司馬遼太郎の「竜馬がゆく」第1巻を読んだ感想とあらすじ(最高に面白い!)

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覚書/感想/コメント

★★★★★★★★★★
質・量ともに坂本龍馬伝の最高峰である。

坂本龍馬像を決定的なものにし、現在、龍馬を語る上で本書の影響を受けなかったものというのは皆無といってよく、また、坂本龍馬が好きだという人のほぼ全てが何らかの形で影響を受けている作品である。

そして、本書を越える龍馬像というのは、恐らく出てこないであろう。少なくとも私の生きている間にはあり得ないと思っている。

もちろん、新たな解釈や史料の発見などから、本書とは違った龍馬というものが描かれていくだろうし、より実像に近い龍馬像というのも描かれるのかもしれないが、魅力的な龍馬像ということになると、本書を越えるものは出てこないだろう。

ここまで歴史上の人物のイメージを固定化させた作品というのも珍しい。同じようにイメージを固定化させた作品といえば、すぐに思い出されるのが吉川英治氏の「宮本武蔵」像である。

吉川英治氏の「宮本武蔵」が書かれ始めたのは1935年であり、70年以上にわたって揺るがない宮本武蔵像を確立している。

「竜馬がゆく」は1962年に書かれ始め、半世紀近くが経とうとしている。同じく、まだまだ司馬遼太郎氏の確立した龍馬像は揺るぎそうもない。

第一巻で描かれているのは、坂本龍馬が十九歳から二十三歳までの頃である。
土佐から初めて江戸へ剣術修行に行く場面から始まる。

この時に龍馬の姉・乙女が縫い上げた装束は「中学海南学校」の制服となったという。紺の筒袖に紺の野ばかまというものだったそうだ。
龍馬の生まれた土佐は、侍の身分制度が複雑である。土佐には大きく分けて郷士と上士がいる。

郷士はもともと土佐をおさめていた長曽我部の家臣で、上士は山内一豊の家臣である。関ヶ原の戦いで長曽我部が西軍に属したため、長曽我部の家臣は掛川からやってきた山内家の家臣より一段下に置かれることになる。この上士と郷士の間に白札という準上士身分がある。

この身分制度の複雑さが幕末における土佐郷士たちの悲劇の原因となり、土佐藩の役割というものが長州や薩摩と異なったものとなるのである。こうした点は、物語の中で追々語られていくことになる。

さて、坂本家の家祖は明智左馬助光春とされる。明智滅亡後、庶子の太郎五郎が土佐に逃れ、長岡郡才谷村に住んで長曽我部の屯田兵とでもいうべき一領具足となる。

その後、四代目が高知本町筋三丁目にうつって酒造業を創業し、五代・六代と栄えた。七代目に稼業を弟に譲って郷士の格を買って武士に戻った。領地は百九十七石。禄高は十石四斗。
屋敷は本家の才谷屋と背中合わせになっている。

坂本の名は、左馬助は琵琶湖ほとりの坂本城に在城していたことからきており、家紋は明智の桔梗である。

小説(文庫全8巻)

内容/あらすじ/ネタバレ

あす坂本家の末っ子の竜馬が江戸へ剣術修行に旅立つ。竜馬の姉・乙女は針仕事で忙しい。

乙女はからだが並はずれて大きく五尺八寸は優にある。兄の権平や姉の千鶴がからかってお仁王様に似ているというものだから、高知城下では坂本のお仁王様といえば知らぬものはいない。

乙女は竜馬十二歳の時に母の幸子が死んでから、わずか三つ上ながらも竜馬の世話をしてきた。幼い頃の竜馬は手のかかった子であった。学塾に入れても、そこの師匠に見放される始末だったのだ。

竜馬は生まれた時から背中一面に繊毛がはえていた。馬でもないのにと父・八平が竜馬と名付けた。それに父譲りで近眼だった。

その竜馬が十四歳になり小栗流の道場をもつ日根野弁治のもとに通い始めてから顔つきが変わってきた。そして、この春十九歳になるまでに背丈も五尺八寸まで伸びた。剣の腕も上げ、小栗流の目録を得ていた。

嘉永六年三月十七日。坂本竜馬が江戸へたつ日が来た。

竜馬はむかしから人に挨拶をするという簡単な動作が出来ない。作法、儀礼という人の作った規則を受け付けないたちのようなのだ。だが、天性の愛嬌があり、人は不愉快に思わず、不愛嬌(すぼっこ)で通っている。

