火坂雅志の「天地人(下)」を読んだ感想とあらすじ

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覚書/感想/コメント

★★★★★☆☆☆☆☆

第十三回中山義秀文学賞

2009年NHK大河ドラマ「天地人」原作。

直江兼続の前立の「愛」についてはいくつかの説があるという。

一つは民を愛する愛民説で、米沢の地で長年にわたって伝えられている。

研究者の間で一般的なのは、軍神の愛宕大権現、あるいは愛染明王への信仰をあらわすという説で、上杉謙信が毘沙門天の「毘」を軍旗に用いたのに習ったというのが論拠である。

筆者は長いこと、後者の説を信じてきていたそうだ。

だが、上杉謙信の「大将の根底とするところは、仁義礼智信の五を規とし、慈愛をもって衆人を憐れみ・・・」という言葉を発見して考えが変わったという。

慈愛、すなわち仁愛であり、人に対する深い思いやりの精神である。この仁愛の「愛」が、信義を貫く「義」とならぶ武士道の根本精神に他ならないそうだ。

民の安寧を守ることを第一に考え、いかなるときも、民への仁愛の心を忘れてはならぬ。人を慈しみ、思いやり、広い愛を持って国を治める。それこそが己の義である。

仏教では「愛」は愛欲をあらわし、煩悩の原因として否定的な意味に捕らえられた。

だから、軍神説というのが研究者の間で一般的になるのだが、火坂雅志氏は従来とはことなる仁愛という概念で「愛」を捉え、これが「義」にも通ずると述べているところが興味深い。

さて、後半戦となる本書であるが、上巻から続いて、登場理由に疑問符が付く人物がいる。

一人は上巻の最初で登城した「初音」。そして、下巻で登城する「お涼」である。

この二人は一体どういった役回りを受け持たせているのかに苦しむ登場人物である。

登場させるなら、どちらかだけで良かっただろうし、もしくは、登城すらしなくても何の問題もなかった登場人物だったように思う。

単に物語に華を持たせるつもりでということならば余計な登場人物であった。

直江兼続に関するエピソードにも少々不満が残る。

これだけのボリュームであるのだから、兼続のエピソードの中で最も有名なものに一つである、伊達政宗が自慢した小判を、扇子の上で転がしたというものは入れておいて欲しかった。

先ほどの疑問を投げかけた「初音」と「お涼」の部分を削れば十分に挿入できた逸話であろう。

本多正信の次男・政重を自分の娘の婿に迎え、徳川政権との関係を緊密にしたという話しは、有名にもかかわらず、他では余り書かれることがないので、これが書かれているのは良かったのではないか。

他で余り書かれないのは、徳川政権と結びつくにあたり、選んだ相手が本多正信という謀臣だったため、イメージが良くないと言うことも関係しているような気がする。

最後に。これらの有名なエピソードの他にいくつか余り知られていないエピソードを入れてくれれば、とても良かったのにと思う。

直江兼続の関連小説

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内容/あらすじ/ネタバレ

上杉家へ人質としておもむく真田幸村の姿が北国街道にあった。幸村のまわりには木猿をはじめとして特殊技術を身につけたものが多い。

この幸村を直江兼続が出迎えた。下馬の礼までとってのことに幸村は驚いた。

義の旗印を掲げることによって、生きることの意味を皆に問うた、という兼続の言葉は十九才の幸村の胸に染み入った。

この幸村のところに、徳川家康が上田城攻めを決断したとの知らせが来る。兼続は幸村を上田に戻した。

この上田攻めとは別に、羽柴秀吉が越中に出陣してくることが石田三成からの知らせでわかった。佐々成政を成敗するための出陣だ。

この天正十三年(一五八五)七月。羽柴秀吉は関白の叙任を受け、同九月豊臣姓を下された。秀吉の天下が刻々と固まりつつある。

富山無血開城の翌日、秀吉から景勝に会いたいとの申し入れがあった。場所は上杉側にまかせるという。会見場所は落水城(おちりみずじょう)になった。

この会見の直前、信州から急報がもたらされた。真田昌幸が徳川家康を敵に回した神川合戦のことであり、真田の奇策が天下に鳴り響いた合戦だ。

秀吉に従うものは二十人もいない。この会見には秀吉に石田三成、上杉景勝、直江兼続の四人が臨んだ。石田三成とは初めて会う。三成と兼続は同じ二十六才であった。

ここで秀吉は上方見物に招きたいという。つまり己に従えということだ。景勝は上洛することを決意する。

天下は秀吉と家康を中心に回っている。

徳川が去ったことによって、真田幸村が春日山城に戻ってきた。幸村は上杉家にとって獅子身中の虫となっている新発田重家攻めに参加したいと言ってきた。

天正十四年(一五八六)、豊臣・徳川の関係が一転して和解の方向へと進んだ。

上杉の上洛は五月と決まった。途中で石田三成の出迎えを受け、六月七日に京へ到着した。同月十四日に上杉景勝は大坂城へ登城した。景勝は秀吉自らの茶でもてなしを受け、兼続と千坂対馬守は千利休のもてなしを受けた。

