリシアやシリアまで及ぶ対外戦争の時代である。

筆者は言う。「プロセスとしての歴史は、何よりもまず愉しむものである。」「プロセスであるがゆえに楽しみともなり考える材料も与えてくれる、オトナのための歴史である。」

塩野七生氏の言うように、オトナのための歴史を愉しもう。

紀元前二六五年。ローマの元老院に救援を請うメッシーナの代表が来ていた。メッシーナはシチリアの強国シラクサの矢面に立たされていた。シチリアの西半分はカルタゴの支配下にある。だが、ローマ軍団はいまでに一度も海を渡ったことはなかった。軍船はおろか、輸送船団も持っていなかった。

第一次ポエニ戦役の最初の年となる紀元前二六四年。メッシーナ救援に向かうローマ軍を率いた執政官は、アッピウス・クラウディウスであった。二年目にはヴァレリウスとオタチリウスの二人の執政官を送り込んだ。四個軍団の投入である。

シラクサの僭主ヒエロンはローマと同盟を結び、彼の存命中守り続ける。それはローマが苦境に陥った時もそうであった。

が、逆にカルタゴの方が危機感を強めてしまった。カルタゴはシチリア戦線に本気で取り組むことになった。やがて、ローマは後戻りできないところまで追い込まれ、カルタゴとの全面戦争に突入する。第一次ポエニ戦役はシチリアを戦場に展開する。

軍船建造のノウハウのないローマはカルタゴの船を模倣することにした。この船団を率いたのはスキピオ・アフリカヌス(大スキピオ)の祖父グネウス・コルネリウス・スキピオであった。

だが、海軍のなかったローマの初めての海軍の将となったスキピオは早々と捕虜となる。もう一人いた執政官のドゥイリウスは船に「カラス」と名付けられる新兵器を考え出した。これが功を奏し、ローマ海軍はカルタゴ海軍を破る。

そして、第二戦、第三戦もカルタゴ相手に勝ってしまう。長期にわたって実戦経験のない軍隊は弱体化を避けられない。カルタゴは海運国ではあっても、海軍国ではなくなっていたのだろう。

だが、思わぬ落とし穴があった。海になれていないローマ軍は暴風雨に遭い、多くの船と人を海にのまれてしまう。

紀元前二四九年、戦役の十六年目。ローマの疲弊も目に見えるようになっていた。海難事故による損失が響き、成人男子数が減少し、国庫も空になっていた。一方のカルタゴは大海難事故を起こしておらず、また兵士も傭兵であることから自国民の数には影響しなかった。消耗度合いはローマの方が強かった。

そのカルタゴがはじめて才能豊かな若い武将を送り込んできた。ハミルカル、後にローマの悪夢となるハンニバルの父である。

だが、ハミルカルの前線もむなしく、第一次ポエニ戦役は二四一年に終結する。そして、カルタゴは四百年にわたるシチリアの権益の全てを失い、地中海の西半分を失った。

ハミルカルはハンニバルを連れてスペインに移り住んだ。そして、ハミルカルが移住してきてから九年後にはスペインの東南部を勢力圏に治める。このハミルカルのあとを継いだのは娘婿のハシュドゥルバルであった。有能な人物であったが恨みを買い殺された。この後を継いだのが二十六歳になっていたハンニバルであった。

二十九歳になったハンニバルは全軍を率いてピレネー山脈を越え、ローヌ川を渡り、アルプスを越えイタリアに侵攻する。当時、ローマの防衛戦は北を除き、鉄壁であった。その北もアルプス山脈がそびえ立っている。

本拠地カルタヘーナを出発したハンニバルの軍団は歩兵九万に騎兵一万二千、三十七頭の象であった。本拠地の防衛には次弟のハシュドゥルバルに託した。末弟のマゴーネは遠征軍に同行した。

だが、この軍勢は途中ローヌ川で戦力を失い、アルプスを越えた時には二万の歩兵と六千の騎兵までに減っていた。ハンニバルはすぐに一帯のガリア人の懐柔に努めた。

ハンニバルは第一次ポエニ戦役でカルタゴが敗北したローマ連合の鉄の結束にくさびを打ち込むつもりでいた。イタリアを戦場とすることに執着したのは、同盟諸国をローマから離反させるためである。

ローマはハンニバルに連戦連敗する。ローマは独裁官擁立を決め、ファビウス・マクシムスが就任する。かれの戦略はただ一つ。ハンニバル相手には戦闘に訴えないこと。そして敵軍の消耗をまつ。だが、この戦略は成果が見えるまでに時間がかかる。

