司馬遼太郎の「街道をゆく 十津川街道」第12巻を読んだ感想とあらすじ

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覚書/感想/コメント


★★★★★★★☆☆☆

五條・大塔村

坂本竜馬の死に関して、十津川郷の者が登場する。もちろん、十津川郷の者が殺したのではない。そう名乗った者が坂本竜馬を殺したのだ。

だが、竜馬はその者を十津川郷と名乗ったことで見方と信じた節がある。

幕末に、反幕勢力をなしていた集団に、「十津川郷士」という小さな集団がいた。苗字を名乗り、帯刀し、士装していた。本来百姓身分だが、一概には農民とは言い難い部分もあったようだ。

自治が行われ、十津川郷は十津川郷民によって治められていた。代表者が時々盆地におり、五条代官所に出頭して報告することになっていた。

十津川というのは、年貢を納めなくていい御赦免の地でもあった。要するに米がとれないからやむなく免租地にしたわけである。この免租の歴史は古く、伝説では天武天皇によって免租されたという。

徳川期になっては、大和盆地の大半が天領となり、この十津川郷も天領となった。免租地であるのは変らなかった。

十津川郷は平安朝末期の保元の乱に出た形跡がある。また、南北朝の乱にも南朝方として加担する。その後、大坂冬の陣にも出てくる。

平素は忘れられているが、中央でなにか政権を争う合戦が行われる場合、兵が呼ばれる、一種の兵力の貯蔵地のようなものではなかったかと司馬遼太郎が述べているのは面白い。

皇紀というものがある。神武天皇の即位の年を紀元とするものだ。日本書紀が上代を建国を古くするため荒唐無稽な年代の引き延ばしをしていたことは、江戸時代のおいて本居宣長らが疑問を提出しており、大正初年に津田左右吉博士も決定的な批判を加えているそうだ。

江戸時代においてすでに疑問が提出されているにもかかわらず、明治五年に無知な官員どもが紀元をさだめ布告した。その後、この見解はあらたまることなく、建国記念日として昭和四十二年に紀元節が復活したことを司馬氏は憤っている。

十津川

十津川郷は一種の所領関係の空白地帯であったと司馬氏は考えているようだ。統一を持ち込もうとする勢力と戦ってかちえたものではなく、置き捨てられたためであろうと推測している。

戦等で外と接触するのは、一貫して自分たちの伝統のままに置き捨ててもらいということであり、その保証の取り付け、つまりは安堵のためではなかったか。

明治二十二年。大豪雨による水害で、地形が変るほどの被害を受けた。その後、被災者の一部が北海道に移住し、新十津川村をつくることになる。

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本書について

司馬遼太郎
街道をゆく12
十津川街道
朝日文庫
約一七〇頁

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目次

五條・大塔村
 中井庄五郎のことなど
 五條へ
 下界への懸橋
 「十津川」の散見
 天辻峠
 続・天辻峠
 大塔村
 辻堂

十津川
 十津川へ入る
 村役場
 安堵の果て
 新選組に追われた話
 刺客たち
 廊下の変事
 文武館今昔
 トチの実

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