天下は広い。兼続は上杉家の立場を守っていくことの難しさを感じていた。

兼続は見聞を広めるため堺へ向かった。ここでお涼という娘と出会った。

その足で鉄砲師・和泉屋松右衛門をたずねた。ここでは鎮西(九州)攻めが近いだろうという話が出た。

大坂に戻ると、カラス組の一志大夫が真田幸村が消えたという知らせを持ってきた。兼続は「義」の心が通じる若者と信じていただけに裏切られた気分であった。

天正十四年十月十四日。徳川家康が上洛の途についた。

翌天正十五年、上杉景勝は新発田重家攻めを行い、激戦の末、自刃に追いこんだ。ようやく越後が平定された。

翌年、兼続は景勝に従って再び上洛する。このときに従五位下山城守を拝命し、以後、直江山城守と称されるようになる。

九州平定も終わり、関白秀吉の次の目標は東国である。北条をはじめ、奥州には伊達がいる。

京にいる間に兼続は利休の茶の湯を学びたいと思っていた。ここで出会ったのが、先だって堺で出会ったお涼という娘だった。お涼は利休の娘であった。

この年の秋、景勝は家老職を廃して兼続に国政をまかせると宣言した。兼続の単独執政態勢である。

佐渡平定の準備の間にお船が懐妊した。

佐渡を平定して佐渡金山の開発を積極的に進めることになった。

お船が産んだのは娘で、お松と名付けられた。

天正十七年(一五八九)十一月。小田原攻めが決まり、翌十八年に秀吉は京を発した。

東海道を進む部隊とは別に、信州方面から進む別働隊に上杉景勝、前田利家、真田昌幸らがいた。兼続の兜の前立には「愛」の文字をあしらった。

この信州からの部隊は大道寺政繁守る松井田城を攻めたが、持久戦にもつれ込んだ。四月十九日に陥落した。この後、川越城、松山城、鉢形城を攻めた。

石田三成が兼続を訪ねてきた。ここで三成は秀吉を中心とする中央集権の考えを持っていることを兼続にあかした。邪魔になるのは徳川家康のような古強者たちだ。

関東仕置を終え、会津には蒲生氏郷が入り、上杉家は庄内三郡に佐渡両国、酒井湊などを手に入れ九十一万石に膨らんだ。

明けて天正十九年(一五九一)。兼続は景勝に従って上洛した。上洛中に石田三成の紹介で立花宗茂に会った。このときに唐入りの話が出た。朝鮮、明への出兵のことだ。

だが、政権内部で反対者がいる。千利休や秀吉の弟・秀長、徳川家康らなどだ。ここに三成が推し進める中央集権の考えを持つものと、地方分権を考えるものとの意見の対立が起きていた。

この均衡が崩れたのは秀長が死んでからである。政局が一気に動き始めた。利休が追いつめられ、切腹して果てた。娘のお涼の行方は知れなくなった。

五月下旬、景勝と兼続は春日山城に戻った。ほどなく、奥州の葛西と大崎を平定せよとの命が来る。この出羽庄内への出陣と入れ替わるように、景勝夫人・お菊の付き添いという形でお船が上洛の途についた。

出羽の平定で秀吉の天下統一はなったが、愛児・鶴松が病死した。甥の秀次を後継者に指名し、秀吉は太閤を名乗り、唐入りの計画に熱中していく。

明けて文禄元年(一五九二)、朝鮮出兵の軍令を発した。上杉軍は肥前名護屋城で後方支援をおこなった。

文禄三年(一五九四)の正月を兼続は春日山城で迎えた。これが兼続と景勝主従にとって春日山で迎える最後の正月となる。

文禄四年、会津の蒲生氏郷が死んだ。同年七月、秀吉は関白秀次を追放し切腹を命じた。この年にお船は平八景明を産んでいる。

上杉家が会津に移封されることになった。奥州の要に上杉家を用いることにしたのだ。加増され百二十万石となる。増やした石高で、徳川、伊達に備えよということなのか。兼続はそう解釈した。