龍馬は左手を懐に入れて歩くのがくせである。左肩を少し落とし、一足一足軽く踏みしめるように歩く。

竜馬が旅立つと、程なくして乙女は山北という村の長崎帰りの蘭医・岡上新輔に嫁ぐことになっている。

数日して阿波の岡崎ノ浦についた。ここで土佐の家老・福岡宮内の娘・田鶴と一緒になった。竜馬は居心地が悪いので浜辺に逃げた。

福岡家と坂本家は家老と町郷士という関係だけでなく、藩の財政が不如意の場合に福岡家では坂本家の本家の才谷屋に借金に行くことが多い。

大坂に着いた竜馬をいきなり辻斬りが襲ってきた。その辻斬りは竜馬も見知っている岡田以蔵だった。後に人斬り以蔵と呼ばれることになる男だ。

以蔵は藩主の参勤交代について江戸に出たが、国許で老父が死んだため、土佐に戻る途中だったという。だが、途中で路銀が尽き、やむなく辻斬りをしたという。その最初の相手が竜馬だったというのだ。

これを聞いた竜馬は以蔵に金をポンと渡した。だが、渡したあとで竜馬は少々気が滅入った。
この後、一部始終を見ていたという男が竜馬に近づいてきた。寝待ノ藤兵衛と名乗った。稼業は泥棒だという。

この藤兵衛から以蔵のその後のことを聞き、竜馬は気が晴れた。
寝待ノ藤兵衛が竜馬を伏見の寺田屋に連れて行った。

後年、竜馬のために死を賭して面倒を見たつきあいがこの時に始まった。
寺田屋に妙な客がいる。この客が江戸へ向かう竜馬と寝待ノ藤兵衛の前にたびたび現われる。

途中で寝待ノ藤兵衛と別れた竜馬が江戸に着いた時には初夏になっていた。
江戸では内桜田の鍛冶橋御門の橋を渡った土佐藩下屋敷で草鞋を脱いだ。

竜馬の相住まいはアサリ河岸の桃井道場の塾頭・武市半平太であった。これを聞いて憂鬱になった。だが、現実主義者の竜馬と、理想主義者の半平太は、どこかでうまがあっていて、ひどく仲が良くなる。

竜馬は桶町の北辰一刀流千葉貞吉道場に入門した。入門に際し、竜馬より一つ上の千葉重太郎と立ち会った。技量は重太郎の方が一枚上手である。

この千葉道場にはさな子という娘がいる。貞吉の長女で、免許皆伝の腕があるといわれた。さな子は竜馬に秘かに好意を持っていた。

嘉永六年六月三日。アメリカのペリーが率いる四艦の黒船がやってきた。この瞬間から、日本史は一転して幕末の風雲時代に入る。

幕府は狼狽し、芝・品川に屋敷をもつ大名に海岸防備を命じた。土佐藩にも下命された。竜馬も半平太も品川藩邸に向かった。
幕末の風雲を包んだ攘夷論がはじまったのはこの時からだった。

竜馬は半平太に黒船の件を聞いた。後に土佐勤王党の首領となる半平太は黒船の要求する開港に反対だった。だから斬り伏せるのだという。だが、竜馬はその前に黒船に乗って動かしてみたいといった。

八月になり、警備態勢も解かれた。この時、寝待ノ藤兵衛が訪ねてきた。
藤兵衛は竜馬に人を斬って欲しいと頼んだ。相手は伏見の寺田屋で竜馬と藤兵衛を別の誰かに勘違いした男だ。

ここに小鶴という女がいる。本名は冴という。この冴の仇が件の男のようなのだ。男の名は信夫左馬之助という。

嘉永七年(安政元年)。竜馬も二十歳となった。
冴の一件以来、さな子の態度が冷たい。竜馬も内心辟易している。

こうした竜馬を家老の山田八右衛門が呼び出した。相州沿岸に警備陣を布いている長州藩陣地を探索してこいというのだ。
折しも、長州陣屋から使いがあり、剣術試合を催したいといってきている。

竜馬を呼び止めたのが斎藤弥九郎の練兵館塾頭・桂小五郎だった。長州藩陣地で何をしているのかというのだ。
小五郎は韮山代官江川太郎左衛門について測量をしていた。この道中で小五郎は西洋の事情を聞き、それまでの小五郎と一変した。

