19世紀初頭-文化・文政時代

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文化・文政期は文化が1804年から1817年、文政が1818年から1829年までとなる。

将軍は十一代徳川家斉。(ちなみに、家斉は天保八年(1837年)に将軍職を家慶に譲るが、実権を手放さなかった。そのため大御所時代と呼ばれる。)

松平定信が老中を辞職した後だったが、寛政の遺老と称される松平信明(のぶあきら)らにより、寛政の改革の路線が引き継がれた。

だが、これも文政元年(1818年)に水野忠成(ただあきら)が老中になると大きく転換する事になる。

水野忠成は寛政の改革以来の緊縮財政で行き詰まった政策を、銀の含有量を減らし、品位を落とした文政小判のを鋳造する事によって、550万両の出目を生み出して幕府財政を一時的に潤した。

だが、質の悪い通貨の流通によって、物価が上昇するという問題が起きる。

しかし、商品経済を刺激する事にはなり、都市を中心とした化政文化が花開く事となる。

関東周辺では貨幣経済の浸透とともに、交通・流通の要衝が町場化していた。また幕領と私領が複雑に入り組んでいたため、無宿者や博徒が逃げ込みやすい場所となっていた。それを取り締まるために、勘定奉行の配下として通称・八州廻りとよばれる関東取締出役を設けて取締に当たらせた。

また、補完するために、文政10年(1827年)には幕領と私領の区別なく村々で組合を作らせ治安や風俗の取締にあたらせる寄場組合を作らせている。

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