根岸肥前守鎮衛:「耳袋」の著者で刺青の噂のあった名南町奉行

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名南町奉行

根岸肥前守鎮衛(ねぎし・ひぜんのかみ・やすもり)もしくは(しずもり)。

元文2年(1737年)―文化12年11月4日(1815年)(79歳)

江戸時代中期から後期にかけての旗本で、将軍は徳川家重→徳川家治→徳川家斉の時代である。ちょうど田沼時代と寛政の改革の時代に活躍した人物である。

南町奉行の在位は18年におよんだ。世情に詳しい町奉行として知られ、いろんな逸話がある。

小禄の御家人から始まり、最後は1,000石の旗本にまでなった。異例の出世をした人物でもあった。それだけ能吏だった。出世は、江戸幕府評定所留役から始まり、勘定組頭→勘定吟味役→佐渡奉行→勘定奉行→南町奉行と重ねていく。

田沼意次に認められ、その後は政争に巻き込まれることなく、松平定信にも認められ出世している。

異例の出世をした人物ではあったが、それだけでなく、臥煙出身(山田三川「想古録」)で全身に入れ墨があったが役人にふさわしくないだろうということで人に見られないように注意していた(漢学者の塩谷宕陰)という噂もあった。

同じく刺青の噂のあった遠山の金さんこと遠山金四郎景元が後の天保の改革の時代に活躍した人物なので、刺青奉行の先駆けと言っていいかもしれない。両者とも世情にたけた名奉行であったことは共通している。

鎮衛は名町奉行としてだけでなく、その著作でも有名であり、むしろこれがために有名かもしれない。

著作は、鎮衛が佐渡奉行であった天明5年(1785年)頃から亡くなる直前までの30年以上にわたって書き続けた「耳袋(耳嚢)」である。

全10巻1000編になる随筆集で、同僚や古老から聞き取った珍談・奇談が記録されている。怪談と思われる人もいるかもしれないが、必ずしもそうではない。

将軍家も楽しみにしていたらしい。毎年最初の話は艶話を交えていたが、今年のものはまだできないのかという督促をしたという話もある。

墓所は東京都港区六本木善学寺。神奈川県相模原市(旧相模湖町)にも鎮衛の父定洪の生家一族が守る鎮衛の墓石がある。

下級幕吏出身のくだけた人物のため、大岡忠相や遠山景元とはまた違った意味で講談で注目を集め小説などの題材となっている。

生涯

父は安生太左衛門定洪。家禄は150俵の旗本だったようだ。その三男とされる。

風野真知雄氏の「耳袋秘帖 第2巻 八丁堀同心殺人事件」では、浪人の子としている。幼名は河野銕蔵で、母が安生定洪の後添いとなり、安生姓になった。

宝暦八年(1758年)、家禄150俵の旗本・根岸家の当主・根岸衛規が実子も養子もないまま危篤になった。、

根岸衛規は30歳だったそうだ。定洪は根岸家の御家人株を買収し、二十二歳の鎮衛を衛規の末期養子として、根岸家の家督を継がせた。

前述の風野真知雄氏の「耳袋秘帖 第2巻 八丁堀同心殺人事件」によれば、年頃になって安生家に寄りつかなくなり、無頼の生活を送ったそうだ。そうした生活をしているときに、蔵前の米相場で金を稼ぎ、二十二歳の頃に御家人の根岸家の株を買ったという。

江戸時代も中期を過ぎると御家人の資格は金銭で売買されるようになっていた。こうして売買される御家人の資格を御家人株という。

御家人株は高額で、良く知られるところでは勝海舟の家も曾祖父の男谷検校が子の為に男谷家の御家人株を買って旗本となったが、小禄にも関わらず高額だったという。

男谷検校は一代で財を成した人物だが、それをしても高額だったというのだから、鎮衛は定洪の実子ではなく、富裕な町家か豪農出身だという説が出てくる。

それはともかくとして、鎮衛が根岸家を継ぐと同時に勘定所の御勘定という中級幕吏になった。

これも、相続と同時に役にありついていることに、金銭の授受があったのではないかと考える向きもあり、やはり富裕な町家か豪農出身だという説が捨てきれないことになる。

相続の時点で、根岸家が小普請組だったかどうかによって事情は大きく変わる。小普請組だった場合、そもそも役職にありつくこと自体が大変になるからだ。小普請組だったとすると、何らかの意思が働くように働きかけたとしてもおかしくはない。