数日して、竜馬は桂小五郎の師匠である吉田松陰が密出国をしようとして幕吏に捕まったという噂を聞いた。

竜馬はひどく衝撃を受けた。風雲が動き始めているのだと思った。だが、ぼやぼやしてはおれぬ、とは思わなかった。おれはおれである。晩稲のおれはまだまだ学ぶべき事がいっぱいある。とりあえずは剣術だ。

黒船は嘉永七年六月一日に香港へ去ったが、攘夷論がやかましくなり、士人のあいだで幕政批判が流行した。
竜馬を千葉門での最高の剣位である大目録皆伝に進める下検分に千葉栄次郎と海保帆平が臨席していた。

竜馬の相手をするのは千葉重太郎だ。じつをいうと竜馬は重太郎と立ち会ってみて、相手がにわかに弱くなっているのに驚いた。竜馬が強くなりすぎたのだ。これは負けてやろうと竜馬は思った。

嘉永七年十一月四日。江戸、相模、伊豆、西日本各地を地震が襲った。この地震で土佐が壊滅したという。
この地震を土佐では寅の大変とよばれた。

竜馬は一年八ヶ月ぶりに帰郷した。想像していた以上に地震と津波の被害は大きかったが、城付近は大丈夫で、竜馬の実家も無事であった。

安政二年になり、竜馬は正月を土佐で過ごした。
その中、福岡田鶴が坂本家を訪ねてきた。竜馬に会いに来たのだ。

田鶴は竜馬と話している内に、いうにも事欠き、幕府を倒せといった。はっきりといったわけではないが、そういう意味にとれるようなことをいった。

この田鶴が京へ行くことになるという。輿入れというわけではないが、何の用でというのは話さなかった…。

土佐安芸郡に井ノ口村がある。人の気象がおそろしくあらい。その中の地下浪人に岩崎弥次郎、岩崎弥太郎という評判の悪い親子がいた。人気の悪い井ノ口村で毒虫のように恐れられていたというから、すさまじいものだ。

この岩崎親子の様子を見舞ってくれと竜馬は兄・権平からいわれた。岩崎家と坂本家は薄い縁でつながっていたらしい。
竜馬が江戸に着いたのはこの年の秋である。

安政三年も暮れ、晦日近くなって土佐から飛脚が到着した。父・八平が亡くなったという。五十四歳だった。死の直前まで竜馬を心配していたらしい。

この日から、安政四年にかけて竜馬の逸話がほとんどない。
程なくして竜馬は北辰一刀流の大目録皆伝を得て、桶町千葉道場の塾頭となった。二十三歳である。

この当時、長州の桂小五郎が斎藤弥九郎道場(神道無念流)の塾頭、土佐の武市半平太が京橋アサリ河岸の桃井春蔵(鏡心明智流)の塾頭であった。千葉、桃井、斎藤は当時の剣壇を三分する勢力だったが、それぞれの名門の塾頭を維新の立役者が占めたのは奇妙な偶然だった。
この秋、諸流選りすぐりの剣士による二度の大試合が江戸で行われ、竜馬はいずれにも出場することになった。

本書について

司馬遼太郎
竜馬がゆく1
文春文庫 約四四五頁
江戸幕末

目次

門出の花
お田鶴さま
江戸へ
千葉道場
黒船来
朱行燈
二十歳
淫蕩
寅の大変
悪弥太郎
江戸の夕映え
安政諸流試合

登場人物

坂本竜馬
坂本乙女…竜馬の姉、坂本家三女
坂本権平…竜馬の兄、坂本家嫡男
春猪…龍馬の姪、権平の娘
坂本八平…竜馬の父
源爺ちゃん
日根野弁治…小栗流道場主
福岡田鶴
はつ…田鶴の老女
七蔵…船の梶取
武市半平太
岡田以蔵…土佐の足軽
寝待ノ藤兵衛…泥棒
お登勢…寺田屋の女将
千葉貞吉
千葉重太郎…貞吉の息子
お八寸…重太郎の内儀
千葉さな子…貞吉の娘
千葉栄次郎…千葉周作次男
海保帆平
冴(小鶴)
信夫左馬之助
山田八右衛門…土佐藩家老
深尾甚内…組頭
益田越中…長州藩国家老
桂小五郎
吉田松陰
馬之助…焼継屋、後の新宮馬之助
岩本のお徳
岩崎弥太郎
吉田東洋