海音寺潮五郎の「覇者の條件」を読んだ感想とあらすじ

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覚書/感想/コメント

★★★★★★★☆☆☆

「争覇と治国」は経営者の参考になるような武将の伝記を書いてくれという注文から書かれたものであり、「平将門とその時代」はNHK大河ドラマ「風と雲と虹と」の原作となる小説「平将門」「海と風と虹と」に関して行われた座談会や談話筆記などから選んだものである。

文中で度々登場するのが「マキャベリズム」である。意味合いとしては、どんな手段(たとえ非道徳的行為であっても)でも、国家の利益になるなら許されるとする考え方。もしくは、目的のためには手段を選ばない、権謀術数主義を意味している。

「平将門とその時代」には面白い記述がいくつかある。

海音寺潮五郎は正義感の強い人間が大好きだといっている。西郷隆盛や上杉謙信が好きなのも正義感の強い人間だからである。同じように平将門にも正義感の強さを感じていたようである。

また、真山青果の戯曲「平将門」に大変感心し、感動したようである。

変わったところで面白いのは、忍者や能楽の元祖を傀儡に求めている点にある。その理由も書かれているが、どうして海音寺潮五郎がそのように考えたのかは本書で確認いただきたい。

【ピックアップ】

「争覇と治国」

平清盛:源氏が栄えた頃は、藤原北家の全盛期であり、その爪牙としての役目が源氏にあった。その後、院政に移ると、院政側にも爪牙の役目を果たすものが欲しい。ここで白羽の矢が立ったのが平氏であった。

徐々に力をつけていく平氏の中で、清盛は先祖伝来の経営的手腕を縦横にふるって富を飛躍的に増大させることに成功する。

源頼朝:平家全盛にあり、おそらくは平家にたてつくつもりのなかった頼朝は、病的なまでに警戒心が強かった。その頼朝が挙兵したのは追いつめられたからであろう。その病的なまでの警戒心はやがては血縁者を全部殺してしまうことになり、源氏の没落を招くことになる。

北条泰時:執権体制を確立したのは泰時の時代である。泰時は幼少から思慮が周密で、情け深い性質だった。クローズアップされるようになったのは承久の乱からである。

やがて、高弁(明恵上人)の教えを受け、それを実践するようになる。高弁の教えは「…政治が上手くいかんのは、政をなす者に欲心があるからである。政治家が最も慎まなければならないのは欲である。欲があれば禍がなんぼでも起きる。」というものである。

足利尊氏:足利尊氏は評価の乱高下の激しい人間である。戦前には逆賊として見られていたかと思えば、戦後は達眼の人とされた。尊氏は幕府体制を望む武士勢力に後押しをさて、天下を勝ち得た。朝廷の政治はその論功行賞の失敗によって、短期で終わらざるをえなかったのだ。

だが、尊氏が名将であるかというと、疑問がある。というのも、尊氏は大盤振る舞いに所領を与え、結果として将軍家よりも広大な領地を持つ大名を生む結果となり、相対的に将軍家の地位を弱めたからである。

北条早雲:戦国時代の走りとなるのは北条早雲である。一介の浪人から興国寺城主になると、民政に注意して民をなつけ、生活を倹約して金をためた。民政と経済の二つを巧みにやれば、軍備は自然と整ってくるものである。

武田信玄:士民の心を得ていない父・信虎を追放した武田信玄。生涯を通じてみれば、ドライで利欲追求の念の旺盛な人であったように思われる。戦は上手であり、政治手腕も卓抜であった。

毛利元就:戦国時代の武将で名将といわれる人間はスパイ使用にたけているが、元就ほどの人間はいない。縦横自在、神技といってもよい。また、元就は腹黒い人間でもあった。そのくせ世間の人間にはいかにも篤実な印象を与えていた。

そして律儀な大将というのが、当時の評判でもあった。彼は陰険と律儀の両方を巧みに使い分けたのだ。平生の篤実ぶりがなければ権謀術数も生きないのだ。

織田信長:信長の新しさはその徹底した合理主義者であったところにあるだろう。それを証明するのは、宗教に対する態度である。当時の仏教が矛盾と撞着に満ちているのと、仏僧の虚偽に満ちた我欲旺盛な生活が我慢できなかった。そして、仏教に対しては苛烈な態度をとるに至る。

徳川家康:時代は必要とする人間を求める。徳川家康はそういう人物だった。彼が成功者要素としては、優秀な家臣軍を得ていたこと、本人の用心深い性質、最も勇気のある武将であったこと、最も賢い人間であったこと、マキャベリズムと誠実さを兼ね備えていたことである。である。

用心深さは橋を二度も三度もたたく具合である。かといって信義にあついわけでもない。相手が弱ければすぐに反故にするところがあった。

野中兼山:江戸初期の土佐藩の家老。兼山の政治の精神は儒学にあった。江戸初期において、儒学が盛んになったのは、儒学が政治学と思われていたからである。「その方共の子孫のためだ」と強行した。このようにして、観念に徹しすぎ、民に対するいたわりが足りなかった。

細川重賢:肥後の細川家藩主。徳川九代家重の時代、細川家の貧乏は深刻であった。財政の立て直しが急務であった。重賢は独裁権を強化し、堀平太左衛門勝名を大奉行として官制を改革、検地と立て直しを進めていく。並行して教学にも力を入れた。

上杉鷹山:鷹山は純なる儒教の方法で政治を行っていった。そうせざるを得ない事情もあったが、珍重すべきであることにはかわりはない。その代わり、時間はかかった。完全に財政の立て直しができたのは、鷹山が亡くなった翌年で、五十五年かかっている。

「平将門とその時代」

平安時代の始めから平将門・藤原純友の乱が起きるまでの時代の風俗はよく分からない。貴族の服装からして分からないのだ。現物はもちろん、絵も残っていない。

貴族すら分からないから、庶民の生活など一層分からない。だから、推測によってこの当時を考えるしかないのである。

…平将門の反乱は必然の現象であったと見る。将門は藤原氏が私物化している朝廷に反逆したのであり、公家政治から武家政治に移行する過程における必然の現象であったのだ。

…財閥の住友。元来伊予の人間で、藤原純友の子孫と名乗っていた。つまり、将門が関東で明神として神であったのと同様に、伊予においては大英雄だったのだ。

…将門を巡る家系図は不明な点が多い。まず年齢がはっきりしない。それというのも、平氏の系図は「群書類従」にもいくつかあるが、みんな違っているように、系図自体が当てにならないためである。

承平天慶の乱を扱った小説

平将門

海と風と虹と

絶海にあらず

本書について

海音寺潮五郎
覇者の條件
文春文庫 約二四五頁
列伝と対談

目次

争覇と治国
 平清盛
 源頼朝
 北条泰時
 足利尊氏
 北条早雲
 武田信玄
 毛利元就
 織田信長
 徳川家康
 野中兼三
 細川重賢
 上杉鷹山
平将門とその時代
 「平将門」の舞台
 将門と日本人の反逆精神
 わたしの将門と純友
 鼎談 平将門を語る

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