中条兵庫頭長秀「中条流平法」兵法と言わずに平法と言うその心とは

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足利義満の剣術指南役

中条兵庫頭長秀(ちゅうじょう・ひょうごのかみ・ながひで)。生年不詳、元中元年(1384)頃没。兵庫助ともいう。

近世剣術諸流の三大源流の一つ念流に連なる、中条流平法(へいほう)の祖である。

中条家は、鎌倉幕府執権・北条氏の御家人となり、宿老や評定衆を務めた家柄であった。

父・景長(かげなが)は三河挙母(ころも)(現在の豊田市)の地頭職となり、36郷を支配した。延慶元年(1308)金谷城を築城した。

長秀は二男だが、長男の時長(ときなが)が奥州に移住したため、建武元年(1334)家督を継いでいる。

足利幕府になり、寺社造営奉行、評定衆、守護職などを歴任した。鎌倉にも住んだといわれている。

中条家には刺撃という刀術があり、3代将軍・足利義満の剣術師範を務めていた。

また、歌人としても名を残した。歌の師は僧の頓阿(とんな)(=二階堂貞宗)。

念流との出会い

通説では、長秀が鎌倉に住んでいるときに、鎌倉の寿福寺に立ち寄っていた念阿弥慈音(じおん)(念流の祖、俗名相馬四郎義元(そうましろうよしもと)に学んだとされる。

念阿弥慈音は念流の祖と言われ、近世剣術諸流の三大源流の一つとされている。長秀は「慈恩十四哲」の一人に数えられる。

長秀は、慈恩の数多い刀術を整理し、三十三とした。これに、家伝の刀術を合わせ、編んだので中条流というのだとされる。

だが、近年の研究では、中条流と念流は無関係とされる。「中条流伝書」は長秀の法名を誤認し、別人の源秀を長秀としてしまったのだという。

平法とは

中条流は兵法とはせずに、平法と称した。戦いをよしとはせず、剣はやむを得ない時のものとし、刀術の研鑽は平和を守ることであり、兵法は平法であらねばならないとした。

「平法とは、平の字、たいらかひとしと読み、無想剣に通じる。この心、何と云うなれば、平らかに一生事なきをもって第一とする。戦いを好むは道にあらず。止事を得ず時の太刀の手たるべき。武を練る国へは隣国も働かず。」(中条流平法口決)

中条流

中条流は6代将軍・足利義教の時に不興を買い、所領を没収されている。

越前(福井県)の守護・斯波氏の老臣・甲斐豊前守広景(かいぶぜんのかみひろかげ)に伝え、さらに大橋勘解由左衛門高能(かげゆざえもんたかよし)を経て、朝倉氏の臣富田九郎左衛門長家(ながいえ)に伝え、富田流と呼ばれたという。

中条流の流れとしては、富田勢源、富田一放(一放流祖)、長谷川宗喜(長谷川流祖)、鐘捲自斎通家(鐘捲流、外他(とだ)流祖)、伊藤一刀斎景久(一刀流祖)などが連なる。