中山勘解由直守:鬼勘解由と称された盗賊改・火附改

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略歴

中山勘解由直守(なかやま・かげゆ・なおもり)

寛永10年(1633年)―貞享4年(1687年)

江戸時代の旗本。通称は勘解由。官位は従五位下丹後守。中山照守の孫。中山直定の嫡男。正室は大久保教隆の娘。子に直房、直安、直大、直温。甥は上野沼田藩主の黒田直邦。遠縁に常陸松岡藩主の中山信吉がいる。

大身旗本・中山直定の嫡男として生まれる。父・直定の代に武蔵、上総、下総の三国に3,000石得て、直守の代に1,000石加増された。

初代・火附改

放火犯を取り締まる火附改が置かれたのは、盗賊改から18年後の天和3年(1683年)である。この頃、押し込み強盗の前後に放火する犯行が多発し、町奉行所と盗賊改だけでは足りず、放火を取り締まる専任の役職が設けられた。

最初の火附改が5代将軍徳川綱吉の時代に先手筒頭の中山勘解由直守(一説には息子の直房)が命じられた。盗賊改は岡野平兵衛房勝が命じられている。中山家と岡野家は、ともに祖父が北条氏の支城を守っていた武士だった。

中山勘解由は仏心の篤い人物だったそうだが、火附改を命じられると、二人の息子を前に、今日からは慈悲では治まらぬ、と父祖代々の位牌をまつる仏壇を叩き壊したという。中山勘解由の取り締まりは厳しく、庶民だけでなく、武士にも恐れられ、「鬼勘解由」「鬼勘」と呼ばれた。

八百屋お七がボヤをおこして捕まったのは、中山勘解由が火附改になったばかりの時だった。

海老責

天和3年(1683年)鶉権兵衛一味を捕縛した。中山勘解由が必死で追っていた盗賊だった。勘解由は拷問をためらわず、結審が早いことで知られていた。だが、鶉権兵衛はこれまでの犯行や仲間の居場所を聞き出すためじっくり責めた。そして、その時に自身が考案した「海老責」で拷問した。

かぶき者一掃

当時の江戸には盗賊・放火犯とは異なる厄介者がいた。「かぶき者」と呼ばれる暴漢たちである。「町奴」とか「男伊達」と呼ばれる新種のかぶき者も生まれた。旗本奴に対抗して、町人の見方を気取ったが、定職がなく博打とけんかに明け暮れ、町人に難儀をかけるものが多かった。中山勘解由はこのかぶき者一掃に活躍した。

貞享3年(1686年)。徳川綱吉の天和の治。町奉行は北条氏平、甲斐庄正親、盗賊改は山岡十兵衛。

大小神祇組は3000石の旗本水野十郎左衛門が首領だった旗本奴の徒党で、水野は22年前に切腹させられていたが、徒党が残っていた。

中山勘解由は大小神祇組にかぎらず、旗本奴・町奴を問わず、かたっぱしからしょっ引いた。そしてリーダー格11名を斬罪にした。徳川家康の時代から100年近く一掃できなかったかぶき者を一掃したのだった。この3か月後、火附改を退任する。

かぶき者という無頼漢を捕らえて息の根を止めた功績により、大目付に栄進し、従五位下・丹波守に叙任される。

相役だった盗賊改の山岡十兵衛が長崎奉行になり、それまで番方(武官)の行き止まりと思われていた先手頭に跳躍台のポストとして認知されるようになる。

略年表

正保2年(1645年)先手組弓頭であった父直定が没し、13歳で家督を継ぐ。小姓組番士、徒頭を歴任。
寛文3年(1663年)先手組鉄砲組頭。
天和2年(1682年)500石を加増。
天和3年(1683年)盗賊追捕の役(盗賊改)を任ぜられた。また同日、火付人を召し取る役(のちの火付改)に任ぜられた。(命ぜられたのは息子の直房という説もある)
貞享元年(1684年)大目付。同年に従五位下丹後守に叙任。
貞享3年(1686年)大小神祇組を取り締まった。
貞享4年(1687年)没。享年55。