司馬遼太郎の「街道をゆく 信州佐久平みち ほか」第9巻を読んだ感想とあらすじ

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覚書/感想/コメント

★★★★★★★☆☆☆

潟のみちでは、新潟を旅している。ここでは木崎村での事例をとりあげ、凄まじい執念で稲を育て続けてきた農民の姿を描いている。

潟のみち

律令体制は貴族や寺院のためにあった。そして、全国の農民は「公民」の名の下に公田に縛り付けられ、働く機械のように扱われた。律令体制は広義の奴隷体制だったともいえる。

だから、租税を納められなくて逃散することもある。関東や奥州へ流れるばかりでなく、山の中というのも逃亡先として悪くなかった。

明治維新直後、太政官の財政基礎は徳川幕府同様に米穀だった。徳川家の直轄領を没収したので、ほぼ六百万石から八百万石の所帯があったようだ。

だが、この米穀を財政の基礎としていることに疑問の声があがる。そして、金納制となるが、農民は弥生式稲作以来、商品経済とはあまりかかわらずにきている。

たまったものではなかった。米穀を金に換える力などなかった。そこで、金納の能力を持つ大地主をさがしだし、安い金で土地を買ってもらったりした。小作化したのだ。

播州揖保川・室津みち

黒田官兵衛。居城である姫路城を秀吉にあけわたし、姫路の北方十里の山里の山崎に移った。自分の賭けにたいするこれほどの思い切った態度や感覚は、ひとつには官兵衛の祖父が目薬の商人だったということに関係しているのかもしれないという。

本願寺はいまでも門徒勢力の強かった土地については国名を冠して特別に呼んでいるそうだ。加賀門徒、三河門徒、播州門徒、安芸門徒の四大勢力に東海門徒がある。

加賀一向一揆は室町末期に加賀の守護大名の富樫氏を無用の者として追い出し、本願寺僧と門徒、地侍による共和制を二十年もつづけたという点で極めて特徴的である。

播州でもほぼ織田につくことが決まっていたにもかかわらず直前で毛利側に鞍替えしたのは、当時織田が本願寺と対立しており、門徒が何らかのかたちで動いたためかもしれないとしている。

古代出雲の勢力圏は、現在の島根県東半分よりもはるかに大きかった。因幡、丹波、但馬、播磨などもその勢力圏だったのは間違いない。

日本の古い神道信仰にはもともと社殿がなかった。山一つを神体としたり、磐を神体としたりして、拝殿すらなかった。これが、社殿を持つのは仏教の渡来とともに中国式建築がもたらされた影響が大きいのではないかという。

高野山みち

九度山とは町の名で、山の名前ではないそうだ。私はてっきり山の名前だとばかり思っていたのだが…。

九度山といえば真田昌幸と幸村親子が関ヶ原のあと配流された地としてしられる。昌幸はこの地で亡くなり、幸村はここから脱出して大坂城へ入城する。

真田氏は信州では有力な地侍だった。武田信玄の勢力が信州に伸びると傘下に入り被官になった。

その真田氏の中で昌幸は関ヶ原を好機とした。この二人を東西に配置したのは、昌幸の保守的な算段で、露骨な計算がいかにも戦国を生き抜いた男という感じがするといっている。

結局は敗れ九度山に配流されるのだが、ここで真田紐とよばれる信濃風の組紐を打ったりして過ごした。また幸村は焼酎が好きだったようで、手紙が残っているそうである。

信州佐久平みち

滋野氏という氏族がいた。源平の頃には名家といわれる程度に衰弱し、勢威は海野氏に取って代わられる。海野氏は箔をつけるため、滋野氏の支族と称したそうだ。六連銭の家紋は海野氏の頃から使われていたらしい。

真田氏は、上田盆地の東北の真田村から興った。海野氏の支族であるのはまちがいなく、従って真田氏も滋野系図をかかげていた。

海野氏は武田信玄の父・武田信虎の信州入りの時に滅ぼされている。真田昌幸の父・幸隆の時代である。この時に幸隆は真田郷を失い、上州へのがれた。そして、武田家に属し、先祖以来の真田郷を復した。

真田氏の栄光は昌幸によって樹立されたといってよい。昌幸は上方で勃興した豊臣家に隋身するが、一つには近隣の家康が嫌いで、これを豊臣家に牽制してもらいたかったことによる。

日本は軍事において、寡をもって衆に勝つという曲芸じみたものを正統とする風がある。そのくせ、明治以前の戦史ではその好例はすくなかった。せいぜい源義経、楠木正成、真田昌幸の例があるくらいである。

この三人の中でも、昌幸は知略的にもっともすぐれていると司馬遼太郎氏はベタ褒めである。

天台宗を興した最澄は入唐して天台教学の体系を持ち帰ったが、密教については越州に寄った時、そこにあった田舎密教を持ち帰っただけだった。だが、宮廷人たちは天台教学よりむしろ密教の方に興味を示した。

同じ頃に入唐した空海は長安で正密の法統を承け、帰国した。最澄は空海から密教を学ぼうとしたが、上手くいかなかった。

最澄は前半生において恵まれ、後半生においては稔りのない抗争にひきこまれて肝心の教学面では何もしていないに等しいが、後継者に恵まれた。

対して、空海の教学は後継者によって発展しなかった。それは、空海が発展する余地がないほどに生前に完璧なものにしてしまったからである。

最澄の死後、円仁が巨大である。彼もまた入唐し、最澄が生前苦にしていた希薄な密教体系を充実させることに成功する。

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本書について

司馬遼太郎
街道をゆく9
信州佐久平みち ほか
朝日文庫
約三一五頁

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目次

潟のみち
 渟足柵と亀田郷
 佐久間象山の詩
 「郷」というもの
 潟の中の小さな幕府
 鳥屋野潟風景
 滄桑の変
 木崎村今昔
 七十五年の藤
 人の世のこと
 山中の廃村
 小さな隠れ里

播州揖保川・室津みち
 播州門徒
 底つ磐根
 鶏籠山
 樽と琴の音
 七曲
 古き塚の狐
 花のことども
 岬の古社
 一文不知

高野山みち
 真田庵
 政所・慈尊院
 高野聖
 森の青蛙
 谷々の聖たち
 沙羅双樹

信州佐久平みち
 しなの木と坂
 上田の六文銭
 捨聖一遍
 山寺の中の浮世絵
 千曲川点景
 小波だつ川瀬
 延喜式の御牧
 望月の御牧

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