新たな百二十万石の内米沢三十万石は直江兼続の領する所となる。

会津に移るにあたって、越後にある仕掛けを施すことにした。

豊臣秀吉が世を去った。景勝・兼続主従は会津経営に忙殺されていたが、兼続が一足先に伏見に行くことにした。追って景勝も伏見にやってきた。

徳川家康は豊臣政権の定めを公然と破る閨閥づくりに走り始めていた。政治状況は緊迫の度合いを増していく。石田三成と徳川家康との主導権争いが激しさを増していたのだ。

慶長四年(一五九九)、上杉景勝は徳川家康に面会して会津に帰国した。

帰国の途中で兼続は石田三成を訪ねた。三成は毛利を大将に立て、徳川家康に対抗する決意を示した。

慶長五年(一六〇〇)四月。徳川家康は上杉家に詰問状を発した。詰問状をしたためたのは西笑承兌であり、宛先は直江兼続であった。

この詰問状に対しての返書が、世にいう「直江状」である。

六月、大坂城では上杉討伐の軍議が開かれ、東征軍十万余が東海道を進み始めた。

南からの徳川家康の動きに呼応するかのように、伊達政宗が動いた。

石田三成決起の知らせが届いた。兼続は早すぎると思った。上杉軍が徳川軍の先鋒を叩いて、その後に決起するというのが兼続の描いた図であった。

家康の軍が西へと動き始めた。これを進撃することを兼続は景勝に進言したが、背後から追い打ちをかけるのは上杉の義ではないといいきり、追撃は成らなかった。

家康がいなくなった間に上杉家は最上と伊達領を切り従えることにした。最上を攻めている間に関ヶ原の戦いが一日で決したとの知らせが飛び込む。

上杉軍は長谷堂城の包囲を解き、撤退戦を開始した。

関ヶ原の戦いの戦後処理が始まった。この時に伊達政宗が動いたが、松川合戦で上杉軍に散々に破られる。

上杉家は徳川と和議をすすめることにした。交渉相手に選んだのが本多正信だった。上杉家は米沢三十万石に減らされることになった。米沢への移住は困難を極めた。

兼続は上洛して本多正信の次男・政重を自分の長女・お松の婿に迎えたいと申しでた。この話は兼続の実弟・大国実頼をひどく傷つけ、徳川に尻尾を振った兼続に失望していた。そして、その実頼が伏見で使者を斬ったとの知らせが届いた。兼続は実頼を厳しく罰することに決めた。

慶長十九年。徳川家康は大坂攻めの陣触れを発した。上杉軍もこれに加わる。この戦いには真田幸村も敵として出てきている。

兼続は部門の意地を示した後に、上杉家を存続させることに義を見いだし、真田幸村は形勢不利な豊臣方につくことで、清冽な義の花を咲かせようとしていた。

直江山城守兼続は大坂の陣から四年後の元和五年(一六一九)十二月十九日に江戸桜田の鱗屋敷で六十年の生涯を閉じた。

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本書について

火坂雅志
天地人(下)
NHK出版 約四一五頁
戦国時代
主人公:直江兼続

目次

第十一章 兼続と幸村
第十二章 上洛
第十三章 山城守
第十四章 家康
第十五章 男と女
第十六章 会津へ
第十七章 戦雲
第十八章 北の城塞
第十九章 決戦
第二十章 生きる
第二十一章 愛
あとがき

登場人物

直江山城守兼続
お船(おせん)…兼続の妻
お松…娘
平八景明…息子
大国(小国)与七実頼…兼続の弟
樋口惣右衛門兼豊…兼続、実頼兄弟の父
上杉喜平次景勝…兼続の主君、謙信の養子
菊姫…景勝の妻、武田勝頼の妹
泉沢又五郎久秀
上条政繁…上杉家一門
千坂対馬守景親
一志大夫…カラス組
仙桃院…謙信の姉、景勝の母
真田幸村
木猿
真田昌幸…幸村の父
初音
鈴音…初音の妹
新発田重家
羽柴秀吉
石田三成
前田利家
前田慶次郎利太
立花宗茂
千利休
お涼…千利休の娘
徳川家康
本多正信
本多政重…本多正信の次男、直江兼続の娘・お松と結婚し、一時兼続の養子となる
伊達政宗

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