それにしびれを切らしたローマは積極策にでて裏目にでる。そしてローマは「カンネの会戦」で歴史的な敗北をする。追い打ちをかけるように、ガリアの地で二個軍団壊滅の報がもたらされた。合計で八万の兵士を失ったのだ。ローマはことごとくハンニバルの騎兵力に負けていた。それに気がついていながらも、騎兵力の増強に結びつけなかった。

これを見て、ローマ連合は南の一角から崩れていく。痛打はカプアの離反であった。

紀元前二一五年からのローマは東にマケドニア、南はシラクサ、西はスペイン、北はガリア民族、イタリアにはハンニバルがいるという最悪の状況に陥った。対する策は、東西南北全てでハンニバルへの補給路を断つことであり、ハンニバルを孤立させることであった。

ローマは敵には将はハンニバルしかいないことを知っていた。要はハンニバルと戦わなければいいわけで、彼が率いていないカルタゴ軍にはローマ軍は容赦なく攻撃を加えた。

やがて、ローマの反撃も功を奏しはじめ、ハンニバルを南イタリアに釘付けにすることができる。

元老院に年端もいかない若者が現われた。二十四歳のプブリウス・コルネリウス・スキピオ、後にスキピオ・アフリカヌス(大スキピオ)と呼ばれる若者である。彼は三十歳以上でなければ資格を得られない元老院議員でもなかったが、二個軍団の総指揮をまかされ、スペインへと派遣された。

スペインに着いたスキピオは周到な準備をし、たった一日の戦闘で本拠地のカルタヘーナを攻略した。だが、スペインのカルタゴ主軍団は健在である。これに対抗するため、重装歩兵の片刃の剣を両刃の剣に変える。後々までスペイン剣(グラディウス・ヒスパニエンシス)と呼ばれ、重装歩兵の公式剣となるものである。このように、スキピオは武器と防具の改良をした。

その頃、イタリアではローマが南伊の三大都市国家を再復し、ハンニバルを長靴の先端に追いつめた。

スペインではベクラの会戦が行われた。スキピオの犠牲者は数えるほどだったという。次にスキピオはイリパでもカルタゴ軍を完膚無きまでに叩きつぶした。

スキピオは戦時中の特例ということもあり、本来ならなれない執政官となりシチリアに赴く。すぐに軍団の編成に着手、そして、この後スキピオはアフリカの地を踏む。ハンニバルがやったことと同じことをスキピオはやろうとしていた。

カルタゴは自国領内での会戦で敗北を喫して、完全なパニック状態になった。そして、ローマから提示された条項の全てを受け入れる。

が、これも決裂し、スキピオとハンニバルの決戦が行われた。「ザマの会戦」である。これで、ローマの勝利は決定的となり、第二次ポエニ戦役は終わった。

この余韻のさめやらぬ内に、ローマはマケドニアに対してお灸をすえる必要に迫られる。これを皮切りに、ローマはシリアとも対決し、このいずれも攻略した。

アフリカヌスの尊称で呼ばれ、元老院の「第一人者」の地位を長年独占したスキピオは反スキピオのリーダー格のマルクス・カトー(大カトー)の執拗な追求に、ついにローマを去る。失脚したのだ。

スキピオが失脚し、死んだ後に、マケドニア王国をローマは攻めざるを得なくなり、王国を滅亡させる。そして、ついにカルタゴも滅亡の日を迎える。

本書について

塩野七生
ローマ人の物語2
ハンニバル戦記
新潮文庫 計約六二五頁

目次

読者へ
序章
第一章 第一次ポエニ戦役(紀元前二六四年~前二四一年)
第二章 第一次ポエニ戦役後(紀元前二六一年~前二一九年)
第三章 第二次ポエニ戦役前期(紀元前二一九年~前二一六年)
第四章 第二次ポエニ戦役中期(紀元前二一五年~前二一一年)
第五章 第二次ポエニ戦役後期(紀元前二一〇年~前二〇六年)
第六章 第二次ポエニ戦役終期(紀元前二〇五年~前二〇一年)
第七章 ポエニ戦役その後(紀元前二〇〇年~前一八三年)
第八章 マケドニア滅亡(紀元前一七九年~前一六七年)
第九章 カルタゴ滅亡(紀元前一四九年~前一四六年)
「マーレ・ノストゥルム」
年表
参考文献

映画 ハンニバルを扱っている数少ない映像。ガーディアン ハンニバル戦記(2006年)も別の視点でこの時代を眺めることができる。

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