その後順調に出世する。宝暦十三年(1763年)に評定所留役、明和五年(1768年)に勘定組頭、安永五年(1776年)に勘定吟味役。、

勘定吟味役になったことで布衣を着ることを許された。六位相当になる。

天明三年の浅間山噴火(天明噴火)の対応が評価され、天明四年(1784年)に佐渡奉行に昇格する。

この時期はちょうど田沼時代だったが、佐渡奉行という遠国奉行に昇格したのが幸いしたのかもしれない。

天明の大飢饉、天明の打ちこわしなどがあり、天明六年に田沼意次が失脚する。代わりに松平定信が老中首座となるが、政変に巻き込まれなかった。

松平定信の時代になっても鎮衛は高い能力を買われ、天明七年(1787年)に勘定奉行に抜擢される。

寛政十年(1798年)には南町奉行になり、文化十二年(1815年)まで十八年にわたって務めた。ここまで長いのは、大岡忠相の二十年というのを除いて類がない。

根岸肥前守鎮衛が南町奉行に就任したのは六十二歳。そこから足かけ十八年も奉行の地位にあった。江戸時代といえども、長寿の人はそれなりに多かったが、「耳袋秘帖 第3巻 浅草妖刀殺人事件」によれば、根岸肥前守鎮衛の健康法は、佐渡奉行をしている時に知った「宗右衛門の井戸」という名水をよく飲むことだったという。「宗右衛門の井戸」の水は一日一升を飲めば万病を寄せ付けないと言われている。それを一升五合(約2.7リットル)ほど飲むことだったそうだ。

逸話

例えば。

江戸川では船河原橋より上流での鯉漁が禁じられていたが、船河原橋の下で鯉を捕った者がいるという訴えがあったそうだ。だが鎮衛は船河原橋の下というのが、船河原橋より下流ということだろうとして、訴えを退けたそうだ。

また、ある年には、船が橋にぶつかって橋を壊したという事件があり、船が橋を壊したのだから橋の修理費は船の持ち主が負担してほしいという訴えがあった。

鎮衛は橋の所有者に、天災だから我慢しろと諭したが、頑として譲らなかったので、船が橋を壊したのだから、橋の修理は船の持ち主が行い、船が壊れたのは、橋があったからなので、橋の所有者が船の修理をするようにと裁決した。

慌てたのは橋の所有者で、橋の修理費よりも船の修理費の方がかかるので、訴えを取り下げた。

はたまた、町家から寺相手に茶漬け飯の売掛金として50両を請求したというのがあり、茶漬けの代金で50両というのは高すぎると、北町奉行が疑問を持っていると、南町奉行であった鎮衛は、町家は一体どこにあるのだと聞き、湯島天神前だと知ると、子供の踊りを見過ぎたのだろうと言った。

湯島には男色を売りにする茶屋があり、子供踊りと称していたので、僧侶の方が顔を赤くして売掛金をすぐに払ったという。

頼まれごとも多かったようだが、気軽に引き受けて、後日、自分は年寄りなもので、とかく物忘れが激しい、だから忘れたら堪忍しろといって、何もしなかったそうだ。

似た話で、推挙を頼まれることも多く、これも気軽に引き受けたそうだが、何もしなかったという。

家族には、才能ある人物は、きちんと長年努力すれば、自ずと地位は向上するので、自分が何かをしてやる必要はない、と言っていたそうだ。

略年表

元文2年(1737年)生まれ
宝暦8年(1758年)根岸家の家督を継ぎ、勘定所御勘定となる(家禄150俵)
宝暦13年(1763年)評定所留役
明和5年(1768年)勘定組頭
安永5年(1776年)勘定吟味役(布衣となる)
天明4年(1784年)佐渡奉行(加増(50俵)家禄200俵)
天明7年(1787年)勘定奉行(加増(300石)家禄500石)、従五位下肥前守叙任
天明8年(1788年)道中奉行を兼任
寛政10年(1798年)南町奉行
文化12年(1815年)加増(500石)家禄1000石、死去享年79

同時代人

  1. 松平定信
  2. 長谷川平蔵宣以

主な登場作品

風野真知雄

風野真知雄

耳袋秘帖

  1. 赤鬼奉行根岸肥前
  2. 八丁堀同心殺人事件
  3. 浅草妖刀殺人事件
  4. 深川芸者殺人事件
  5. 谷中黒猫殺人事件
  6. 両国大相撲殺人事件
  7. 新宿魔族殺人事件
  8. 麻布暗闇坂殺人事件
  9. 人形町夕暮殺人事件
  10. 神楽坂迷い道殺人事件

耳袋秘帖 「殺人事件」シリーズ

  1. 王子狐火殺人事件
  2. 佃島渡し船殺人事件
  3. 日本橋時の鐘殺人事件
  4. 木場豪商殺人事件
  5. 湯島金魚殺人事件
  6. 馬喰町妖獣殺人事件

耳袋秘帖 「妖談」シリーズ

  1. 妖談うしろ猫
  2. 妖談かみそり尼
  3. 妖談しにん橋
  4. 妖談さかさ仏
  5. 妖談へらへら月
  6. 妖談ひときり傘
  7. 妖談うつろ舟

坂岡真

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  1. うぽっぽ同心十手綴り
  2. うぽっぽ同心十手綴り 恋文ながし
  3. うぽっぽ同心十手綴り 女殺し坂
  4. うぽっぽ同心十手綴り 凍て雲
  5. うぽっぽ同心十手綴り 藪雨
  6. うぽっぽ同心十手綴り 病み蛍
  7. うぽっぽ同心十手綴り かじけ鳥

平岩弓枝

平岩弓枝の「はやぶさ新八御用帳」シリーズ